日本共産党

2002年2月13日(水)「しんぶん赤旗」

二十一世紀を、志をもって生きよう

「青年のつどい」での不破議長の講演〈上〉


 東京・「青年のつどい」(十日)での、日本共産党の不破哲三議長の講演は次のとおりです。

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講演する不破哲三議長=10日

 みなさん、こんにちは。

 このような、若い人たちばかりの集まりというのは、久しぶりでありまして、みなさんとお会いすると、こちらもわくわくする気持ちです。

 きょうは、私たちが生きている時代とは、どんな時代なのか、そのことについて話したいと思います。

情勢を見るとき、物事の奥を見ることが大事

 この集会の前に、若い方々から寄せられたアンケート、さきほど紹介がありましたが、私も拝見しました。そのなかに「十年後の世界への期待度は」という質問があって、答えをみると、100%期待しているという方もいれば、10%程度という方もいましたが、期待度100%という人も、具体的な話になると実は心配ごとの方が多いんです。“結婚できているだろうか”という自分のこともありますが、いまの就職難はどうなるのか、日本はどうなっているか、世界は大丈夫かと、いろいろな心配が書かれていました。新しい世紀とはいうけれども、二十一世紀を迎えた若いみなさんの、複雑な気持ちがそこに表れていると感じました。

 世紀が変わるというのは、百年に一度しかないことです。もともとは、人間が勝手に百年ごとの区切りをつけただけですから、新しい世紀になったからといって、世の中が特別にガラッと変わるわけではないのですが、やはり、それは歴史の大事な区切り目で、二十世紀から二十一世紀になるという時には、新しい世紀にむかって、みんな、新しい希望や夢を燃やすものです。しかし、現実に目の前をみると、リストラで首をきられたとか、学校を出ても就職の見込みがないとか、政府のいまのやり方では、これからもあまりよいことはなさそうだとか、世紀が変わっても明るい展望など見えてこない、こういうことが、ずいぶんあると思います。

 そこで、私がまず最初に言いたいのは、新しい世紀を迎えて、いまの時代、いまの情勢を見るとき、二重のメガネといいましょうか、二つのメガネを持ってほしい、ということです。一つは、いま起きていることを、事実にもとづいてきちんと見極めるメガネです。もう一つは、その奥底になにがあるかということを、深く見る、そのメガネが大事なんです。

 なぜこれが大事かと言いますと、いま多くの若者が就職難にぶつかっています。実際、いまの日本には、リストラの風が吹き荒れていて、これから社会に出ようという若者がこんなにひどい就職難にさらされているという時代は、これまでの日本にほとんどなかったことです。この大もとには、政府や大企業のまちがったやり方があるのですが、では、みなさんがぶつかっているこの困難は、相手の側――政府・大企業の側がうんと強い力を持って、それでのしかかってきているのか、というと、そうではないんですね。相手の側の地盤が政治の上でも経済の上でも大きくぐらついていて、そこを何とかしようということで、攻めかけてきている。しかも、攻めかけてきている相手側自身、先の見通しを持っているのかというと、だれも自信がないのです。

 はっきりいって、いま、吹き荒れるリストラ、社会保障の連続の切り捨てなど、悪いことが横行している奥底にあるのは、日本の政治をにぎり経済をにぎっている勢力が、実は自分がたっている土台のたいへんなぐらつきに直面していて、国民に攻撃をしかけてくるが、自信ある先の見通しは持てないでいる、そういう事態です。

 どんな困難な問題のかげにも、実は、いまの時代の特徴が顔を出しています。これは実は、困難と同時に、世の中をまともに変える条件が大きくなっている、ということです。それが、新しい世紀を迎えた、いまの時代の特徴だということを、まずよく見てほしいと思います。

