日本共産党

2004年3月23日(火)「しんぶん赤旗」

石播の思想差別に勝った

たたかい40年 原告“万感”

口をきくな 目を合わすな 行事に呼ぶな 仕事取り上げろ…“職場八分”

“職場を変える一歩にしたい”


 「これって、勝ったというんですね」「これからは失ってきた人間関係を取り戻し、職場を変える一歩にしたい」――大手軍需産業・石川島播磨重工業とたたかってきた田無、瑞穂工場に所属する原告は二十二日、和解後の勝利報告集会で四十年近い差別とのたたかいを振り返りました。感想は一分ずつで短いものでしたが、仲間の発言に原告の誰もがうなずいていました。たたかってきた親を写真に撮る娘もいました。「人生の半分が抹殺されたような気持ち」という思いもあるだけに、喜びの中にも万感迫るものがありました。米田憲司記者

共産党員というだけで

 八人の労働者に対する石播の「職場八分」は半端ではありません。「口をきくな、目を合わすな、職場の行事に呼ぶな、香典は受け取るな、仕事は周りが覚えて取りあげろ、定年のあいさつはさせるな」――火事と葬式以外は差別した昔の「村八分」と同然の差別と嫌がらせ、徹底した見せしめが、技術の先端をいく大手軍需産業の職場で行われてきました。

 原告団の一人、工藤龍太郎さん(64)は、人工衛星の傾きを地上から測定して制御する技術を開発し、一九八五年に社長賞を受賞しています。それが八六年の七千人人減らし「合理化」以後の退職までの主な仕事は、職場のコピーとり。社長賞を受賞する優秀な人材でも日本共産党員というだけで雑務ばかりやらされてきました。

 山口健司さん(62)の場合は、フライス盤の検定一級の技能者です。重要な仕事は与えず、昼休みに組合の集会を開いたというだけで、「無届けだ」として処分。その後も難くせをつけては出勤停止や懲戒処分の繰り返しが行われました。

 石井浩さん(62)の場合は、わざとミスを出すように教えるべきことを教えず、ミスをすれば待ってましたとばかりに、みんなの前で始末書を書かせました。三度目の出勤停止処分では、今度何かやったら解雇するという「解雇条件」までつけられました。

定年迎えても送別会もなし

 原告団事務局長を務めた鈴木京子さん(62)の場合は、上司から再三、退職を迫られる一方、女性差別を受けてきました。仕事の打ち合わせや引継ぎをしようとしても、同僚は、口もきいてくれません。女性同士の昼食会にも呼ばれなくなっていきました。

 ある時、仕事が一段落して顔を上げると、周りに人がいません。鈴木さんら日本共産党の活動家を除いて、別の場所でインフォーマル(秘密労務)組織の打ち合わせをしていたのです。石播では、お花見や歓送迎会などの職場行事をインフォーマル組織が行うことで、こうした会合から党員らを締め出していました。

 「職場の一人ひとりはよい人ばかりです。が、周囲には目が光って、仕事の話さえできません。抗議してくれる人もいましたが、勤労(労務)に呼ばれた後は黙ってしまいました。私が定年を迎えた時は、送別会も開いてもらえず、見かねたパートの人たちが駅で花束を贈ってくれました」

 原告団長の渡辺鋼さん(60)は、ずっと窓際で仕事を与えられませんでした。会社は、彼の得意とする海外関係の仕事などをも別の人間に覚えさせ、仕事を奪っていきました。

仲間の支援があったから

 八人を支えてきたのは「こんな理不尽なことが許されてよいのか、という悔しさと自分たちのたたかいは正しい」という気持ち、それに仲間の温かい支援でした。

 渡辺さんはいいます。

 「八人ともまともな仕事が与えられず、話もさせてもらえない。労働者のためにたたかわない労働組合のあり方も大きな問題です。こんな状態を許していたら労働者も会社もだめになってしまいます。この和解によって新しい労使関係を築いていかなければ…。私たちの勝利は新しい段階に向けたスタートだと考えています」


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