日本共産党

2002年2月14日(木)「しんぶん赤旗」

21世紀を、志をもって生きよう

「青年のつどい」での不破議長の講演

〈下〉


 

資本主義がこのまま続くか、新しい社会への動きが起こるか、

──21世紀の最大の問題がここにある

 いま、二十一世紀を展望して、世界は激動の予感を深めています。その予感は、アメリカの横暴なやり方がこのまま続くのかどうか、そういう当面的な範囲の問題にとどまるものではありません。その中心には、もっと深刻な予感があるのです。

 資本主義というものが、二十一世紀もこのまま続いてゆけるんだろうか、資本主義をのりこえた、次の新しい社会への動きが出てくるのではないか。そういう予感が、二十一世紀の展望のなかにたいへん深くある、そのことが、この世紀の特徴だと思います。

 実は、二十世紀の最後の時期、一九九九年九月に、イギリスの国営放送BBCが、イギリスおよび世界各国からアンケートをとったのです。質問の項目は、「過去一千年間の最も偉大な思想家はだれか?」というものでした。目の前にせまった二〇〇一年は、新しい世紀の始まりであると同時に、一千年紀が終わって二千年紀が始まる、千年ごとの区切りの時点でもありますから、「過去一千年間で……」というこの質問になったのでした。そうしたら、回答の集計では、マルクスが第一位、アインシュタインが第二位、それも一位と二位の差は、圧倒的な開きだった、といいます。イギリスという国は、別に共産党が強い国ではありません。BBCという放送局が、特別に左翼びいきというわけでもありません。その放送局がアンケートをとったら、マルクスを「過去一千年間で最も偉大な思想家」だとする回答が圧倒的に多かったのです。

 私は、これは、いったい資本主義は二十一世紀もこのまま続いてゆけるのか、このことへの予感にもつながる結果だと思います。

 昨年は、こういうこともありました。新年の「しんぶん赤旗」のインタビューでも紹介したことですが、昨年十一月末に、韓国の仁川(じんせん)で、「北東アジア国際会議」という韓国・中国・日本の知識人の会議が開かれました。その三国の知識人が集まって二十一世紀について討論した。その結論を「仁川宣言」という文章にまとめて発表しているのですが、この「宣言」を読んでみますと、そのなかで、二十一世紀を特徴づけて、「ポスト資本主義社会が加速化」される時代と呼んでいます。「ポスト資本主義」の「加速化」といえば、資本主義が終わりを告げそのあとに来る社会に時代が移ってゆく、その勢いがいよいよ速くなる、ということでしょう。韓国の人たちが中心になり、日本や中国がくわわった会議で、こういう見通しがみんなの共通の認識になったのか、これはたいへん新鮮な驚きでした。

 さきほど紹介したワシントン・ポストの論説にも、同じような予感が浮き出ていました。前は、アメリカの手前勝手なやり方への危機感の部分を引用したのですが、実は、そこに示されている危機感には、もっと深いものがありました。この論説を書いたのは、ブッシュ政権の前の政権、クリントン政権の高官の一人です。商務副次官をやった人物ですが、書き出しがふるっています。「この世界のどこかで次のマルクスが歩いている」

 彼は、マルクスはもう終わりになった、もうマルクスの時代ではない、と考えている人物ですが、だから資本主義が安泰だとは思っていません。新しい代案をもってアメリカ式資本主義に挑戦する「次のマルクス」がやがて世界に登場することは間違いない、というのです。次のマルクスは、ブエノスアイレス(アルゼンチン)の路上にいるかもしれない。パレスチナ人あるいはインドネシア人のなかにいるかもしれない。北京、あるいはナイジェリア、またロシアにいるかもしれない。「われわれは、次のマルクスが現れる地域も、彼の具体的なやり方も、わからない。しかし、だれかが、どこかで、〔アメリカ式資本主義の〕代わりの未来像を提起するだろうことは確実である」、いま、そういう時代にわれわれはぶつかっているんだ、という体制的な危機感の表明です。

 論説は最後にいいます。資本主義は、過去二百年間を通じて、「社会における公正な富の分配をいかに達成するか? という問題」に答えをだせなかった。アメリカ式資本主義は、世界に広がれば広がるほど、この格差を拡大する。いったい、この答えはどこにあるのか。筆者は、この深刻な問題を、「世界のどこかで次のマルクスが歩いている」、「『この後に』――資本主義の運命がどうであれ、すでにだれかがその代案を準備している」(論説の表題)という言葉で表しました。

 それくらい、いま世界には、深刻な変化への予感が広がっているのです。

マルクスの「科学の目」で現代を見ると

 この予感には、やはり根拠があります。

マルクスは資本主義社会を二つの面から分析した

 BBCの国営放送で「最も偉大な思想家」と評価されたマルクスは、資本主義を徹底的に研究した人です。マルクスぐらい、資本主義という、私たちが生きているこの社会の成り立ちとその運命を研究しつくした人はいません。だいたい、資本主義という名前自体、マルクスが名付け親なのですから。

 マルクスが、資本主義をどういう社会と見たかというと、彼は、資本主義の最大の歴史的な特徴を、人間社会をささえる物質的な生産の力を、人類史上空前の規模で発展させる体制だ、というところに見ました。

 マルクスは、彼が生きた十九世紀の資本主義の姿をみて、とどまるところを知らない生産力の発展という特徴づけをしたのですが、この点では、その後の発展の方がはるかにすさまじいものでした。