小泉内閣こそ、自民党政治の危機と破綻の現れ

 日本の政治を見てみましょう。去年の四月、小泉内閣が生まれました。支持率80%とか、時には90%だなどと言われ、“こんなに国民に支持された政府はない”と自民党は有頂天になりました。しかし、私は、はっきりいって、自民党結党以来の歴史のなかで、自民党政治のいちばん深い危機と破綻(はたん)を現しているのが、小泉内閣だ――これが物事の奥底にある真実だと思います。

 なぜ危機なのか。考えてみてください。小泉さんは、いままで自民党の総裁選挙に何回も出たが、勝てませんでした。では去年四月の総裁選挙では、何と言って勝ったのか。「自民党を変える」「自民党をつぶす」、こう叫んで、勝ったのです。国民のあいだで、自民党の政治がとことん評判が悪くなって、候補者が「自民党を変える」とか「自民党を倒す」とか言わないと、自民党の総大将を選ぶ総裁選挙でも、党員多数の支持を得られなくなった、ということです。自民党政治の危機が、ここまで深まった時代というのは、結党以来半世紀近くのあいだに、一度もなかったんですね。

 つまり、小泉内閣のこういう生まれ方自体が、長く日本の政治をにぎりつづけてきた自民党が、たいへんな危機のただなかにあることの、なによりの現れだったのです。

 しかも、二番目に大事なことは、小泉さんという人は、自民党の政治を変えるつもりなど、まったく持たない政治家だった、ということです。それは、これまで九カ月間やってきたことを見れば、わかるでしょう。

 安保・外交の問題で何をやりましたか。自民党のなかでも超タカ派の政治しかやってこなかったでしょう。日本が過去にアジア侵略の大戦争をやり、それを真剣に反省することは日本の政府が負うべき当然の責任なのに、あの戦争は正義の戦争だったという靖国神社に、内外の反対を押し切って参拝する、戦争をほめたたえた「歴史教科書」についても、中国や韓国からの批判をはねつける、これが小泉内閣です。アメリカとの関係では、世界から「属国」とまで言われている状態を反省するどころか、「私は根っからのアメリカ派だ」と言って、アメリカの注文のままに、自衛隊をインド洋にまで出しちゃった。これはどれも、いままでの自民党のなかのいちばんのタカ派が主張してきたこと、しかし、やりたくてもなかなかできなかったことを、やってのけたものです。このどこに「自民党を変える」話がありますか。

 国内政治では何をやっていますか。けさもテレビ討論会で、自民党の幹事長は、「小泉改革でいま最大の問題は医療改革だ」と強調していました。この「医療改革」というのは、何でしょう。職場の方は、みなさん、健康保険に入られている。しかし、健康保険に入っている本人でも、昔と違って、いまは医療費の二割がとられます。これ自体、健康保険の趣旨からいえば、ひどい話なんですが、それを今度は三割に引き上げよう、これがいまの「医療改革」です。いままでの五割増し、一倍半の医療費を払わないと、健康保険の本人でもお医者さんにかかれなくなる。これが、小泉内閣のすすめる「医療改革」です。このどこに、自民党の政治を「変える」中身がありますか。

 実は、医療費の二割負担を三割に引き上げるということを、だれが、いつ決めたのかというと、五年前、いま“抵抗勢力”なるものの代表扱いされている橋本(龍太郎)さんの内閣の時だったんですよ。橋本内閣が、それまで一割だった医療費の本人負担を二倍の二割に引き上げた。この法律が国会を通ったのが一九九七年の六月でした。そうしたら、その二カ月後の八月に、早くも厚生省が、次は三割引き上げという方針を決めてしまったんです。五年前に自民党内閣が決めて、その後、どの内閣もできなかったことを、強引に国民に押しつけようとしているのが、いまの小泉「改革」です。

 実は、橋本内閣の厚生大臣をやっていたのは、小泉さんでした。その時決めた「次は三割」だという方針を、今度は、自分が総理大臣になって、やろうとしているわけで、まさに、自民党政治のなかでもとりわけ国民いじめの政治を、乱暴にやってのけています。

