「日の丸・君が代」問題を国民的な
討論の軌道にのせるために

国旗・国歌問題についての日本共産党の立場

日本共産党幹部会委員長 不破 哲三


 三月十七日にひらかれた日本共産党都道府県委員長会議で、不破委員長がおこなった報告はつぎのとおりです。掲載にあたって、若干の整理をおこないました。


 みなさん、おはようございます。

 「日の丸・君が代」の問題、国旗・国歌の問題で私たちがこの二月に政策を発表したことが、一つの大きなきっかけになって、この問題をめぐる情勢が非常に大きく動きつつあります。まだ”序の口”ですが、この問題についての、いわば歴史上初めての国民的な討論を起こしひろげる条件が生まれつつある、といってもよいでしょう。

 そういう情勢をふまえて、この問題への攻勢的なとりくみをいかにすすめるかについて、私たちが考えていることを報告し、とくに運動面での意思統一をおこないたいと思います。

1、「日の丸・君が代」問題はどうなってきたか

私たちが「日の丸・君が代」に反対する理由

 まず全般的な状況を話しますと、第一に、「日の丸・君が代」の問題がこれまでどうなってきたかを、あらためて、みる必要があります。

 私たちは以前から「日の丸」を国旗とし「君が代」を国歌とすることには反対だという立場をあきらかにしてきました。また、少なからぬ国民が、「日の丸」「君が代」には同意しない態度をとっています。

 その理由を簡潔にいえば、「君が代」という歌は、千年以上前の作者の意に反して(注1)、明治以後、天皇の統治をたたえる歌という意味づけをあたえられてきたことです。「君が代は千代に八千代に」、つまり”天皇統治は永久であれ”という歌ですから、これは、いまの憲法の国民主権の原則とはまったく両立することはできないわけです。「日の丸」の歴史は少しちがいますが、最大の問題は、これが、日本が中国をはじめアジア諸国を侵略したとき、侵略戦争の旗印として使われてきた旗だということです。前の大戦で、侵略陣営の主力となったのは日本・ドイツ・イタリアの三国でしたが、この戦争中に侵略の旗印として使った旗をいまもそのまま国旗としているという国はありません。ドイツもイタリアも戦後、国旗を変えました。

(注1)「君が代」の歌詞は、中世の和歌集におさめられている古歌の一つだとされています。「古今和歌集」には「詠み人知らず」として収録されていますが、津田左右吉氏は、その本来の意味は、自分の家の長老の長寿を祝った歌だったと、つぎのように解説しています。「いま国歌として取り扱われている『君が代』の原歌、『我が君は千世に八千世に』の歌が御代の長久を詠んだもので無いことはいうまでも無かろう。現に小野宮実頼の五十の賀の屏風の歌に、『君が代を何れにたとへんさざれ石の巌とならんほどもあかねば』という元輔の作が、後撰集にある」(『文学に現はれたる我が国民思想の研究』岩波文庫版(一)二五九ページ)

 ある憲法学者は、「君が代」も「日の丸」も”大日本帝国”の象徴だったのだから、大日本帝国がなくなったときに、その象徴であった旗も歌も明確に廃止されてしかるべきだった、国の体制が変わったら、当然、国旗も国歌も新しいものを生みだすべきものだ、と論じています。ここには、そういう深刻で重大な問題があるのです。

政府による社会と教育へのおしつけの異常さ

 戦後、日本の憲法体制が変わったのに、国旗・国歌をどうするかについて、国民的な討論がおこなわれたことは一度もありませんでした。ところが、政府は、国民的な討論のないまま、また法的な根拠もなんらないまま、いつのまにか戦前の状況を復活させて、「君が代」が国歌だ、「日の丸」が国旗だというあつかいを勝手にやりはじめ、問答無用の形でそれを社会におしつけ、とくに教育現場におしつけてきました。ここに、国旗と国歌の問題の、世界に例のない異常さがあるのです。