 この間、生産力の発展を世界のエネルギー消費量ではかる計算をしてみました。マルクスが『資本論』の第一巻を公刊したのが一八六七年、その年の世界のエネルギー消費量は、石油換算で一億四千三百万トンでした。それが、二十世紀の半ば、第二次世界大戦が終わった一九四五年には、十三億千百万トンに増えました。そして、最近では、一九九七年がいちばん新しい数字ですが、八十三億三千四百万トンです。『資本論』の公刊から百三十年あまりでなんと五十八倍、戦後の約五十年で六・四倍の増加です。こんなものすごい勢いで人間の生産力を発展させた体制というのは、人類の歴史のなかでも、資本主義以前には一つも存在しませんでした。

 マルクスは、資本主義のこういう積極的特徴をきちんととらえると同時に、そこから資本主義の命とりになる矛盾が発展することを、発見しました。資本主義というのは、利潤第一主義の体制です。生産力を発展させるのも、社会が必要とするからではなく、それぞれの資本の利潤のために、生産の拡大の道を競争で突き進むのです。

 利潤第一主義の体制では、大きくなった生産力がもう資本主義の手に負えなくなる時代が必ずやってきます。マルクスは、その時には、人間社会を、高度な生産力の発展にふさわしい、より合理的な体制に切り替えることが、歴史の必然になる時期が必ずやってくること、その新しい体制とは、人間が政治の上で主権者であるだけでなく、経済の上でも主人公になる社会であり、経済が資本の利潤のためにではなく、社会全体の利益のために働く社会となるだろう、ということを明らかにしました。これが、社会主義の社会です。

 マルクスが書いた『資本論』というのは、分厚い本ですが、ごく簡単に言えば、マルクスが資本主義の徹底した研究から引き出した最大の結論は、ここにありました。社会を見るマルクスの「科学の目」の中心はそこにあったのです。

資本主義は地球の管理能力を失った

 いま二十一世紀の世界をみると、マルクスが予見したこと――資本主義が巨大な生産力をつくりだしてきたが、それがもはや自分では手に負えなくなったという事態が、いまやいたるところに噴き出ているのではないでしょうか。

 (一)たとえば、いまの不況です。日本では、バブルが崩壊してから、十年間にもわたって不況が続き、今日ではその出口も見えなくなっています。その間、世界的に見ても、国ごとの上がり下がりの波はありますが、世界は全体として長い不況に襲われています。

 (二)環境問題も深刻です。私は、急成長する生産力が手に負えなくなったことを、絵に描いたような形で表しているのが、最近の地球環境問題の深刻さだと思います。

 私たちは、無数の生命体とともに、地球上に生きています。地球が、豊かな生命に満ちた星として発展しているのは、生命の存在と活動を保護する「生命維持装置」とでもいうべきものを、二重三重に持っているからです。大気圏の外側にはオゾン層という特別の層が地球を取り囲んで、生命体の分子を壊す紫外線を防いでくれています。大気そのものも、熱を内にこもらせる温暖化ガス(二酸化炭素など)がごく少ない構成になっていて、私たちがほどよい温度とほどよい気候のもとで生活することを保障してくれています。

 こういう「生命維持装置」は、はじめから地球にあったものではなく、三十億年以上もの気の遠くなるような時間をかけて、地球がつくりあげてきたもので、それには生命自体も大きな役割をはたしてきました。

 これまで、地球上には、いろいろな型の社会が生まれては交代してきました。しかし、この「生命維持装置」を壊すような大失態を起こした社会は、これまでに一つもありませんでした。

 ところが、二十世紀の末近くなって、この「生命維持装置」がたいへんな危機にさらされていることが、明らかになりました。オゾン層には、南極の上空に穴があいて、その穴が広がりつつあります。大気のなかでも、二酸化炭素などのガスの割合が増えて、地表の気温が徐々にではあるが上昇しはじめました。これが地球温暖化です。このまま放置すれば、地球の上で、人間はもちろん、生命が生きてゆける条件が次第に失われてゆくことになります。

 なぜ、こんなとんでもない“地球の危機”が起こったのか。資本主義が、先の見通しもなしに生産をやみくもに増やしてきた結果です。三十億年以上の時間をかけてつくってきた「生命維持装置」を、最近数十年の資本主義の経済活動が壊しはじめたのです。この危機から地球をまもるために、いま世界が活動をはじめましたが、アメリカが「京都議定書」から脱退するなど、頑固な利潤追求派の側からの妨害・抵抗もはげしくなっています。

 もし資本主義が、利潤第一主義のためにこの“地球の危機”を解決できないとしたら、それは、この体制には、もはや地球の管理能力がないということの、なによりの証明ではないでしょうか。

 (三)飢えと寒さに苦しむアフガニスタンの子どもたちの姿は、世界の大問題になっていますが、この姿はアフガニスタンだけのことではありません。「南北問題」といって、アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの広大な地域での、生きてゆく最低の保障もない、ケタ違いの貧困の問題が、世界的な大問題になっています。なぜ、こんな事態が広がっているのか。たとえばアフリカの諸国です。アフリカの諸民族は、資本主義がそこに乗り出すまでは、貧しい水準ではあっても、その民族なりの生活体系をもっていました。資本主義は、それらの民族を自分の都合で資本主義の世界に引きずりこみ、自分の植民地にして、資源の略奪など勝手放題なことをやってきました。そして、これまでの生活体系を壊すことは思う存分やったものの、それにかわる生活体系をつくりだし、それにかわる発展の道を与えることは、できないできました。それが、世界の広大な地域を、とんでもない貧困社会に変えてしまったのですが、資本主義には、その解決能力はありません。