 でも、国民の政治不信のおおもとである、汚い政治を片づける「改革」ぐらいはやるのじゃないか。ところが、これもまったく違うのです。

 森内閣の時、汚い政治の最大の問題になったのは、「機密費」問題でした。政府が領収書も使い道のまともな報告もぬきで、自由勝手に使える「機密費」というものが、毎年、約七十二億円、予算に組まれてきました。いろいろ暴露されてきた外務省関係の腐敗・横領事件は、みなこの「機密費」を財源にしたものです。この七十二億円は、表向きは、首相周辺が使う官房機密費が約十六億円、外務省の外交機密費が約五十六億円となっていたのですが、それにはウラがありました。首相周辺であまり機密費が多いと疑われるから、いったん外務省の分として組んでおいて、そこから毎年二十億円ずつ「上納」させようという、カゲの仕組みがつくられたのです。これは、完全な法律違反の仕組みでした。官房機密費は総額三十六億円にもなるわけで、国会で悪法を通すときには、そこから野党にお金をばらまくことまでやってきました。

 共産党は、去年の国会で、そのいきさつを明らかにした、政府の官僚がつくった文書を見つけだして、国会に出しました。これは、一九八九年、竹下内閣から宇野内閣に、内閣が変わったときの引き継ぎ文書で、機密費とは、こういう仕組みになっていて、これまでこういう扱いをしていたんだよ、ということを、機密費の担当者が書いて、次の担当者に引き継いだ文書なんです。そこには、外務省からの「上納」分が二十億円あるということも、消費税を通す国会の時に、野党対策が必要だったから、機密費の総額をそれだけ増やしたということも、全部書いてありました。

 そこまで証拠をつきつけられても、知らぬ存ぜぬで、否定したのが、森内閣でした。国民の怒りも大きく、森首相の退陣にいたる重大な理由の一つにもなりました。小泉内閣は、国民のそういう声にもこたえて生まれたはずでしたが、この問題でどういう態度をとってきたか。「上納なんかありません」――森内閣と同じことを、九カ月間、国会で言ってきましたよ。暴露されてもうどうにもならない外務省のボロだけは、何とか処理するが、政府の中枢がかかわった「機密費」のしかけとその実態は、小泉さんのもとで、闇(やみ)に葬られたままです。

 だから、みなさん。国民の怒りに調子をあわせるために、「自民党をつぶす」「自民党を変える」と叫んで出てきたけれども、軍事と外交は、超タカ派の政治、内政では、歴代内閣の国民いじめの政治を、そのまま引き継いでもっと乱暴にやる、政治の汚い部分はおおいかくす、これでは、これまでの自民党政治と、おおもとではまったく変わりがないのです。

 だから、「改革」をあれだけ叫んだが、九カ月たって、日本の経済情勢は悪化するばかりで、何の見通しもない。世界の政治のなかでも、日本のカゲはいよいようすくなり、評判は落ちるだけです。自衛隊のインド洋派遣という忠実ぶりに喜んでいるのはアメリカのブッシュ大統領だけで、あとはアジアでもヨーロッパでも、日本はなんと自主性のない国か、という冷たい見方が広がっています。

 “小泉人気”というのは、もともとがごまかしの上に成り立ってきたものですから、異常な支持率がいつまでも続くわけはないのです。その正体が国民の目に見えてくれば、必ず落ち込みます。田中外相の更迭問題がきっかけになって、支持率の急落が始まりましたが、自民党政治の空前の危機のなかで、この政治を変えるつもりはさらさらないのに、「変える」ような顔をして国民の支持をかちとった――これが、“小泉人気”の根本の仕組みですから、いまの急落は、当然、起きるべきものが起きたというものです。