 教育現場の状況の異常さについては、こんど、サミット諸国の国旗・国歌事情を、「しんぶん赤旗」の特派員の現地取材を中心にまとめてみました。お配りしてある「サミット諸国の国旗・国歌について」という資料(別項)がそれです。実際に、その国の教育現場で国旗・国歌がどうあつかわれているかを、サミット六カ国の政府に問いあわせて調べたものです。カナダには特派員をおいていませんから、ここは在日大使館にききました。

 これをみると、国旗・国歌の問題で、子どもたちになにか強制的な義務づけをしている国はどこにもないということが、よくわかります。

 とくに重要なのは、アメリカの経験です。この資料のアメリカの部分に書いてありますが、一九四三年に、この問題にかんする連邦最高裁の判決がでているのです。ある州(ウェストバージニア州)が、一九四二年に、州の法律で、国旗への敬礼を子どもたちに義務づけたのですね。一九四二年というと、日本の真珠湾攻撃の翌年、いわば愛国意識の高揚がいちばん問題になった時期のはずです。ところが、このことが連邦最高裁の問題になって、最高裁は「憲法違反」だとする判決をくだしました。判決文の骨子を資料に紹介してありますが、「星条旗〔アメリカの国旗〕に敬礼や忠誠を強要するという地方当局の行為」は、「憲法で定められた地方当局の権限の限度」を超えており、「知性と精神の領域を侵している」というものです。つまり、憲法によって保護されるべき、国民の良心の自由を侵すものだというきびしい判決です。もう五十年以上前の最高裁判決ですが、この精神が今日でもかたくまもられています。

 これは、いわば近代国家の常識です。だから、サミット諸国のどこでも、国民のこの権利を侵して、国旗・国歌にたいする態度を教育現場に強制するようなことは、まったくしていないのです。国旗・国歌を法律できちんと決めている国でも、そうなのですから、それだけみても、日本の現状が世界に例のない異常な状況であることがはっきりするでしょう。

政府は正面からの議論を避けてきた

 このおしつけを社会の全体にひろげるために、政府・自民党は独特の作戦をとってきました。それは、「日の丸・君が代」問題の正面からの議論を極力避け、これは日本社会では事実上国旗・国歌あつかいされているものだから、あらためて議論をする必要はないという、いわば問答無用の論理で国民におしつける、というやり方です。正面から議論をすれば、まず「君が代」の「君」とは何かが問題になる、「君」が天皇だといえば、国民主権をうたったいまの憲法とどう両立するかがすぐ問われて、国会でも責任ある「政府見解」をださざるをえなくなる。そうなると、自分たちの立場の矛盾がいやおうなしにあきらかになりますから、この種の正面からの議論は避け、これは「国民的に定着している」という形で教育現場におしつけ、教育をつうじて社会の全体にむりやり認知させる、これが政府・自民党の一貫した作戦でした。

 この問答無用方式をささえる政府のいいぶんには、もう一つ「国際的に認知されている」というものがあります。オリンピックなどでも、日本の国旗といえば「日の丸」、そのときに歌う国歌は「君が代」と決まっていて、世界のどこからも文句はでていないじゃないか、といういいぶんです。

 こうして、政府は、「国民的定着」と「国際的認知」とを、いわば二つの錦の御旗にしてきました。国会で、これが問題になるときでも、「日本では社会的にすでに定着しているものですから、わざわざあらためて議論しなおして、法律にする必要のない問題だ」というのが、政府の一貫した説明でした。

 現実には、「国民的定着」どころか、国民のあいだで大きく意見がわかれているのですが、国民のあいだでも、この問題で討論したり対話したりする条件はなかなかできない、実際にある意見のちがいが現実には陰にかくれて、教育現場で事件が起きてきたときだけ、社会的な話題になるという状況が長くつづいてきました。

 これが政府の作戦の付け目で、学校へのしめつけをじりじりとつよめてくる、その結果、教育の現場では実に深刻な矛盾が積み重ねられる、こういう事態がすすみました。

 教育現場の様子をきいてみますと、現場の先生方は困難な条件のもとで、「学習指導要領」による文部省のしめつけにたいして、たいへん苦労の多い抵抗闘争をやられています。しかし、「日の丸・君が代」問題をどうあつかうかという、議論の大きな背景がありませんから、子どもたちの自由をどうまもるかというレベルの話になって、問題の性質上、社会的な大きな議論にはなかなかなりにくい。基本問題での地域での議論もありませんから、親御さんに訴えるのにもむずかしい面がある。結局、がんばっているところでも、「解決の展望のみえない抵抗だ」というため息まじりの声があがる、ということも、うかがいました。

