2007年3月15日(木)「しんぶん赤旗」

小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」のモデルは?


 〈問い〉 小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」を初めて読みました。多喜二はこの小説をどんな思いで書いたのでしょう。モデルはいたのですか?(東京・一読者)

〈答え〉 1928年(昭和3年)3月15日、天皇制政府は、全国いっせいに約1600人の日本共産党員と支持者を検挙し、野蛮な拷問を加えました。

 「銃後」をかためるために、侵略戦争反対をかかげる日本共産党を暴力で圧殺しようというねらいでした。事件を契機に、特別高等警察の拡充、治安維持法の死刑法への改悪、拷問の日常化と殺人行為への変質など、日本を破滅に導いた暗黒体制が一段と強まりました。

 小樽では、3月15日未明から、一カ月にわたって、200〜300人が逮捕、検束、召喚されたといわれます。小樽警察は、所長官舎に拷問室を急造し、毛布で窓をおおい防音し、毎夜一人ずつ、意識不明におちいるまで、拷問をくりかえし、発狂して病院に収容される者も出ていました。この様子は、多喜二にもくわしく伝わっていました。

 多喜二は、『防雪林』の原稿仕上げの作業を中断し5月末「一九二八年三月十五日」に着手しました。このときの気持ちを多喜二は後年、「一九二八年三月十五日」という文の中で次のように回想しています(『小林多喜二全集』第5巻)。

 「…半植民地的な拷問が、如何に残忍極まるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎意をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示をうけたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたゝきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」

 「この作品の後半になると、私は一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。

 そこは警察内の場面だった。書き出してからスラく書けてくると、私はその比類(!)ない内容に対して上ッすべりするような気がし、そこで筆をおくことにした」

 作中人物の腹案になった人びとの氏名については、「我がプロレタリア前衛の闘士に捧ぐ」という献詞のある多喜二のノート稿に、小樽警察の留置場周辺の見取図とともに次のように記されています。

 「龍吉―古川〔友一・市役所職員〕、渡―渡辺〔利右衛門・小樽合同労組組織部長〕、鈴本―鈴木〔源重・同労組執行委員長〕、阪西―大西〔喜一・同労組員〕、斎藤―鮒田〔勝治・同労組書記〕、高橋〔英力・同労組会計係〕、石田―X(理想的な人物に伊藤信二〔行員〕)、佐多―寺田〔行雄・新聞記者〕」

 (〔 〕内は編集注)

 「渡」への壮絶な拷問の描写は、渡辺利右衛門が実際に受けたものです。

 多喜二は虐殺されました。しかし、多喜二の火は私たちの胸に継がれています。(喜)

 〔2007・3・15(木)〕


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