日本共産党

2003年5月28日(水)「しんぶん赤旗」

原爆症 国は認定せよ

被爆者21人が集団提訴 第2陣


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原爆症の認定を求めて提訴のために東京地裁に入る原告団ら=27日、東京

 原爆症の認定却下処分の取り消しを求めて二十七日、被爆者二十一人が国と厚生労働大臣を相手取り、東京、千葉、大阪の各地方裁判所に集団提訴しました。四月十七日の札幌、名古屋、長崎の各地裁への提訴につづく第二陣です。

 東京地裁に提訴したのは十七人。このうち十六人が各種のがんで、一人が肝硬変(C型)に苦しんでいます。

 会見で各原告は、「被爆被害のむごさを命ある限り訴え、国の被爆者行政を改めさせたい。被爆者を二度とつくらないために核兵器の廃絶を求めたい」と語りました。

 国は、爆心からどれだけの距離で被爆したかなどの数字を機械的にあてはめる認定基準で申請を却下。原爆投下後に被災地入りした人は最初から排除されています。

 弁護団は、「原爆症の認定を勝ち取ることに目的があるが、裁判を通して核廃絶の世論につなげたい。厚労省の被爆者認定行政と国の核政策を、改めさせたい」と強調し、早期解決を訴えました。

 ひきつづき六月十二日に広島、長崎、熊本で第三陣が、集団提訴します。

命がけでがんばる 原告ら集い

東京

 「原爆症認定の集団訴訟を勝利させよう」と二十七日、東京都内で「勝利をめざす東京の集い」が開かれ、会場からあふれる百五十人が参加しました。原告十三人と病床にふす原告に代わって妻も駆けつけ、激励の拍手に包まれました。

 「原爆裁判の勝利をめざす東京の会」の児嶋徹会長があいさつ。この十五年間に千五百人近くの被爆者が亡くなり、そのほとんどががんによるものであることを報告、「原告とともに生きて生き抜いて裁判を勝利させたい」とのべました。

 東京弁護団の高見澤昭治団長が、集団提訴の報告をし、裁判勝利への支援を呼びかけました。

 原告の一人ひとりが自己紹介。各氏は「原爆で人生をめちゃくちゃにされた」体験と五十八年間の苦しい思い、決意を語りました。

 原告団の加藤力男団長は「命をかけ、怒りを込め、政府の冷たい被爆行政を変えさせるためにがんばる」と力を込めました。大森克剛副団長は「体の傷をたたかいの勲章としてがんばる」と表明。山本英典さんは「すべてのがんは原爆症だと認定せよ」と声を強めました。

大阪

 近畿では三人の原爆被爆者が大阪地裁に提訴しました。

 日赤看護学生として広島赤十字病院に勤務していた深谷日出子さん(78)=兵庫県篠山市=は爆心地から一・七キロの病院寄宿舎で被爆、目にせん光を受けました。そのため白内障に。「自分よりもっとひどい状態の人がいます。まだ動ける私が提訴しなければと思いました」と語りました。

 長崎高等女学校に在学していた葛野須耶子さん(73)=神戸市北区=は爆心地から三・三キロの自宅内で被爆し、甲状腺機能低下症です。「個人だけのためではなく、核兵器を地球からなくすことにつながれば」といいます。

 広島市内の小学生だった木村民子さん(66)=大阪市城東区=は爆心地から二キロの学校近くで被爆、昨年胃がんの手術を。「爆心地からの距離だけで認定を切るような行政に冷たさを感じます。被爆者のことを考えてほしい」と語りました。

千葉

 千葉県では、長生郡に住む男性(71)が千葉地裁に訴えを起こしました。

 男性は、原爆症認定を申請して七カ月目の昨年三月、厚生労働省から発病したぼうこうがんは原爆との因果関係は認められないとして、認定を却下されました。同年六月に異議を申し立てましたが回答がないため、全国訴訟の一環として提訴したものです。

 男性は、旧制中学二年生の十三歳の時、広島の矢口(爆心地から五キロメートル)で被爆。学校に戻ろうとして市中心部に入り、七日から八日まで遺体運搬などの作業に従事。黒い雨や黒いすすを浴びたり吸い込んだりして放射能を浴びました。

 直後から激しい頭痛、下痢、脱毛、歯茎からの出血が襲いました。一九五一年ごろからぼうこうに異常が続き、昨年一月ぼうこうがんで全摘出手術を受け、現在人工ぼうこうで不自由な生活を余儀なくされています。


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