解決策は、問題を国民的な討論の舞台に移すこと

 この状況を打ち破るには、どうしても、この問題を国民的な討論の舞台に移す必要がある――これが、「日の丸・君が代」問題の実際の経緯にてらして、いよいよさしせまった問題になってきた、私たちは、こう考えました。

 しかも、一方で、日本の人口の構成、世代的な構成もどんどんかわって、戦後生まれの方たちが多数になってきていますから、「日の丸・君が代」の賛成派も反対派もふくめて、この問題を冷静に議論する条件は、以前よりも大きくなっていると思います。

 たとえば、この問題が起きてから、テレビなどでも話題になっていることですが、いくら政府がおしつけても、「君が代」という歌の意味もわからない、という状況がひろがっています。東京新聞の報道によると、日本語学研究所というところで、「君が代」問題について各世代にわたる調査をやってみたとのことです(三月十二日付夕刊)。最後の「さざれいしの、いわおとなりて」という歌詞の「いわおとなりて」をどう解釈しているか、という調査でした。その結果は、「岩の音がして」という意味だと思うという答えが、二十歳代では三分の一近くもあったとのことです。こういうことからいっても、この問題を冷静に討論できる条件が、社会的、世代的につよまってきたといえるでしょう。

2、日本共産党の提唱とその意味

雑誌『論座』のアンケートに答えて

 つぎに、日本共産党の提唱の意味についてです。

 私たちは、いま説明した認識にたって、この問題は国民的な討論のレールに移す必要があるということを、以前から考えていました。ちょうどそのときに、ことしの一月、朝日新聞社がだしている『論座』という雑誌から、「日の丸・君が代」問題のかなり突っ込んだアンケートがもとめられました。これは、党としてまとまった見解をのべるよい機会だと考えて、常任幹部会での討議もへて、私たちの回答を用意しました。

 このアンケートは、各政党にたいして質問すると同時に、マスコミの諸機関にも――NHKなど各新聞社まで――、その社が「日の丸・君が代」をどうあつかっているかの見解をもとめていました。その結果をみると、政府のいう「国民的定着」論にたって、「日の丸・君が代」を国旗・国歌としてあつかうというのは、マスコミの共通の立場でないことがよくわかります。その点でも、たいへん興味深いアンケートとなっていました。

 私たちは、このアンケートへの回答のなかで、まず、私たちが「日の丸」「君が代」を国旗・国歌とすることに反対であることを、その理由を付して、簡潔にのべました。

 「『君が代』『日の丸』を国歌・国旗として扱うことには反対です。

 第一に、『君が代』は、一八八〇年に海軍省の依頼で作曲されたのが始まりで、その後、小学校の儀式での斉唱を義務づけたこと(一九〇〇年)から、戦前、国歌的な扱いをうけました。内容は、天皇の日本統治をたたえる意味で使われてきた歌であり、『国民主権』を定めた現憲法とは相いれないものです。

 『日の丸』は、もっと古い歴史をもっていますが、国旗としては一八七〇年、太政官布告で陸海軍がかかげる国旗として定めたのが最初です。太平洋戦争中、侵略戦争の旗印となってきたことから、国民のなかに拒絶反応をもつ部分が大きくあり、現在でも国民的な合意があるとはいえません。外国でも、日本と同様、第二次世界大戦の侵略国であったドイツとイタリアでは、大戦当時と同じ旗を国旗としていません」

 私たちはまた、この回答のなかで、法的根拠もなしに問答無用で社会や学校に強制してくる、政府のやり方の無法さを正面から追及し、告発しました。

 「第二に、さらに重大なことは、『君が代』『日の丸』が、何の法的根拠もなしに、『社会的慣習』を理由に、一方的に国歌・国旗として扱われていることです。これは、世界でも異常なことで、サミット参加国(注2)をみても、成文憲法をもたないイギリスは例外ですが、他のどの国も、憲法や法律で根拠を定めています」