 いま世界には、こういう矛盾が渦巻いているのです。その矛盾の一つひとつが、二十一世紀は資本主義のままでいいのか、という深刻な問題を世界に投げかけています。

 アメリカの横暴勝手な覇権主義についても、多くの人たちが、そのかげに「アメリカ式資本主義」そのものの横暴を見ています。それは、ワシントン・ポストの論説が指摘しているとおりです。

 資本主義がこのまま続いてゆけるのか、このことが、これだけいろいろな角度から世界で問われはじめたという時代は、私は、世界資本主義のこれまでの歴史にもなかったことだと思います。そこに、二十一世紀の激動の、二十世紀とは違う重要な特徴があります。

日本共産党は、21世紀を生きる理論と方針を持っている政党です

 最後に、そういう時代のなかで、日本共産党はどういう政党なのか、という問題に入りたい、と思います。

日本共産党と二十一世紀の未来展望

 私が第一に紹介したいのは、日本共産党は、二十一世紀の未来展望をしっかりにぎっている政党――資本主義をのりこえた、より合理的な社会である社会主義への展望をはっきり持っている政党だ、ということです。

 社会主義の問題では、若いみなさんのアンケートで、社会主義、共産主義をどう思うかという質問への回答を拝見して、多くの方がなかなか明るい印象を持っていることに感心しました。いまでもありますが、以前は、社会主義というと、ソ連のような暗い体制をつくるのかという誤解が、かなり広くあったものですから。

 私たちが、日本共産党の未来社会論、社会主義論として、いま強調していることが三つあります。

 第一は、ソ連型の体制は、政治の面でも経済の面でも、社会主義とは縁もゆかりもない社会だった、という認識です。社会主義のいちばんの合言葉は「人間の解放」です。ソ連でおこなわれていたような人間の抑圧――国民からの自由の取り上げ、外国への侵略や他民族への圧迫などは、社会主義の国では絶対にあってはならないものです。

 私たちは、ソ連の干渉とたたかうなかで、ソ連のやる一つひとつの間違いについて、それは社会主義を裏切るものだという批判を徹底してやってきました。国内体制についても、ソ連が崩壊したあと、明らかになった資料をよく分析して、党の大会で、ソ連の体制とは、社会主義とは無縁の人間抑圧型の体制で、社会主義の反対物だったという結論をだしました。

 第二は、私たちのめざす社会主義は、資本主義時代の価値ある成果のすべてを発展的にうけつぐ、という立場です。なかでも、国民がかちとってきた自由と民主主義は、資本主義時代の価値ある成果のなかの、もっとも重要なものです。

 この問題では、私たちは、二十六年前の一九七六年に、『自由と民主主義の宣言』を党の大会で決定しました。そのなかで、政治・経済・社会・文化などの全体にわたって、日本共産党が自由と民主主義を将来にわたって徹底してまもりぬくことを明らかにしたのですが、これは、当時、世界の共産党の運動のなかに、たいへんショックを与えたものでした。

 第三は、利潤第一主義をのりこえ、人間による人間の搾取をなくすという目標です。

 さきほどマルクスの社会主義論を説明しましたが、利潤第一主義をのりこえた社会というのは、個々の企業ではなく、社会が生産と経済をにぎって、その社会の経済を人間本位で動かしてゆこうという社会です。また、生産にたずさわる人間の立場からいうと、生産者が、雇われる立場の人間から、経済と生産の主人公に変わることです。

 これはまだ、人類史上生まれたことのない社会で、できあいのモデルはどこにもありませんが、人間が主人公の日本型の社会を、国民の英知と経験をもとにつくりあげてゆくことは、かなり先の目標ではあっても、必ず二十一世紀の日本の大きな課題になってくる、と思います。

社会進歩のどんな道筋を進むのか

 私たちは、未来社会のこういう方向づけと同時に、そこにむかって進んでゆく道筋についても、党の綱領のなかで、二つの点を明確にしています。

 第一は、世の中を変える、社会を変えるというとき、私たちは社会の段階的な発展論にたっている、ということです。社会主義が将来の目標だからといって、一挙にそこに駆け上がるような、あわてもののやり方はとりません。日本というのは、一億二千万人の人間が生活している巨大な社会です。そこで世の中の仕組みを変えるという場合には、その社会が本当に必要としている改革、その条件が熟している改革を一歩一歩実現しながら、段階的に進んでゆくのが、当たり前のやり方です。

 第二は、社会発展のどんな段階でも、その段階に必要な改革は、必ず国民多数の意思にもとづいて実現するという多数者革命論です。

 日本共産党は、天皇絶対で、国民主権の民主政治などの主張が極悪の犯罪とされた戦前のあの時代から、「国民が主人公」を信条にしてきた政党です。その党が、世の中の仕組みを改革しようという時、国民から離れて、志を同じくするものだけで勝手にやるといった方針をとるわけがありません。

