日本共産党

2004年9月12日(日)「しんぶん赤旗」

追悼 水上勉さんのこと

不破哲三


 九月八日昼、北京で開かれた第三回アジア政党国際会議から帰って、その状況と成果を「しんぶん赤旗」紙面で紹介する仕事の相談に追われている最中、ニュース報道の「……八十五歳……」の声が、テレビの画面から耳に入ってきた。すぐ「雁の寺」「飢餓海峡」など作品紹介の言葉が続く。間違いなく水上勉さんである。

 妻がすぐ長野の勘六山山房に電話を入れる。陶器づくりをしている角(すみ)さんが最初に出て、すぐ長女の蕗子さんに代わる。なくなったのは、今朝がただったとのこと。「安らかで美しい顔だった」との蕗子さんの言葉がわずかの慰めだった。この秋うかがうつもりでいたのに、もう会えないか、との思いがどっと胸を締める。

十五年前、交流は思わぬことから始まった

 私と水上さんとの交流は、思わぬことから始まった。北京訪問中に天安門事件にぶつかり、激動と緊張のただなか帰途についた水上さんが、帰国のその夜に心筋梗塞(こうそく)の発作を起こし緊急入院したことは、報道で知っていたが、一九八九年八月、その水上さんから丹沢山すそのわが家に電話がかかってきたのである。

 妻が電話をとると、水上さんご本人の声、病院のベッドからだった。「作家の水上さんですか」と思わず問いなおしたという。発作から二カ月の病床で、ある新聞の記者から、“同じ病気をしたのに、元気で山に登っている人がいる”と、私と娘の登山写真を見せられたとのこと。

 あとでご当人にうかがうと、「そのときは地獄から呼び出しが来る心境だったから、不破さんに、心臓がそんなでどうして山に登れるんだか、その秘伝を聞きたかった。そうしたら奥さんが出てこられたんで、これはと思って、電話を離さず聞きたいだけ聞いたんですよ」との弁だった。

「目に見えない地下茎でつながった“心友”」

 それから十五年間、京都・百万遍のマンション、長野・勘六山、若狭「一滴文庫」と、水上さんの各地の拠点を夫婦で訪ねたり、丹沢のわが家にお招きしたりの出会いを重ねた。長野の最初の訪問の時に、お寺での修行時代にきたえた腕で精進料理を用意し、「すがすがしい気分で台所にいます」のFAXをいただいたこと、またそのとき、ゆで小豆を妻がおいしいと褒めたら、四年後のわが家への訪問のさい、“お土産にゆで小豆をもってくる人はいないでしょう”と二包みも持参してくれたこと、など、水上さんの人柄があふれ出る楽しい交流だった。

 日ごろの交流の主力は電話、そのあいだにFAXや手紙でのやりとりが重なったが、FAXと手紙も、数えて見ると往復五十数通に及んでいる。

 水上さんは、違う分野で活動する私との関係を、みごとな言葉で表現してくれた。「考えが通底している」などなど。いちばん頻繁に使ったのは「心友」の言葉だが、これは実は、一九九二年、京都のマンションでの初対面のときに、妻が口にだしたもの。水上さんが名解説をつけてくれた。「“心友”とは、心臓だけのことじゃないですからね。いわくいいがたし、というつきあい。そう、目でみえない地下茎でつながっている」。

 十六年ほどたってから、「不破さんとの間になにか通じるものがあると思えた時にあの電話をかけたのでした」と打ち明けてくれたのも、心うれしい便りだった。

対談『一滴の力水』――同じ時代を生きて

 交流の集大成となったのは、光文社の企画による対談である。水上さんは一九一九年、私は一九三〇年の生まれで、年齢には十一歳の違いがある。しかし、話し合ってみると、同じ時代を生きてきた、という思いが、共通の実感となった。若いころに読んだ『文学全集』も共通、歴史のどの時期にも重なりあう感慨があった。五〇年代、私は駒込駅から本郷の東大まで毎日都電で通ったが、水上さんは、本郷に住んでいた作家・宇野浩二氏の家に通うため、飛鳥山から同じ電車に乗り同じ停留所で降りていたという。水上さんの長男の窪島誠一郎さん(戦没画学生の作品を集めた上田市の「無言館」の館主)が生まれたのが鶯谷駅に近い産院で、妻の一家が住んでいたアパートの近所だったことにも驚かされた。

 こんなこともふくめ、二人の生きてきた時代のこと、文学のこと、若狭のこと、おたがいの母や父のこと、政治のこと、東京と京都のこと、原発のことなど、思いのたけを語り合って生まれたのが、対談『一滴の力水』だった。おこがましくも、文学の世界の大家と文学について語りあうなどは、私にとってかつてないことだったが、水上さんが、大家ぶりをかけらも見せずに、“水上勉論”をふくむ文学対談に気持ちよくつきあってくれたのは、ありがたいことだった。

 この対談での忘れがたい交流を思って、二人が本の巻頭と巻末にそれぞれ書いた文章を、出版社の了解をえて、紹介しておきたい、と思う(十四日付掲載予定)。

いただいた最後の手書きの手紙

 水上さんは、本の校正刷りをもって、二〇〇〇年の正月、ハワイ旅行に出かけられたが、そこで体をこわされた。それでも、対談集に寄せられた多くの方々の感想をお送りすると、必ず、感想の感想をしたためたFAXが返ってきたし、その年の六月、私の最後の国会選挙のときには、入院先の病床から、第一声への連帯のメッセージを送っていただいた。そのあと、退院とリハビリの状況を知らせた、FAXならぬ手書きの、次のような手紙(八月十六日付)がとどいた。

 「夏がゆきます。リハビリに専(もっぱ)らになります。七月五日に退院してからテレビばかり見ています。不破さんが登場すると、穴があくほど見ます。 水上 勉」

 その後、電話での交流は続いたが、あとに残る手紙の形では、これが水上さんからの最後の文章となった。

 密度の高い、そして人間的なあたたかさに満ちた、十五年の交流を思い返しながら、人生の大先輩への、私たちの心からの敬意と哀悼をこめて、お別れの言葉としたい。



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