 「法的な根拠がない」というこの追及は、政府の問答無用方式を告発する点で重要な問題ですが、実は、国旗・国歌を法律で定める問題、いわゆる「法制化」の問題について、われわれが明確な見解をもっていないと、提起するわけにゆかない追及です。「根拠なしにやっているじゃないか」と批判すると、相手は「じゃあ根拠をつくったら認めるか」と開き直ってきます。正面からの議論を避けたいという弱みはあっても、論としては、当然、こういう形で開き直ってくることが予想されますから、「法制化」の問題にたいするわれわれの見解もしめす必要があります。

 私たちは、この点で、問題の国民的、民主的な解決策として、国民的な討論と合意をへて、法制化にすすむ、という提唱を積極的におこないました。

 「国歌・国旗の問題を民主的な軌道にのせて解決するためには、国民的な合意のないまま、政府が一方的に上から社会に押しつけるという現状を打開し、法律によってその根拠を定める措置をとることが、最小限必要なことです。そのさい、ただ国会の多数決にゆだねるということではなく、この問題についての国民的な合意を求めての、十分な国民的な討議が保障されなければなりません」

 もう一つ、その国民的討論の結果についても、討論によって「日の丸・君が代」推進論が打破される場合だけでなく、論理からいえば、私たちの主張が少数意見で、「日の丸・君が代」で結構だという声が国民多数の声となるという場合の問題、そこでどういう態度をとるか、という答えも用意しておく必要があります。アンケートへの回答では、この問題で、二つの点を指摘しました。

 一つは、国旗・国歌というものの本来的な意味・役割を明確にし、国民への強制、とくに学校行事などへの強制のような、前近代的なやり方は、きっぱりやめる、そのことを、この問題にかかわる国民的な原則として確立する、ということです。

 「学校行事などで、『日の丸』『君が代』の使用を強制することはやめるべきです。法的根拠が存在しない今日、そういう強制の不当性は明白ですが、仮に法制化が行われたのちでも、これは、国が公的な場で『国と国民の象徴』として公式に用いるということであって、教育の場にも、また国民一人ひとりにも強制すべき事柄ではありません。私たちの調査したところでは、国歌の斉唱や国旗の掲揚を教育の現場に強制している事例は、現在の世界では、きわめて例外的な一部の国にしかありませんでした」

 もう一つの点は、法制化された国旗・国歌に重要な問題点が残ったときには、その民主的な改定のための努力、その方向で国民多数のよりすすんだ合意をえる努力が、つぎの課題となること、問答無用のおしつけ体制とはちがって、国民的討論による法制化というやり方は、こうした民主的改定にも制度的に道をひらくものだ、ということです。私たちは、この問題についても、回答のなかで、つぎのように指摘しました。

 「法的根拠を定めるということは、国民の意思が変わった場合、民主的に改定する道も開くことにもなり、国民主権の原則にふさわしいものだと考えます」

 以上が、『論座』のアンケートにこたえた基本的な内容でした。

学校への強制は、軍国主義時代の前近代的な遺産

 いま説明したように、私たちが、国歌・国旗問題の解決策として提唱したのは、つぎの二つの柱です。

 第一は、国民的な討論をおこし、それを土台として国民的な合意をかちとり、その合意をふまえて、国旗・国歌の法制化にすすむ、ということです。

 第二は、法制化しても、それは国が使用する法的根拠を明確にするということであって、国民の良心の領域にまでふみこんで、国民や学校にその使用を強制すべきではないということです。

 学校現場でのおしつけが、諸外国にはほとんどみられない異常なやり方だということは、さきほど、サミット諸国の実情調査(注2)もしめしながら説明しましたが、はっきりいって、これを国民に強要し、教育に強要するというのは、それ自体が、軍国主義時代の戦時統制の遺物なのです。あの戦争中にも、相手のアメリカでは、愛国意識の高揚にあれだけ力をつくしながらも、国民の良心の自由にかかわる問題については、最高裁が近代国家にふさわしい判決をくだしていました。それとくらべてみれば、ただちにわかるように、国旗・国歌の使用のおしつけというのは、まさに軍国主義の前近代的な遺産だということを、銘記しなければなりません。

