日本共産党

2003年9月9日(火)「しんぶん赤旗」

チュニジアの七日間(16)

中央委員会議長 不破哲三

カルタゴとマルクス、エンゲルス


商業民族フェニキア人とその拠点都市カルタゴ

 カルタゴ探訪記から、ちょっと脇道に入ることを許してもらいたい。

 マルクスやエンゲルスは、カルタゴやフェニキア人たちについて、かなり多くのことを語っている。

 『資本論』で、古代の「商業民族」について、「エピクロスの言う神々のように、……古代世界の空隙(くうげき)にのみ存在する」(新日本新書(1)一三四ページ、(9)五五六ページ)と、くりかえし語っているのも、おそらくフェニキア人たちをまず頭に浮かべての文章であったろう。商業が十分に発達していない古代世界で、フェニキア人たちは、各地に飛び飛びの形で拠点をきずきながら、その活動の領域を広げ、北は現在のイギリスから、南は西アフリカのカメルーンあたりまで進出していった。その飛び飛びの拠点を神々の住む「空隙」にたとえたのだとすれば、難解なこの文章もふに落ちるというものである。

 マルクス、エンゲルスは、世界貿易の大中心地がどこかを歴史的に論じた論説のなかで、「古代では、テュルス、カルタゴ、アレクサンドリア」と三つの都市をあげている(「評論」一八五〇年、全集(7)二二七ページ)。テュルスとは、フェニキア人の本拠フェニキア(現在のレバノン)の港湾都市であり、フェニキア人とカルタゴの商業活動にたいする評価は高い。

エンゲルスのハンニバル論

 ポエニ戦争など、軍事面でのカルタゴ論になるとエンゲルスの出番だ。エンゲルスは、マルクスと共同の“内職”仕事として、アメリカの百科事典への執筆の契約をしたとき、軍事の分野は一手に引き受けた。そのなかに、一連のカルタゴ論がある。

 彼がいちばん最初に書いたのは、「軍隊」という項目だが(一八五七年八月―九月執筆)、その時は、カルタゴ論は資料不足でまったくお手上げだったらしい。「カルタゴの軍隊の詳細については、われわれは知るところがない。ハンニバルに率いられてアルプスを越えた軍隊の兵力についてさえ、いろいろな異論が存在する」(全集(14)一七ページ)とあるだけで、あとは切り捨ての感じである。

 ところが、翌年、「騎兵隊」の項目を書いたときには(一八五八年三月―六月執筆)、「知るところがない」どころか、ハンニバルの騎兵隊の編制からその優秀さ、一連の戦闘の経過とローマ軍を撃破した用兵の巧みさなどを詳細に描きだし、カルタゴ軍と将軍ハンニバルの軍事的功業をたたえたのだった(同前二六八―二七一ページ)。とくに、ローマ軍を撃破した三つの大戦闘―ティキヌス河畔(前二一八年)、トレビア河畔(同前)、カンナエ(前二一六年)の戦いについては、その記述は実に詳細である。これは、エンゲルスが、この間に、ポエニ戦争についてのローマ側の資料を手に入れて研究した成果だった。

マルクスには、もう一つのカルタゴ論があった

 実は、マルクスには、フェニキア人を古代の代表的な「商業民族」として評価したカルタゴ論だけでなく、もう一つのカルタゴ論があった。それは、いわゆる「幼児犠牲」の悪習についての記述である。「周知のように、テュルスとカルタゴの支配者たちは、彼ら自身を犠牲にささげるのではなく、貧乏人の子供を買い取って、モロック神の灼熱した腕のなかに投ずることによって、神々の怒りをやわらげたものである」(「反プロイセンの扇動」一八五五年、全集(11)一二八―一二九ページ)。これは、イギリス政府が、失政の結果を人民の犠牲であがなおうとしていることを批判したさい、その悪政はカルタゴの悪習に匹敵すると論じる形で、もちだされたもの。マルクスが「周知のように」と書いたように、カルタゴの「幼児犠牲」の話は、当時のヨーロッパに広く知られている話だったらしい。

 フランスの作家フローベールは、小説「ボヴァリー夫人」で有名だが、カルタゴを題材にした歴史小説「サランボー」(一八六二年)のなかには、幼児を生贄(いけにえ)にする儀式の生々しい描写がある、という。雑誌『世界遺産』の第二十六号『カルタゴの考古遺跡/チュニスの旧市街』(講談社)は、「サランボー」の挿絵を転載しているが、その情景が、映画「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」の「魔宮」場面にそっくりなのには、驚かされた。こんなところにも、カルタゴ伝説の影響が表れているらしい。私たちは、カルタゴ探訪の足を、この伝説と結びついた聖地「トフェ」の遺跡に向けることにした。(つづく)


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