 改革の実行にあたっても、「国民が主人公」の精神をかたくまもり、どんな改革も国民の多数の支持と合意をえて実現する、これは民主主義の政治の当たり前の姿です。だから、私たちは、民主派が選挙で国会の多数をえて、民主的な政府をつくるという方針を、党の綱領に明記しています。

 これは、当面の民主的政府――民主連合政府だけの方針ではありません。次の段階の改革にあたっても、そういう改革を積み重ねて、将来、社会主義の改革を実行する政府が問題になる時にも、社会主義の改革のプログラムが選挙で国民の多数の支持と同意をえてはじめて、そういう政府がつくられ、社会主義の改革が実行できる、この「多数者革命」の方針は、日本共産党の変わることのない方針です。

いま、どんな「日本改革」をめざしているか

 では、そういう道筋を展望しながら、日本共産党はいまこの日本で、どういう改革を実現しようとしているのか、社会発展の階段でいえば、日本はどんな段階にあると考えているのか。これが次の問題ですが、私たちは、日本の社会がいま必要としている改革を、「資本主義の枠内での民主的改革」と特徴づけています。

 「資本主義の枠内」とは、どんな改革でしょうか。

 みなさん。資本主義というと、日本もアメリカもヨーロッパもみんな同じだと思う人もおいででしょうが、いま世界各国の資本主義を見比べてみると、日本の資本主義は本当に出来が悪いのです。

 だから、私たちは、もっとも出来の悪いところを二つ浮き彫りにして、まずここを改革しようじゃないか、ということを提案しています。

 出来の悪さの第一は、国民の暮らしや権利をまもるルールがないか、あってもたいへん貧弱なことです。ヨーロッパの国ぐには、第二次世界大戦の前から民主主義があって、労働者を先頭に国民がいろいろな権利やルールをかちとってきました。それが、同じ資本主義でも、日本とは違う、暮らしや権利をまもるルールを形づくっているのです。

 三十年近く前の経験ですが、一九七三年の夏、フランス共産党との会談のために、パリに出かけたことがあります。私の初めてのヨーロッパ訪問でした。あまり深く考えないで、八月に出かけたのです。

 行ってみてびっくりしました。八月となると、フランスではもう市民がほとんどパリにいないのです。みんな長期の有給休暇をとって、海岸や山へ遊びに行くのです。有給休暇といっても、日本では細切れにとるのが普通ですが、フランスでは三週間とか四週間とか夏にまとめてとる。工場ではみんな休暇に入るので、夏は操業を止めてしまうところが多く、生産の統計も夏はガタ落ちになります。労働者の権利として、堂々と有給休暇をまとまってとるのが、当たり前のやり方なのです。

 フランス共産党の本部を訪ねたら、ひっそりした会館に、会談に出席する代表たちだけが残っているという状況でした。“お国の事情を知らないで、悪かったですね”と言いたくなるような情景でした。

 これには、背景があります。フランスでは、有給休暇というのは、一九三〇年代の人民戦線の時代に、労働者と労働組合が全国的な大闘争でたたかいとった権利なんです。だから、国全体の生産が落ちることになっても、労働者の権利として、夏に堂々とまとめてとる。

 ところが、日本では、そのころは、“満州事変”から中国への全面戦争に進む戦争の時代でした。似たような有給休暇の制度は戦後できましたが、それをめぐる状況、社会的なルールのあり方が、まったく違ってきています。

 こういう違いは、いろいろな面で出ていますが、いま一番切実で深刻な問題になっているのは、リストラ問題でしょう。

 いまヨーロッパでは、会社に解雇を勝手にやらせない、一定のルールをつくってそれをまもらせるという「解雇制限法」を持っていない国は、ほとんどありません。最近では、EUというヨーロッパ諸国の連合体でも、ヨーロッパ全体の規模で解雇を制限するルールづくりが進んでいます。

 これにたいして、日本では、いくら要求しても、政府は「解雇制限法」を絶対につくろうとしない。“それは労資の問題だから、労資で話し合って”が逃げ口上です。しかし、こんな言い分は世界の資本主義の現状からみても、まったく世界の流れにそむくものです。

 環境の問題でも、日本よりずっときびしいルールができています。

 こうして、働く者の権利をまもるルールをずっと積み重ねてきている資本主義だというのが、ヨーロッパの大きな特徴です。

 これにくらべると、日本の資本主義はあまりにも出来が悪い。“ルールなき資本主義”といってもよいでしょうね。この“ルールなき資本主義”を、ルールある経済社会に変えようじゃないか、このことを改革の柱にして、いろいろな分野で具体的な提案をおこなっています。

 日本の資本主義の出来が悪い第二の点は、税金の使い方の逆立ちぶりです。

 ヨーロッパでは、資本主義の国であっても、国民の最低の生活は保障しないと、経済が成り立ちませんから、国民すべての生活にかかわる社会保障は、どこでも国の予算の主役で、公共事業には、社会保障予算の何分の一かの予算をまわして、どうしても必要な事業にあてるというのが、税金の普通の使い方になっています。

 日本では、そこもまったく反対でしょう。公共事業への公の支出は年間五十兆円、社会保障への公的支出は二十兆円というのが、年々の税金の普通の使い方になっている。そして、このばくだいな公共事業予算が、腐った利権の巣になるのです。

 予算の使い方、税金の使い方のこの逆立ちをただして、社会保障など、国民の暮らしをささえる仕事が予算の主役になるように、切り替えようじゃないか。私たちは、このことを経済の改革の第二の柱にしています。

