日本共産党

2004年9月28日(火)「しんぶん赤旗」

私はなぜ倒れたか

酷使する会社を告発(1)

休みは三が日と大みそか


 車に日用品と衣類を積み込み、洗車をはじめて数分後のことです。

胸に強い衝撃

 「ビリッ、ビリビリ」。突然、胸のあたりに強い衝撃が走りました。同時に、激痛と呼吸困難に襲われました。顔面蒼白(そうはく)となり、家に転がるように倒れ込み、台所で昼食のしたくをしていた二女に必死に助けを求めました。

 「救急車を呼んでくれ! 心筋梗塞(こうそく)かもしれない。お母さんにはもう会えないかもしれないが、とにかく急いで帰ってくるよう伝えてくれ」。失神寸前の状態のなか、これだけいうのが精いっぱいでした。

 「もうすぐ病院に着くからがんばって!」。病院への搬送途中、帰宅した妻の必死の励ましの声を聞いたのを最後に、気を失いました。

 秋山光夫さん(54)。賃貸住宅建設会社「大東建託」(麻田守孝社長、従業員六千三百人)の社員だった一九九七年四月二十日のことです。この日、秋山さんは、前日買い求めた日用品を車に積んで千葉市の自宅から単身赴任先の八王子市(東京)のアパートに戻るため、自宅駐車場で洗車中に発症しました。

 人事異動で千葉支店から八王子支店に赴任したばかりで、身の回りの物をそろえるため一時帰宅していました。

奇跡的な生還

 病院に到着したとき、心肺機能はほとんど停止状態。救急車の手配が遅れていたら、その場で大動脈瘤(りゅう)が破裂し、確実に死に至っていたといいます。間一髪、奇跡的な生還でした。急性大動脈解離という心臓疾患でした。

 しかし、一命はとりとめたものの、心臓の大動脈弁を人工弁に置換し、大動脈も人工血管置換術を受け、心臓機能に著しい障害が残りました。主治医から、「いつ心不全を起こしても不思議ではない状態。明日の命は保証できない」と言われています。身体の活動能力は病気になる前の八〇%を喪失しました。

 駅の階段をのぼるのに、何度も一息入れなければなりません。

 「倒れるべくして倒れました。同僚と、誰が先に過労死するか、過労死すれば労働条件が改善されるのではないか、とささやいていたほどです」と秋山さん。

 千葉支店時代、想像を絶する長時間労働が続いていました。年間の休日は正月の三が日と大みそかだけ。午前七時半に出社し、退社は午後十時。帰宅はいつも午後十一時ごろになりました。

生活実感なく

 「食事と入浴、そして就寝前の日課となっていた次の日の行動予定表を作成し、就寝はいつも午前零時半ごろになっていました。五時半には目を覚まし、睡眠時間は五時間程度でした。家庭での生活実感はまったくありませんでした」と秋山さんは話します。

 手術後、療養期間中に、千葉労働基準監督署へ相談に行きました。しかし、労基署は発症前一週間の労働実態を重視する当時の労災認定基準を盾に、まともにとりあってくれませんでした。

 秋山さんは、あきらめませんでした。近い将来、必ず認定基準が改定されるとの希望をもち、記憶が鮮明なうちにと労災申請に必要な資料作成に一人没頭しました。

 「このままでは名誉回復ができない、と死にものぐるいでした」

 五年という労災申請の時効が迫った二〇〇一年末、待ち望んでいた認定基準が緩和され、長期の疲労蓄積が脳・心臓疾患の発症に影響を及ぼすことを認める認定基準に改められました。

 翌年一月に労災申請し、二〇〇三年四月に労災認定されました。

 ◇

 死に至らなかったものの、身体障害者一級の体となった秋山光夫さん。「過労死をなくすための一助になれば」と、勇気をふるって過酷な労働実態を告発しました。連載でとりあげます。

 (つづく)



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