 みなさん。これが、いまの政治の激動の特徴です。“小泉人気”なるもののうわべだけを見るのでなく、物事の奥底からしっかり見れば、その政治の正体もわかるし、ごまかしの上に立った支持率が長続きするものではないという見通しもわかる、これが、二重のメガネで世の中を見ることの大事さなんです。

アメリカ一国の横暴で世界を動かせる時代ではない

 世界を見るときも、同じことがいえます。みなさんのアンケートのなかでも、十年後の世界で何がいちばん心配なのか、環境の問題、食糧不足の問題、難民の問題、いろいろなことがあげられていました。しかし、一番多かったのは、アメリカの横暴勝手がひどくなるんじゃないか、これで世界は大丈夫だろうか、という心配でした。たしかに、ここにいまの世界の最大の問題があることは間違いありません。

 では、そのアメリカは、本当に世界で絶対の力を持っているのだろうか、どんなことでも勝手横暴にふるまえるのだろうか。ここで、紹介したいのは、アメリカのマスコミのなかで、最近、その点をたいへん懸念する声があがっていることです。

 いまから三週間ほど前、アメリカの代表的な新聞の一つ、ワシントン・ポストにのった論説(一月二十日付)なのですが、アメリカが“自分が正義だ、われわれのルールが世界のルールだ”という調子でふるまえばふるまうほど、アメリカへの不満・批判が世界に広がる、アメリカはこのことを真剣に考えるべきだ、と訴えているのです。そこには、こんなことも書かれていました。

 アメリカの前途を脅かしているのは、「世界の貧しい人びとの不満」だけではない。たとえば、ラテンアメリカはどうだろうか。ラテンアメリカの友人たちは、こう言っている。「アメリカは協力を求め、命令を下すときは調子がいいが、他国の言い分を聞いたり、他国に与えたりする場合にはそうではない」。

 ヨーロッパではどうか。ある政治家は、テロとのたたかいで、「アメリカの側につくのか、テロの側につくのか、中間はない」というブッシュ大統領の政策について、こう言っていた。「これは、一方通行だ。同盟のあるべき姿ではない」

 こういうことをずっとあげて、アメリカが、自分中心でやればやるほど、根底では世界から孤立してゆく、そのことをアメリカの政府、アメリカの国民はわかっているのか、こういう危機感に満ちた論説でした。

 これは、なかなかことの核心をついた懸念です。いまの世界は、アメリカ一国が自分勝手に動かせるような世界ではない、そのことを、アメリカのマスコミでさえ、いやおうなしに実感せざるをえないのです。報復戦争には、正面切って反対することは、世界の多くの国がしませんでしたが、こんなやり方ではダメだということを、実はいま、世界中が感じている。私は、ワシントン・ポストの論説を、そのことの一つの率直な告白として読みました。

 世界でも、このように、大きな激変が起きる可能性を内に秘めた状況が進んでいます。

激動の時代だけに、一人ひとりの生き方が問われる

 うわべだけではなく、物事の奥を見ると、この世紀は、日本でも世界でも、本当に大きな激変に向かう状況が広がっています。

 しかし、どのような激動の時代でも、古い政治が腐って腐って、これ以上腐りようがないところまで行っても、世の中というものは、これを変える新しい力が大きくならないと、新しい時代は開けません。みんなが黙って見ていたのでは、世の中は変わりません。そこが、自然と社会とが違うところなんですね。

 それだけに、私は、激動の時代は、その時代に生きる一人ひとりの、いわば生き方が問われる、自分自身に問われる時代だということを、大いに強調したいのです。

 人間の生き方にも、いろいろあります。

 世の中の仕組みなんて変わりっこないさ、自分一人ががんばったってどうなるものでもないさ、とあきらめてしまって、いわば波のまにまに漂流するような生き方と言いますか、“漂流型”で、なんとかその日その日を過ごしてゆくという生き方もあります。

 しかし、激動の世紀ということを正面から受け止めて、世の中を変え、新しい時代を開こうじゃないか、そういう夢と志を持って、人間の歴史を前へ進める仕事に自分から参加してゆく、“開拓型”と言いましょうか、そういう生き方もあります。