わが党の提唱の今日的な特徴

 「日の丸・君が代」問題、国旗・国歌の問題の解決についてのわが党の提唱には、いくつかの今日的な特徴があります。

 第一は、「日の丸・君が代」に反対だということで、ただ抵抗的な意思表示をするにとどまらないで、国民的な解決策をしめしながら、「日の丸・君が代」の無法なおしつけという現状を告発する、という内容をもっている、ということです。この提唱を発表するにさきだって、事前に教育現場で活動している方がたの意見をききましたし、また提唱の発表後に現場から寄せられた意見もありましたが、そのなかに、「これで展望がみえてきた」、「展望をもってのたたかいができる」という声がつよくありました。これらの声を、私たちは、たいへん力づよくうかがったものです。

 第二に、私たちは、この提唱を、「日の丸・君が代」に反対だという人たちだけの議論ではなく、「日の丸・君が代」に賛成だという人をふくめ、保守派とも対話のできる論理、議論しあえる土俵を用意したものだと、意義づけています。私たちは、「日の丸・君が代」問題についての自分自身の見解を緩めるものではありませんが、こういう形で、国民的に討論しあい、それをつうじてこの問題の解決をはかろうじゃないかという提唱、あるいは、国旗・国歌の問題はこういうレールで解決しながら、教育現場でのおしつけという、諸外国にみられない無理無法はやめようじゃないかという提唱、これは、「日の丸・君が代」賛成派の人でも否定できない筋道、論理としての力をもつものだと、考えています。

 第三に、われわれは、二十一世紀の早い時期に民主的な政権をめざす、二十一世紀の政権党ですから、日本の国民と社会が現にぶつかっている問題で、この問題は苦手だとか、この問題には解決策をもてない、ということを残すわけにはゆきません。「日の丸・君が代」問題は、戦後五十余年をへて未解決で、各地に多くの悲劇を生みだしている問題です。その問題にたいして、私たちが、国民的な解決策を提唱したというところに、もう一つの大きな意義があると思います。

党中央に寄せられたいくつかの批判的な意見について

 私たちは、この見解を全国の都道府県委員会には、雑誌で発表される前にお届けしましたし、アンケートの回答を収録した雑誌『論座』が公刊されたあとで、党の回答の全文を「しんぶん赤旗」の二月十六日付に掲載しました。そのあと、いくつかのマスコミが、見解の一部を報道しました。そういうなかで、党中央に、党の内外の方から、電話その他で、賛否こもごもの意見がよせられました。賛成の意見は紹介するまでもありませんから、反対や批判の意見の主なものを紹介しておくと、大きくいって二つありました。

 一つは、私たちの提唱を、「日の丸・君が代」の法制化を主張したものととりちがえて、「日の丸・君が代」の容認に変わったのか、それは許せない、といった意見です。マスコミが私たちの見解を報道するとき、「日の丸・君が代」に反対だという党の主張の部分にふれないで、解決策としての法制化だけをとりあげ、ときには「『日の丸・君が代』容認に傾く」といった見出しをつけたりするものですから、それを読んでの誤解からの意見が大部分でした。この意見は、党の見解の全体をきちんと説明すれば、わかってもらえます。

 もう一つの意見は、私たちの提唱を読んだうえでの批判です。「寝た子を起こすな」式の意見といったらよいでしょうか、いくら国民的討論をするといっても、いまの力関係では、政府の思うように、「日の丸・君が代」の法制化がすぐ決まってしまう、法的根拠がない今でも現場はがんじがらめになっているのに、法制化されたら事態はいっそうひどくなるじゃないか、だから、法制化などという問題をそもそももちだすべきではない――だいたいこういう意見です。