 いまは話を経済の問題にかぎりましたが、これが私たちの「日本改革」の方針です。

 日本共産党が、このように、当面の改革の問題で、現実にあった、しかも大胆な方針を出せるのも、資本主義をのりこえる先ざきの展望をしっかり持った政党だからだ、ということも言えるでしょうね。

よりよい日本をめざすすべての人に、日本共産党の門は開かれている

 さて、日本共産党ですが、私たちは新しい日本をつくる、こういう目標と方針を持っている政党です。ですから、日本の国民の立場でよりよい世の中をつくろうという志をもつ人には、だれにでも日本共産党の門は開かれています。

 実は、私たちは、一昨年の党大会で、規約の改定をおこないました。いま述べたことは、新しい規約のなかでも、次のようにはっきりとうたいました。

「日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党であり、民主主義、独立、平和、国民生活の向上、そして日本の進歩的未来のために努力しようとするすべての人びとにその門戸を開いている」(規約第二条)

 新しい時代に新しい政治をめざすことは、国民の大きな力を起こすことなしには、できない仕事です。日本共産党は、その目標を持って国民のなかで働こうという気持ちを持つ、すべてのみなさんに開かれている政党です。そして、そういう力が集まって社会を変える働きをしようというのが、日本共産党です。

 きょうここには、日本共産党の党員の方も、そうでない方もおられるはずです。

 私は、党員の方たちには、二十一世紀に日本の歴史を大きく開く、この志をしっかりと持って、この世紀を生きぬこうということを呼びかけたい、と思います。

 そして、党員でない方たちには、二十一世紀を生きるみなさんの志を、ぜひ日本共産党に結びつけ、日本の明るく豊かな未来のために、私たちと一緒に努力することを、ぜひ考えていただきたい、と思います。

 「未来は青年のもの」という言葉があります。その言葉を多少変えていえば、「二十一世紀はまさに青年のもの」です。大きな志と広い視野を持ち、一人の人間として、歴史を動かす生き方をしようではありませんか。

 そのことを訴えて、話を終わります。


参加者の質問にこたえて

戦争は人間の本能から起こるのか?戦争は将来なくせるのか?

  大学の一年生です。去年、うちの大学では、テロによる犠牲者が一人出まして、戦争について僕自身関心をもっていたんですけど、戦争に反対するという声がすごく広がるなかでも、「仕方がない」という声や、「戦争というのは人間の本能じゃないか」という見方が、見逃せないほどの広がりがあったと思います。戦争というのは、人間の本能なのか、仕方がないのか、また将来なくなるものなのか、聞きたいと思います。

 不破 どんな戦争でも、人間の本能から起きたという戦争はないのですよ。必ず、ある国の政府が、一定の政治的な目的をもって、戦争を起こしているのです。喧嘩(けんか)なら“本能的にやった”ということで説明できるかもしれませんが、本能で説明のつく戦争はない、ということを、まず言いたいのです。

 日本は、中国にたいして、一九三一年から四五年まで、いわゆる十五年戦争をやりました。これは、日本国民の本能では説明できないでしょう。やはり、中国を支配したい、その領土を自分のものにしたいという一定の集団があって、それが日本を動かして、侵略戦争をやったのです。それぞれの戦争を考える場合、どんな目的で、だれがやったのかということを、よく考えることが必要で、これを“人間の本能”に解消してしまうと、大事な真実が見えなくなります。

 小泉内閣は、今度、自衛隊をインド洋に出すなど、戦争応援の行動をやりましたが、前の戦争が終わってから六十年近く、日本は海外で武力を行使したことはないし、戦争をやらないで暮らしてきました。この状態が、日本人の本能と矛盾しているとは、私は思いません。

 将来についていうと、戦争によって自分の目的を達成しようという政治、こういうものがなくなる社会が世界で支配的になれば、必ず戦争をなくす世界ができる、それをめざすのが、われわれの目標です。

日本の資本主義は、なぜ“出来が悪い”のか?

  大学二年生です。不破さんは、“日本の資本主義は出来が悪い”と話しましたが、僕も、学生生活を送るなかで、大学問題などいろいろな点でそう思います。なぜ、ヨーロッパとくらべて、日本の資本主義の出来が悪いのか、を知りたいと思います。

 不破 日本の資本主義の“出来の悪さ”は、やはり日本の歴史のなかに一つの原因があるんですね。

 どういう点かというと、日本という国は、一九四五年の敗戦までは、国民が自分の生活や権利のためにたたかう自由を奪われた国だったんです。多くの先輩たちがそのなかでもがんばって、生活や権利のためのたたかいをやりましたが、国の体制としては、そういう自由を認めなかった国です。

 労働組合をつくる権利、自由に政党をつくる権利も、保障されていませんでした。この保障は、戦後の新しい憲法ではじめてきずかれたものです。

 このことが、日本の社会のものすごい遅れになりました。職場の問題でも、戦後、労働基準法ができましたが、その中身は、いまヨーロッパにくらべると、たいへん遅れたものです。これをのりこえるためには、暮らしをささえるルール、権利をまもるルールをたたかいとる力を、国民が持つこと、これが大事だと思います。こういうルールは、天から降ってくるわけではありませんから。そういう方向で、がんばってゆきたい、と思います。

「利潤第一主義」のない社会は考えられないが?