 いまの時代が、日本でも世界でも新しい前進への可能性を深く持った時代であるだけに、漂流型の道を歩むのか、開拓型の道を進むのか、ここには、二十一世紀を生きてゆく人間として、決定的な違いが出てくる、と思います。

 きょうの講演で、「二十一世紀を、志をもって生きよう」という題をつけたのも、せっかく二十一世紀に生を受けたわけだから、漂流型ではなく、志をもって開拓型の生き方をしようじゃないか、そういう思いをこめたつもりです。

 新しい時代がつくられるとき、いつでも、建設者になるのは、若者の特権です。いまテレビで「その時歴史が動いた」という連続物をやっていますが、日本の歴史のなかのどの激動の時代をとっても、先頭に立つのは、新しい意気込みに燃えた若い世代です。

 実際、いろいろな激動の時代がありました。源平の合戦の時代は十二世紀、結局は、貴族政治から武家政治、封建社会に移ってゆく転機になった時代でした。源氏が平家を滅ぼした最後の合戦が“壇の浦の合戦”でしたが、その合戦に参加した源義経は、その時二十七歳、鎌倉からこれを指揮していた源頼朝は三十九歳、どちらも二十歳代、三十歳代でした。

 それに続く激動の時代というと、いろいろありますが、戦国時代は、十六世紀の大激動で、その結論が、日本の封建社会の最後の体制――徳川幕府の体制の成立でした。戦国時代の有名な事件をあげますと、川中島の合戦は、上杉謙信二十六歳と武田信玄三十五歳がたたかった合戦でした。最近のテレビドラマに登場した桶狭間の合戦のとき、織田信長は二十七歳でした。やはりあの時代でも、中心になって働いた人びとのなかに、二十歳代、三十歳代が大勢います。

 いちばん近い激動の時期といえば、やはり徳川封建体制がたおれる幕末でしょうね。いろいろな人物が活動していますが、民主主義派の側にいちばん近かったのは、土佐の坂本竜馬と長州の高杉晋作だと思います。二人とも途中で死にますが、坂本竜馬が死んだのは三十三歳、高杉晋作が死んだのは二十九歳の時でした。

 日本の歴史を見ても、時代が変わる、新しい社会が起きる、という時には、その先頭に立っているのは、圧倒的に二十歳代、三十歳代の人びと、いまでいえば、若い世代です。ところが、二十一世紀、新しい時代を起こそうという時に、青年が元気がないなどと言われたら、これでは歴史が成り立たなくなります。

 みなさんは、二十一世紀を、私などにくらべれば、はるかに奥深く生きる資格を持っている方がたです。そのみなさんに、私は、新しい時代、新しい歴史をひらく流れを、若者の力で起こそうということを、とくに訴えたいのです。

私自身の経験から――日本も世界も変わってきた

私が党に入った時代は…

 そう訴える私にも、若い時代がありました。

 私が日本共産党に入ったのは五十五年前で、あの戦争が終わって一年五カ月ほどたった一九四七年の一月、敗戦直後の混乱の時期でした。十七歳の誕生日を前にして、十六歳で党に入りました。当時は、いまとは違った意味で、大激動の時代でした。なにしろ、戦争が終わるその日までは、民主主義なんて犯罪、平和も犯罪、そういうことで社会ががんじがらめになっていた時代です。私は敗戦の時は、中学生でしたが、そのがんじがらめの体制が当たり前の姿だと思ってずっと育ってきたわけです。その体制が敗戦とともに壊れて、世の中をどう変えるのか、そのことが、一部の人たちだけでなく、いやおうなしに日本全体の大問題になった時代でした。