 この意見は、結局は、国民的な解決策などしめさずに、いまの抵抗闘争を現状のままつづけてゆけばいい、という議論になってしまいます。実は、それが政府の付け目で、政府・自民党が、国民的な議論ぬきにじりじりと押し切ってしまおうとしてきたことは、先ほど、詳しく説明しました。それを打開するために、われわれは、問題を国民的討論のレールに移そうと呼びかけているわけですし、国民的討論も、政府に要求するだけのあなたまかせの話ではなく、あとで具体的に提案するように、私たち自身が、私たち自身の努力で国民的討論を全国規模でまきおこしてゆくわけです。私たちの真意をわかってもらい、私たちの行動をみてもらえば、この疑問もかならず解消してゆくと思います。

3、状況はどう動いてきたか

「日の丸・君が代」の法制化という政府の新方針

 私たちがこの提唱をして以後の、実際の状況ですが、さまざまの動きがふきだすようにでてきました。

 まず政府の動きです。

 国会で、二月段階に、私たちの提唱も話題になって、他党の議員から、法制化問題についての質問がありました。そのときの政府答弁というのは、”日の丸・君が代は、国民的に定着しており、国際的に認知されておりますから、法制化などは考えていません”という、まったく従来型のものでした。

 ところが、その後、二月二十八日に、広島の高校の校長先生が自殺するという悲劇的事件が起きてから、政府の態度に急転換が現れました。政府自身が、法的根拠ぬきのおしつけという従来型のやり方ではもうすませられない、ということに気がつき、三月二日、野中官房長官の記者会見で、法制化をめざすという新しい方針が、急きょ、もちだされたのです。これは、あきらかに、政府の方向転換でした。

 法制化による問題の解決を本気でめざすのなら、国民的な討論による国民的合意への努力にとりくむのが、当然の方向です。さすがに官房長官の最初の記者会見では、「国民の意見をきいて」という言葉ははいっていましたが、ことがすすみはじめると、国民的討論など最初から望んでいない政府の本音がたちまち表にでてきました。しかし、いくら自民党でも、国民の意見をきかず、ただ国会の多数で速戦即決という道をとるわけにはなかなかいきません。政府・自民党の態度にいろいろなジグザグがあり、現在、それがどこまできているかということは、あとで触れますが、大事なことは、政府のこの方向転換が、「日の丸・君が代」問題、国旗・国歌の問題を国民的に討論するための、一つの環境づくりの役割をはたしたというのは、いまの情勢をみる大事な点だと思います。

マスコミ紙上での「日の丸・君が代」論議タブーが事実上なくなった

 つぎに、マスコミの変化です。これまでは、「日の丸・君が代」問題というのは、マスコミのうえではなかなか議論しにくい問題でした。その是非を正面から論議することは、事実上タブーあつかいされてきたといってもよいでしょう。そのタブーがいまやなくなった、といってもよいと思います。どのマスコミでも、「日の丸・君が代」問題が、天下御免で議論されるようになっています。これは、かつてないことです。

 政府が「法制化」の問題をいったん口にだしてみると、政府の思惑をこえて、「日の丸・君が代」おしつけ体制の矛盾や問題点が、さまざまな形でふきだしてきた、といえるでしょう。

 政府自身の動きにもいろいろこっけいなことが起きたりしています。担当の大臣が、自分のところで、「日の丸」をどうあつかってきたのか、その根拠は何だったのか、わからない。三月五日でしたか、運輸大臣が、記者会見で、日本の商船は「日の丸」をかかげているが、これは法的根拠なしの慣習法だと説明した。運輸省のお役所のほうがあわてて、「法的根拠はある」という訂正文書を報道陣に配ったというのです。「運輸相と運輸省 見解分かれる」とマスコミでだいぶ冷やかされましたが、政府自身がこれぐらいいい加減なんです。

 また、「法制化」ということになったら、自民党のタカ派が最初は勢いづいて、「日の丸・君が代」の義務づけをこんどは法律に明記せよ、といいだした。ところが、そうなると政府のほうが及び腰になって、”問題はそう簡単ではない、法律では義務づけはやらないほうがいい”という。強制的な義務づけには、やはり後ろめたいところがあるのです。そうなると、法律でも明記できないものを、なんで文部省の「指導」だけで義務づけるのかという矛盾がおのずから浮きぼりになってくるわけです。