  大学一年生です。不破さんの話を聞いて、資本主義から社会主義に移り変わるというんですか、その発展の過程が、正直な話、すごく見えづらかったんです。そこが、友達に科学的社会主義の説明をするとき、一番困るところなんですね。利潤第一主義を徹底的に批判されていましたが、利潤を追求しない社会、お金もうけが目的じゃない社会というのは、説明のしようがないんですよ。利潤第一主義を否定する理由と、それに代わる社会主義に発展する過程の中身について教えてください。

 不破 いまの質問を聞いて、「利潤第一主義」という言葉で、人間が自分の生活を豊かにする、そのことをめざすという問題と、企業が自分のもうけのために経済を動かすという問題とを、いっしょにされているような感じを持ちました。

 どんな社会になっても、人間一人ひとりが、自分や家族の生活を、内容の面でも質の面でもより向上させたいと願い、そのために努力することは、当然のことで、「利潤第一主義」を批判するということは、人間一人ひとりの発展の要求を否定することではないのです。

 いまの資本主義の社会は、それぞれの企業がいかに利潤を増やしてゆくかということが、経済の第一目的になって、経済の全体がそれによって動くという仕組みになっています。これを私たちは「利潤第一主義」と呼んでいます。

 これにたいして、一人ひとりが、より豊かな生活をと思ってがんばることは、社会主義、共産主義の社会になっても、やはり社会を動かす大きな力になるでしょうね。

 最後に、マルクスのことをちょっと言いますと、マルクスは人間一人ひとりの発展ということをなによりも大事にしました。その立場から、将来の社会では、社会全体の生活のためにどうしても必要だという労働時間は、生産力が大きくなればその分だけ減らして、残りの時間――生活時間の大部分は、生活を豊かに楽しむこと、いろいろな面で自分の人間的発展をはかることにあてる、そういう社会になるだろうという展望をよく述べたものです。発展の道筋はいろいろあっても、一人ひとりの人間が、より豊かに、多面的に発展しようという努力が、社会発展の大動力であることは、間違いないことですね。

環境問題、どこから手をつけたらいいか?

  大学の二年生です。私は環境政策を学んでいるのですが、環境問題というのはいろいろな問題とつながっていて、たとえば、森を汚すと、川も汚れ、海にまでつながってきます。やはり自然が一体となって、環境問題が広がってゆくと思うんですが、その解決にどこから手をつけていったらいいのか、ずっとひっかかってきました。不破さんはどこから解決していったらいいと思いますか。

 不破 環境問題を考えるとき、どこから手をつけるかという問題では、環境破壊、汚染の源泉がどこにあるかを見ることが、一つ大事になると思います。

 私は、この点で、まず二つの面を考える必要があると思うんですよ。

 一つは、経済活動による環境破壊、もう一つは消費生活が生みだす環境破壊です。いまの日本と世界では、やはりこの二つの面を考えないわけにはゆきません。

 一番大きいのは、「開発」をふくめ、企業などの経済活動による環境破壊です。これは、被害もたいへん大規模で、環境をまもるルールをきちんとつくって、「開発」などの経済活動にあたる人たちや企業にしっかりまもらせる必要があります。これは、大きなたたかいですね。

 それから、人間の消費生活自体が、いま環境破壊の重要な要因になっています。これを防ぐ活動は、自治体でのゴミを分別する活動とか、いろいろありますね。これは、消費者自身が考えなければならないことです。

 この問題も、実は、企業の経済活動と関係があります。私たちが日常使う物資はみな企業の製品で、それを使って生活してゆくと、いやおうなしにゴミを出さざるをえないといった生活の仕方になってきていますから。そこから、企業へのリサイクルの義務づけとか、そこまで仕組みを考えなければならないところにきています。

 さきほど私が話したのは、もっと大きな問題、地球的な規模での協力をしないと、地球環境が危ないという状態に突き進んでいることについてでした。温暖化ガスを減らそうという「京都議定書」は、そういう国際的な協力の一つです。

 ここまで深刻になってきた環境問題ですから、各国の政府間の協力による地球的規模での活動、企業などの開発活動・経済活動の規制、個人の消費生活面での努力、この三つの面から真剣に取り組む必要があると考えています。

日本の政治が変わるのに、どれぐらい時間がかかるのか?

  中学三年生です。日本の国民が政治のあるべき姿に気づいて、自民党の政治から共産党の政治へと移り変わってゆくまでに、だいたいどのくらいの時間がかかるのかなって(笑い)。すごいずっと前から気になっていました。それから、どんなことがその大きなきっかけになると思いますか。

 不破 その時期がいつか、ということは、あなたもいうように、日本の国民の考えが変わるのはいつか、変わるスピードはどれくらいかということを、測定することでしょう。これは、測定不可能なんですよ。いつまでに政治を変えるという「計画政治」というものはないんです。

 だから、私たちが、政治を変える方向でがんばる、国民一人ひとりのあいだに、きちんと事実に立って政治を見る、道理に立って政治を見るという輪を広げてゆくことが、非常に大事で、その進み方のいかんにかかってくることです。

 もちろん、政治が変わる日は、早ければ早いほどいいわけで、私たちは、党の大会で、二十一世紀に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。しかし、そのときも、「二十一世紀の早い時期に」と決めて、何年何月までに、という日取りは決めませんでした。

科学的社会主義を、国民みんなは理解できないのじゃないか?