 私自身についていうと、若いなりにいろいろな模索はありましたが、自分自身の戦争体験、さらに日本全体が侵略戦争に流された時代に命がけで戦争に反対した政党があったことを知ったことの衝撃、そしてまた、その党が、日本の今後について、民主主義の日本、社会主義の日本という目標を高々とかかげて活動をはじめたことへの共感、こういうことに強くひかれて、日本共産党に入党したものです。新しい時代が始まるという意気込みや期待に燃えた日々でした。

 実は、入党して三カ月後に、新憲法下の最初の国政選挙がありました。私はまだ選挙権がありませんでしたが、旧制高校の学生の党支部でそれなりにがんばりました。ところが、選挙の結果は、衆議院で、得票百万票、得票率3・7%で、当選は四議席でした。その時には、世の中を変えるというのは、なかなか時間がかかるものだな、一歩一歩前進することが大事だなと、若いながら悟らされたものでした。

 その選挙では、選挙の結果にもとづいて、社会党中心の内閣ができたのです。最初は片山内閣、ついで芦田内閣、それがいまの自民党なみの政治しかしない。それで評判がガタ落ちになって、二年後の次の総選挙では、共産党は、二百九十八万票、得票率9・7%にまで票をのばし、議席も三十五人当選という大躍進をしました。

 この結果を見て、いよいよ世の中が変わる時代がくるかと勇んだりしたものでしたが、実は、当時の日本共産党は、まだまだ日本の政治に取り組む自分の方針をしっかり確立していなかったのですね。党内でも、民主主義的な気風や体制がありませんでした。そこにつけこまれて、アメリカ占領軍からは大弾圧をうける、ソ連や中国から乱暴で無法な干渉をうける、党自体も大分裂する、分裂した一方の側が北京に亡命して、そこから外国じこみの武装闘争方針を持ち込んでくる、こんなことが相次いで起こりました。そういうなか、大躍進の次の総選挙では、議席がゼロに落ち込んだのです。私たちは、これを「五〇年問題」と呼んでいるのですが、全党が本当にたいへんな困難をなめ、苦労した時代でした。

 そういう苦労をのりこえるなかから、日本共産党のいまの方針、党の気風や体制が生まれてきたのです。

日本の情勢はどう変わってきたか

 その時代と現在とを比べますと、困難があるといっても、日本も世界も、たいへん進んだ地点にいることがわかります。

 さきほど、“苦労をのりこえるなかから、日本共産党のいまの方針、党の気風や体制が生まれた”と言いましたが、それが、だいたいいまから四十年あまり前のことでした。

 ソ連・中国の干渉をうけてひどい目に遭いましたから、日本の社会や国民が進む方向の問題、日本の党の活動の方針の問題、これは日本共産党が、日本の国民に責任を負う立場で、自分の頭で考え、自分の行動で正否を点検するもの、どんなに大きな党であろうと、レーニンに率いられた歴史をもつソ連の党であろうと、大革命を成功させたばかりの中国の党であろうと、日本の運動にたいする外国の党の口出しや干渉はいっさい許さない――こういう自主独立の立場も、その時、確立したものでした。

 また中身はあとで述べますが、いま私たちがとっている綱領の大方針も、四十年前のこの時期に打ち出したものでした。

 党内で、だれかが親方風を吹かせ、その“権威”で物事を決めてゆくといった非民主的な体質――これが、党の分裂の原因の一つでしたが、そういうものを一掃して、民主主義の気風と体制をもった党をつくろう、こういう方向も、この時期に決めました。

 しかし、共産党が、そうやって自分の方針や立場をきちんと決めたからといって、総選挙での議席がゼロにまで落ち込んだ、国民との結びつきの弱まりが、すぐに回復できるものではありません。新しい方針と体制をつくりながら、最初に迎えた総選挙(一九五八年)では、得票率2・6%、議席は一でした。次の総選挙(一九六〇年)が、得票率2・9%、議席三でした。そういうところから出発して、四十年間、国民の利益をまもる立場で、自民党政治と正面から対決してたたかってきました。実際、いま二十世紀後半のこの時代をふりかえって、“一貫して自民党の悪政と対決してきた”と胸をはって言えるのは、日本の政党のなかで、日本共産党だけです。