 マスコミでは、社説、解説、投書などで、表だった議論がではじめました。まず主だった新聞社が、社説でこの問題をとりあげ、「日の丸・君が代」の法制化という政府の方針にたいする自分の態度を公然とあきらかにしました。「日の丸・君が代」の法制化に賛成という新聞もありますが(「読売」、「産経」)、多くは、本格的な国民的討論を要求し、「日の丸・君が代」の性急な法制化には反対するというもので、このほうが実際には多数派になっています。(注3)

 投書でも、いろんな意見が、連日のようにでています。「日の丸」が国旗、「君が代」は国歌という話は、決まったことではなかったのかと、問答無用の現状にあらためて驚く意見も多いし、この機会に新しい国歌をつくろうじゃないか、という意見もつぎつぎとでてきています。

テレビのお茶の間番組でも……

 テレビでもいろいろとりあげられています。このあいだ、フジテレビが世論調査をやりましたが、「君が代」の法制化については、賛成三四%、反対三八%と、反対意見のほうが多い。「日の丸」の法制化は、賛成四六%、反対一八%で、賛成のほうが多いが、それでも賛成が過半数をしめるという状況ではありませんでした。まだ国民的討論はこれからという段階ですが、その時点でも、こういう結果がでています。

 お茶の間番組でも、この問題についてずいぶん突っ込んだ議論がやられるようになりました。

 NHKの昼すぎに、「スタジオパークからこんにちは」という番組があるのですが、三月十日の放送でとりあげていました。NHKの解説委員の人がでてきて、解説をする。最初に「学習指導要領で国旗・国歌といっているんだけれども、日本には国旗・国歌を決めた法律や制度というのはなかったんですよね」というと、レギュラーのタレントの高見知佳さんが「ああ、そうなんですか」と驚いた顔をし、司会者も「法律で決められているわけではない?」と反問するんですね。そこで、話は、なぜ法律で決まっていないものを学校におしつけてきたのか、というところにすすんで、とくに文部省の最近のおしつけ強化が問題になると、「政治的にも社会的にも、とくになにかがあったというわけではない。文部省の学習指導要領だけが一人どんどんどんどん先にいっちゃったという感じなんですね」(解説委員)と説明されます。

 「日の丸・君が代」の誕生のいきさつについても、パネルをだしてくわしい解説があって、戦前でも「法律制度ではなんにも決まっていなかった」ことがあきらかになります。

 そこで司会者が、政府のこんどの法制化論というのは、校長先生の自殺などをうけて、これを鎮静化させようという動きなのか、というのですが、それにたいする解説委員の答えが、なかなか筋のとおったものでした。「おそらくそうでしょうね」といい、国旗・国歌は憲法や法律で決めている国が多いのだから、「日本が国旗・国歌を法制化しようというのは、それはそれで自然な考え方だと思うんですね」といいながら、話をもっと深いところにすすめるのです。

 「ただ問題はね、今回のように、こういう問題が起こったから、『日の丸・君が代』を国旗・国歌にしますということではたしていいのだろうか、ということなんですよ。つまりね、国の象徴でしょ。国旗・国歌というのは。やっぱり国民みんなが愛して、それに尊敬の念をもてるようなものでなきゃいけない。となれば、やっぱり国民的なコンセンサスというものがいると思うんですよ。ですから、『日の丸・君が代』が国民みんながそれでいいですよ、といえば、それはそれで結構、だけど、もしそうでない人がいるとすれば、もうちょっと議論を深めて、そしてなにがいいんだろうかということを考える必要があるんじゃないかな。けさの総理大臣も、『日の丸・君が代』を国旗・国歌とおっしゃっている。そう簡単にいっちゃっていいのかな。つまりね、まったく新しいものを国民がいろいろ議論したなかでつくっていくということも、選択肢の一つとして考えることもできるだろう。あんまり急いで、この問題があったから、さあたいへんだということでやっちゃうと、またいろいろ抵抗がでたり、問題が起こってくるんじゃないだろうか、ということも考えていただく必要があるんじゃないか」