  大学の二年生です。きょうは、不破さんに将来の展望について聞きたいなと思って、参加しました。僕は共産党の支持者というわけではないのですが、政治にすごく興味をもっています。自民党も民主党も、将来の展望のことは言うのですが、その展望というのは、とても弱肉強食的なものがあって、きょうの不破さんの講演を聞いて、将来の明るい展望もあるんだと思いました。

 お聞きしたいことは、二つあります。科学的社会主義ということを、いま日本でとなえても、多くの人は理解できないのじゃないか、と思います。ここに参加している人たちはそれなりの知識があると思いますが、僕の周りの友達は、そういうことは考えないと思います。なぜなら、教育の問題があるからです。いまの教育について、つまりなかなか科学的社会主義が浸透しない教育について、どう思われているのか、これが第一の質問です。

 もう一つは、不破さんのような方だったら、大企業や政府の立場に立っても、この日本社会でしっかりと生きていけたと思うんです。不破さんや共産党の人たちがいま対峙(たいじ)している側に立っても、いい生活が送れたと思います。なんでそっちじゃなくて、あえて共産党という立場に立ったのか、その使命感、共産党的立場に突き動かした原動力みたいなものを、ぜひうかがいたいと思います。

 不破 まず最初の問題からいうと、私たちは、政治や社会を変えるときに、科学的社会主義という考え方で日本の国民をまとめようとは思っていないんです。

 世界観、思想というのは人間一人ひとりのもので、その一人ひとりが納得ずくで、自分の考え方を持つものです。私たちは科学的社会主義の考え方を広める努力はしますが、この考え方が多数になって、それが世の中を変えるということではない、と思っています。世の中を変えるためには、具体的に政治や経済をこう変えようじゃないかという中身で、みなが大同団結する、そのなかには、いろいろな考え方の人たちがいるわけですが、違う考え方を持った人たちも、世の中をこう変えようという具体的な中身で大同団結する、それが大きな筋道だと考えているんです。

教育について、生き方について

 不破 次に、ご質問の教育のことですが、私が学校の教育を受けたのは、だいぶ昔のことです。なにしろ、戦争が終わったとき、中学の四年生でしたから。自分の子どもが学校に通っていたころ、教育の中身に多少はふれましたが、これも相当前のことになります。ですから、教育の現状をなかから見ての意見ということはあまり言えないのですが、いろいろ感じている点はあります。

 一つは、いまの学校教育では、なにか受験のための詰め込み教育、暗記教育がさかんで、本当の学問の面白さがわかる、それを体得する教育があまりにも少ないのではないか、という印象です。これは、自然科学にも、社会科学にも通じることですが、学問を暗記物にしてしまったら、これはつまらないものですよね。試験がすんだら、忘れてしまってかまわない。ところが、自然についても、社会についても、そこで働いている道理が腑(ふ)に落ちてわかったら、これは絶対忘れないし、実になるし、深まれば深まるほど、学問が楽しみになるものです。自然科学であれ社会科学であれ、物事の道理がわかってゆく面白さを中心にした教育がほしい、こういう気持ちを強く持っています。

 最後の、生き方についての質問です。私は、まだ十六歳の若いころに共産党に入ったという話をしましたが、もちろん、そのころ、いろんなことがよくわかっていたわけではないんですね。しかし、ともかく、自分の生涯を、働く者が暮らしやすい社会、いまの言葉でいえば、「国民が主人公」の世の中をつくる仕事と結びつけたい、そういう思いで日本共産党に入ったんです。その時、なにかの分野で第一人者になろうなどといったことは、さらさら考えませんでしたね。

 はっきり言うと、党に入るということでも、だいたい、いま私がやっているように、国会議員になったり、党の幹部になったりなんてことも、まったく考えませんでしたよ。どの分野で仕事をするにしても、この党の一員として、やれることをやりたい、ということでした。入党から数年は高校と大学の学生ですから、学生の党支部の一員として働く、それから大学を卒業したときは、労働者に近いところで働きたいと思って、労働組合の事務局に入りました。ともかく、活動の場所はどこであれ、党の一員として、世の中に役に立つ仕事をしようという一筋で、やってきました。

 ですから、なんといいますか、いま質問されたような、どこそこの分野であったら、いい生活ができただろうなんてことが、頭に浮かんだことはまったくなかったんですよ。

公共事業と自民党との関係は?

  中学の三年生です。いま国の税金の使い方で、公共事業に社会保障の二倍以上のお金をかけている。自民党に利益がないのに、そういうことをするのか。

 次に、環境問題の話が出たんですけど、企業活動のほかにも、自動車の排ガスも大きな要因だと思います。周りの方の反感を買うかもしれないんですけど、自動車を移動手段にして乗る人に、環境問題とか言ってほしくない。(笑い)

 最後に、学校でちょっと困っていることです。学校で周りに頭のいい人がいっぱいいると、自分が普通でも、いまの相対評価だと成績が「1」についたりします。1、2、3、4、5の相対評価じゃなくて、絶対評価に変えてください。お願いします。

