2007年7月16日(月)「しんぶん赤旗」

ゆうPress

暴行されたのは私と同じ人間だ

「慰安婦」裁判支えるネット 百数十人に成長


 中国の海南島で、旧日本軍の「慰安婦」として性奴隷にされた、被害女性の裁判支援に取り組む青年たちがいます。被害者に直接会った彼らが、その目に刻んだ歴史の事実とは。(平井真帆)


地図

心が壊れたまま生きてる

 支援グループの名前は、島の呼び名を取って「ハイナンネット」。2005年に発足し、「入るのも出るのも自由。代表者もとくに決めない自主的なネットワークです」と、結成当初からかかわっている金子美晴さん(31)は言います。

 海南島は中国最南端、九州ほどの大きさの島に漢民族など37の少数民族が暮らしています。ハワイと似た気候で一年中泳ぐことができ、リゾート地として人気の島です。

 今年の3月と6月、弁護士と精神科医が島を訪れ、裁判の原告となった被害女性の精神状態を調査しました。6月の調査にはネットのメンバーも同行しました。

 「ああいう人に初めて会った。小さくて、ガリガリにやせていて、目もうつろ。今までのつらい人生が、体に全部出ている」。調査に同行し、被害女性の話を直接聞いたメンバーの一人、しほさん(24)は衝撃を受けました。

 「過去なんだけど、今。過去がずっと続いている。心が壊れたまま生きてるんだ」。6人の原告のうち5人は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)よりもっと重い、「人格変容」などの症状を示しているといいます。

 聞き取りが終わった後メンバーは、被害女性の家まで行って、彼女たちの生活を垣間見ました。

 「日本軍に追われて、あの畑の中に隠れました」。被害女性が指さします。「こんな小さい体で、何人にも暴行されて、あそこに逃げたんだ」。リアルに想像するだけで、しほさんは胸が苦しくなりました。被害にあったのは、はるか遠い国の知らない「誰か」ではなく、「目の前にいる、自分と同じ人間なんだ」。この問題から目を背けることはできない。裁判を支援する気持ちが、いっそう強くなりました。

 1939年、海南島を占領した日本軍は住民を虐殺し、島の各地に「慰安所」をつくりました。そこで少女を拉致し、性奴隷にしたのです。

 被害女性が実名で告白するのは勇気がいります。名乗り出たため、「日本軍にレイプされたから男の子を産めない」などと蔑視(べっし)されることも多いといいます。

 女性たちが差別的な扱いを受けるのは、日本政府が正式に謝罪せず、「被害者」と認めていないことも大きな理由のひとつです。中国では、被害者が名乗りを上げ提訴したのは山西省と海南島の2カ所だけです。

 日本の歴史教科書からは「慰安婦」の文字が消え、安倍首相をはじめ政府は「強制ではなかった」などと開き直っています。

 それに対し、アメリカでは先月の下院外交委員会で、日本政府が「慰安婦」被害者に対し、公式に謝罪するよう求める決議案が採択されました。

笑って過ごしてほしい

 「国内でも世論を盛り上げて、私たちの力で日本政府に謝らせたい」。メンバー自らが大学の授業で「慰安婦」問題の「授業」をする「出張授業」も行っています。授業を受けた学生からは「『従軍慰安婦』問題を知らないということが、問題だと思う」「この問題を解決しないと、戦争は終わったことにならない」といった感想が寄せられました。

 たった数人から出発したハイナンネットは現在、百数十人規模のネットワークに発展しました。「ガラガラだった傍聴席が、今では若い人でいっぱいになる」と、金子さん。

 「若い私たちがこの問題を解決したいと思ってることを社会に伝えていけば、司法も変わっていくんじゃないかな」と、しほさんは感じています。「強制はなかった、なんてうそ。私たちは本人に直接、聞いたんです。被害にあったおばあちゃんたちには、残された時間、少しでも、笑って楽しい時間を過ごしてほしい。事実を知っている私たちは負けないし、絶対にあきらめない」

好きな子など思い至らない14歳のとき…

陳亜扁(チン・アヘン)さんの証言

 原告の一人、陳亜扁さんは、2006年3月に来日し、裁判で被害を証言しました。

 陳さんが、いつものように両親と田んぼで農作業をしていたある日。銃を持った日本軍が突然やってきて、陳さんを拉致しました。好きな男の子など、まだ「思いも至らない」ほど幼い14歳のときでした。

 日本軍の駐屯地に連れていかれ、カギがかかった平屋の一室に閉じ込められました。銃を持った見張りが立っていたので逃げられません。翌日から陳さんは連日のように犯され、抵抗するたびに殴られました。

 トイレにまで見張りが付いて連れ戻されるような自由のない生活。場所を転々と移され、多い日には数人からレイプされる毎日が、日本軍が引き揚げるまで続きました。

 終戦後、陳さんは結婚し、9回妊娠しましたが8回も流産しました。胎動を感じるまでに育った赤ちゃんをくり返し流産するうち、「自殺しよう」と考えたこともありました。

 病院で検査を受けると、何度も性暴力を受けたために子宮、骨盤の向きが変形してしまい、子どもが育たないことがわかりました。数年間、治療を続け、ようやく長女を出産することができました。

 陳さんは60年以上たった今でも日本軍に犯される悪夢に苦しんでいます。


 海南島戦時性暴力被害訴訟 戦時中に海南島で性暴力を受けた女性8人が、2001年、日本政府に対し戦後の対応について謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴。04年、戦時中の日本軍の加害行為も追及するため訴因を変更しました。東京地裁は06年8月、被害事実は認めたものの、「国家賠償法施行前で請求権がない。仮に請求権があっても、除斥期間が経過し、消滅した」として、請求を棄却。原告は控訴し、今年5月から東京高裁で控訴審が始まっています。

 この間、2人の原告が亡くなりました。


お悩みHunter

やりたい仕事が不明 就活に身が入らない

  大学3年になると、就職活動を始めなければいけないと思うのですが。自分に向いている仕事が何なのか、やりたいことが何なのか、よくわからないので、就活に身が入りません。それでも、できるだけ企業の面接には行ったほうがいいとは思うのですが。(21歳。女性。東京都)

就活しながら考えてもいい

  確かに、自分に向いている仕事は何か、やりたいことも何もわからないで就活に入らなければならないって苦しいですね。まるで、どこがゴールか知らずに、マラソンをスタートするようなものですから。

 でも、焦っても仕方ありません。ここから出発するしかないのです。

 自分は○○に向いていると意気込んで就活に精を出してみたものの、どうも違っていたようだと、後であわてる人も少なくありません。大学4年生の7月になっても決まらずに、疲れ切って自信をなくしたり、大学院への進学に切り替えたりする人もいます。また、希望の職業とは全く異なった職種に決めてしまう人も出てきます。

 「先生、もう疲れました。早く就活を終わりにしたいので、もうここに決めます」と報告にやって来る学生もいます。

 私は、どのタイプの学生もすばらしい就活をしたと思います。自分とは何か、自分はどう生き、何を実現したいのか。自分の職業的喜びは何なのか。エントリーシートに記入したり、会社訪問や面接などをくり返したりして、社会と向き合う中で厳しく問い続けざるを得ません。その中で、ひとまわりもふたまわりもたくましく自立した青年に成長していくのです。この“成長”こそ就活の財産です。とりあえず、就活しながら考えても、少しもおかしくありませんよ。自分を信じて行動してみませんか。


教育評論家 尾木 直樹さん

 法政大学キャリアデザイン学部教授。中高22年間の教員経験を生かし、調査研究、全国での講演活動等に取り組む。著書多数。



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