日本共産党

2004年9月29日(水)「しんぶん赤旗」

東海村発 JCO臨界事故から5年<上>

脱出した住民も後遺症不安

「見えない恐怖」に震え


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 茨城県東海村の核燃料製造会社JCO(ジエー・シー・オー)で一九九九年九月三十日に発生した臨界事故から五年。その後も東京電力の原発トラブル隠し、五人の犠牲者を出した福井県の関西電力美浜原発事故など原子力の安全にかかわる重大事故が相次いでいます。“原子力発祥の地”東海村の臨界事故後を追いました。北関東総局・山本眞直記者

 臨界事故の起きた当日深夜、国道6号を南に向けて疾走する一台の乗用車。JCOから直線距離で三キロに自宅のある那珂町の主婦(47)はハンドルを握りしめていました。

地縁・血縁、「原子力縁」

 バックミラーに映る三人の子どもの寝顔に安心しながらも、路面を照らすヘッドライトの強い光とは裏腹に、臨界事故への恐怖と自分たちだけの脱出への後ろめたさで気持ちは暗く、ゆれつづけていました。

 事故をニュースで知った古河市の妹の誘い、夫の強い後押しで決行した緊急避難。この日、三十一万人が屋内退避を余儀なくされ、この家族をふくめ被ばくへの恐怖から隣接町村へ脱出した住民は少なくありませんでした。

 東海村には、地縁・血縁に加えて「原子力縁」という言葉があります。十三の原子力関連施設が集中し、約三万五千人の村民の七割がなんらかの形で原子力産業に関係しているからです。

 事故から五年。関係者の重い口は変わりません。

 臨界事故で被ばく、死亡したJCO従業員の大内久さん、篠原理人さんは日本の原子力事故での最初の犠牲者です。

 遺族の一人を茨城県北部の山間の自宅に訪ねました。遺族の男性が額の前で両手をあわせ、拝むようにして小声でいいました。

 「あのことには触れたくない。話すことはありません」。居間のテレビが美浜原発事故の続報を報じていました。

 先の脱出した主婦は子どもたちの健康不安を今も持ちつづけています。

 「あの日、日中、外出していて事故を知ったのは帰宅してからでした。子どもたちが雨のなか、びしょぬれで帰ってきました。ヒロシマの放射能雨のことを思いだし、恐ろしさで足がガクガク震えました。風呂場で子どもの全身を洗いながし、ヨウ素剤(原子力事故で甲状腺被ばくを防止する)もなかったので代用品にとワカメや昆布を沢山食べさせました。いまも子どもたちの健康が不安です」

科学者は呼ぶ「裸の原子炉」

 二人の命を奪い、東海村をはじめ半径十キロ、三十一万人が二十数時間に及ぶ臨界継続の間、人体に危険な放射線という「見えない恐怖」を味わった臨界事故。事故を起こした沈殿槽を科学者たちは「裸の原子炉」とよびました。

 原子力発電所の原子炉は、放射線が外部に漏れないように防護壁で固められています。しかし問題の「沈殿槽」は「臨界はおきない」前提でつくられており、放射線を遮断するものはなにも装備されていませんでした。 (つづく)


JCO臨界事故

 核燃料製造会社のJCOで発生、従業員二人が被ばくして死亡、現場から半径十キロ範囲の住民約三十一万人が屋内退避を勧告されました。ウラン溶液についての教育を受けていない作業員に「バケツ」で通常の七倍もの大量のウラン化合物を投入させた過程で、核分裂反応が連続して起きる臨界が発生、中性子やガンマ線を大量に放出。従業員のほか六百六十人余の周辺住民が被ばくしました。



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