 不破 まず公共事業の話ですが、自民党は利益にならないどころか、公共事業が自分のもうけになる仕組みを、長年かけてつくりあげてきたんです。

 いまから十年ぐらい前になりますか、金丸事件という大汚職事件が起きました。当時、自民党の副総裁で大ボスの一人だった金丸信という政治家が、ゼネコン(建設企業)から賄賂(わいろ)を受けてきた罪で逮捕されたのです。その時、公共事業が自民党をいかにして太らせるかという仕組みが、大きく明らかになりました。どんな仕組みかというと、政府がいろいろな分野の公共事業の計画をたてて、その計画をどの地域に割り当てるかから、どのゼネコンに発注するかまで、全部、自民党の政治家たちが口利きをする仕組みがあって、発注をうけた企業は、請け負った工事の費用の一部を、金丸氏のところに持ってゆく、何%持ってゆくかという賄賂の率まで決まっていたんですね。

 こういう賄賂政治のおおもとは、田中角栄という七〇年代前半の首相で、国際的な収賄事件・ロッキード事件で有名になった自民党の政治家です。彼が手掛けたものが、金丸氏の時代には一つの体系にまでつくりあげられて、大型公共事業があれば、そのしかけで自民党と金丸氏のところへほとんど自動的に巨額の賄賂が流れこむようになっていました。

 金丸逮捕で、さすがにそれほど大っぴらにはできなくなりましたが、いまでも、その仕組みは広く生き残っています。茨城県や山形県で、自治体や企業の幹部、政治家の秘書や元秘書が逮捕されたのは、同じような仕組みが生き残っていることの何よりの現れでしょう。しかも公共事業でこの仕組みがつくられたら、福祉の事業だろうが何だろうが、行政のいたるところに同じやり方が広がって、悪徳業者と悪徳政治家が巣くって、国民の税金を吸い上げようとします。こういうものを思いきって根こそぎけずりとらないと、日本の政治はよくなりません。

 私たちは、これをきっぱり改めるためにも、一つひとつの汚職・収賄事件を追及するとともに、企業や団体が政党や政治家に献金するというやり方自体を禁止することを、主張しているのです。

自動車公害について、成績の相対評価について

 不破 それから、次の二つの質問ですが、環境問題では、もちろん、自動車の排ガスは重大な問題です。私が環境破壊の源泉としてあげた企業活動、経済活動のなかに、もちろんこれは入っています。この排ガスをいかにして規制するかは、環境対策の大問題なんですね。ただ、そこから単純に“自動車に乗るな”という結論を出されても困るわけで、クルマ社会がいかにして環境を汚さないで存在できるか、このきちんとしたルールを確立することが大事だと思います。

 学校の成績のつけ方――1、2、3、4、5の相対評価をやめろ、というのは、私も大賛成ですよ。この相対評価というのは、競争社会の原理です。全員百点満点でも、そのあいだに差をつけて、だれかは「1」にしなければならないのですから。あなたがこれは困るといっているのは、まったくその通りだと思います。

共産党であることの醍醐味は?

  不破さん。はじめまして。私は、地域で党員として活動しているものです。普段はいろいろな活動をやっていて、楽しく、生きいきと充実した活動をしていくことがとても大事だなと思うきょうこのごろなんですが、不破さんが党の議長としていろいろな仕事をされるなかで、不破さんにとって日本共産党の党員であることの醍醐味(だいごみ)とは何でしょうか。

 不破 どんな分野であれ、どんな活動であれ、一生懸命がんばって成果があがった時が、いちばんの醍醐味でしょうか。

 ただ、思うような成果が上がらなかった時でも、やっぱり“苦のなかに楽あり”で、がんばったことのやりがいを感じながら活動してゆく、ここにも醍醐味はあるんですね。

 たとえば、選挙でも、選挙には勝つ時と負ける時があって、このごろは、負けると本当にがっかりしたりするのですが、私の若いころは、勝つことが珍しくて、負けるのが当たり前でしたから、負けても負けてもへこたれないでがんばったものですよ。

 私は、一九六九年の総選挙に、東京の六区ではじめて選挙に出たのですが、私が交代した前の人は、党がいちばん苦しい時期に、その選挙区で、候補者を十数年やっていました。一度も当選しませんでしたよ。それをずっとがんばってやって、私が交代したころ、党がだんだん力をもってきて、私は最初の立候補で当選したのですが、やっぱり、その前の、がんばっても当選には手がとどかない、そこを一生懸命がんばるという時期は、活動のなかにあるものだし、大事な意味をもつんです。

 ですから、醍醐味とは何か、とあらためていえば、一つの目的に向かってがんばる、そしてその結果が成功であろうと失敗であろうと、力の限りがんばったなあ、と実感できる、そこが全体として、党員としての醍醐味なんでしょうか。そう思いますね。

〔最後に、司会者から、「若い人たちへのメッセージを」と求められて〕

 不破 さきほど、“歴史が変わる時、その先頭に立つのは若者の特権だ”と言いましたが、若い時代ですから、世の中のいまある仕組みを、これはもう絶対に変わらないものだとしてあきらめない、そして自分の生き方の設計についても、日本のこれからの設計、世界のこれからの設計についても、うんと大きな志と大きな展望をもって将来を見る、そういう中に自分の生き方を求めてほしい、と思いますね。

 いろいろな夢を広くもち、しがらみにとらわれずにいろいろな挑戦を大胆にできるのも、やっぱり若い時代の特権です。それが、歴史が変わる時に、大きな力を発揮するのですから。

 そういう気持ちで、これからの自分、これからの日本、これからの世界を見てほしい。そしてそのなかで自分の生き方を設計してほしい。そういうことに、きょうの私の話が、少しでも役立てばありがたい、と思います。どうもご苦労さまでした。

 


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