 このたたかいを通じて一歩一歩の前進を積み重ね、前進・後退の波はありますが、最近の国政選挙では、得票率10%から12%というところまできました。九〇年代には、14%台にまで前進した記録があります。

 これにたいして、相手の自民党は、さきほど見たように、結党以来の危機的な状況を深めています。長い視野で見て、日本の政治には、これだけの変化が進行してきたのです。

世界はどう変わってきたか

 世界はどうでしょう。私は、一番大きな変化の一つは、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカなどの国ぐにが、世界政治のなかで、ぐっと比重を増してきたことだと思います。

 以前は、世界は、大国中心、なかでもアメリカとソ連との関係を軸に動く世界でした。戦後も最初のころは、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカなどは、世界政治のなかでほとんど問題にならなかったのです。この地域にある多くの国ぐには、植民地・従属国の状態からぬけだせるかどうか、その見通しもはっきりしない状態で、これらの国ぐにが、力をあわせて大国に“物申す”などということは、考えられもしなかった時代でした。いまは違います。かつては、ヨーロッパ諸国やアメリカの植民地だったり従属国だったりした国ぐにが、みんな独立をかちとって、世界政治の大勢力の一つになっています。この五十年間に、国連加盟国は、六十カ国から百八十九カ国に、百二十九カ国増えましたが、その圧倒的な部分はいわゆる新興独立国です。ここには、大国中心だった世界が、そうではない世界に変わりはじめた、その流れの一つの現れがあります。

 二十世紀をふりかえるとき、アメリカに対抗していたソ連がつぶれたので、“世界情勢が後退した”と嘆く人もいますが、ここでも、実際は逆なんです。

 だいたい、国内では、国民の権利を認めない民主主義否定の政治をやっている、対外的には、チェコスロバキアやアフガニスタンなど、外国への侵略をくりかえす――今日のアフガニスタンの悲劇的な状態は、一九七九年のソ連の侵略から始まったものです――、こういう悪い政治をやっている大国が、「社会主義」の看板をかかげ、自分こそ「社会主義」の代表だといった顔をしている――まじめによりよい社会をめざして運動しているものにとっては、これぐらい邪魔な存在はないのです。

 日本共産党は、自主独立の政党として、ソ連が間違ったことをやれば堂々と批判します。それを気に入らないといって、一九六〇年代にも、ソ連に通じていた分子をかき集めて日本共産党打倒作戦に打って出るなど、乱暴な干渉をやってきました。私たちは、それを徹底的に撃破して、最後にはソ連の指導部に干渉の誤りを認めさせましたが、そういうたたかいを進めるなかで、こういう勢力が、「社会主義」の看板をかかげていることが、世界と日本の進歩にとってどんなに有害かということを、本当に実感していました。

 ですから、私たちは、一九九一年八月、ソ連共産党が内部の矛盾から解体した時に、「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪」の解体を歓迎する、という声明を発表したものです。世界の共産党のなかで、歓迎の声明を出したのは日本共産党だけでしたが、「歓迎」というのは、長いあいだ、ソ連の大国主義、覇権主義とたたかってきた私たちの実感を、たいへん率直に表したものでした。

 ソ連の崩壊自体も、世界政治でいえば、大国中心主義の破綻という流れの一つの現れでした。

 このように、世界でも、新しい時代の条件が生まれ発展しつつあります。いろいろな事情の組み合わせから、昨年の国際テロ以後のように、アメリカが横暴勝手にふるまう「一国主義」が威勢がよいように見える時もあります。しかし、世界の構造は、すでに変わってきているのです。一国の横暴に世界を従わせようという覇権主義には、それがどの国のものであろうと、未来はありません。 (つづく)

 


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