 話はそこまですすむ。最後に、司会者が「法律にないというのが、最近知ったような気がしているんですけれどもね。そういう動きを、きょうは解説していただきました」といって終わったのですが、お茶の間番組でこういう解説がやられるということは、いまだかつてなかったことです。

 「日の丸・君が代」問題について、新聞やテレビでこういうオープンな議論ができるというのは、まったく新しい状況だと思います。

アジア諸国からもいっせいに「異議あり」の声

 それから、この間の国際的な世論の動きも重要です。政府は「国際的に認知された」「認知された」といってきましたが、政府が「日の丸・君が代」を法制化するといいだしたら、「認知」されているどころではない、という実態が、一挙に明るみにでました。

 まず三月二日に、韓国の「東亜日報」が、広島の事件をとりあげて、「校長の自殺を呼んだ日本軍国主義の亡霊」という見出しで、これまでの政府のおしつけを批判しました。この「東亜日報」は、翌日の三月三日には、こんどは日本政府の法制化方針をとりあげて、「軍国主義の亡霊を思い起こさせる日章旗〔日の丸〕と君が代を義務化することは『間違った過去』への復帰を意味する」と論じました。

 同じ日に、中国香港の日刊紙「明報」が、「日本軍国主義の旗と歌を正当化」という見出しで、国際面一面のほぼ全体を使って、政府の法制化の動きを批判的に報道しました。この記事は、「第二次世界大戦中、日本が侵略したアジア各国で日の丸と君が代は日本軍国主義の象徴とみられている」と書いています。

 三月四日には、韓国のもう一つの新聞、ハンギョレ紙が、「『君が代』公式復活まぢか」という記事をのせ、「君が代」について、これは「君主の治世が永遠であれ」という歌詞が「近代国民国家理念に合わず、アジア侵略を想起させるとの理由」から拒否感がしめされてきた、と書きました。

 三月五日、こんどはマレーシアの新聞「星洲日報」が、「日本軍国主義復活に警戒を」という社説をかかげ、「日の丸・君が代」法制化の動きを、「この動きは日本の右傾化を示しており、新たな形の軍国主義が復活するのでないかと懸念している。アジア太平洋地域の脅威となるもので、警戒すべき動きである」、「日本の軍国主義の侵略を受けたアジア諸国にとって、今回の国旗と国歌の法制化は憂慮せざるをえない右傾化の現象である」と論じました。

 三月九日には、中国の「中国青年報」が、「日の丸」「君が代」問題についての論評をのせ、「日の丸」「君が代」をかかげて「近隣諸国を侵略し、アジア人民に残した悪夢はいまなお消し去るのが困難である」、「『日の丸』、『君が代』は軍国主義の象徴ともみられている」と論じました。

 このように、三月にはいってから、アジアの五つの新聞がたてつづけに批判の論評を掲載しましたが、その論調は、「日の丸・君が代」を「日本軍国主義の旗印」とし、アジア諸国はその歴史を忘れていないとする点で、まったく共通しています。

 「日の丸・君が代」の法制化問題が表ざたになったことによって、政府のいってきた「国際的認知」論の根拠のなさ――「日の丸・君が代」は、日本が侵略したアジアの国ぐにから認知されているどころではないことが、一挙に明るみにでました。

(注)この報告をしたあとで知ったことですが、三月十七日には、フィリピンのジャーナル紙が、「日本の戦争の過去かきたてる『日の丸』『君が代』の法制化」と題する論評記事を掲載しました。

政府・自民党の側にもある程度の変化が起きる

 こういう状況のもとで、政府・自民党の動きにもある程度の変化が起こっているようです。

 法制化をいいだした最初のころには、「ことを急ぐ」傾向が露骨に現れました。最初は、二十一世紀をめざしてじっくり討論するような顔をしていたものが、つぎの発言では「今国会に法案を提出」になり、さらにそれが「今国会で成立をめざす」になりました。しかし、内外の世論の動きや野党の動向もみてでしょう、そう簡単にはゆかないぞ、という状況がでてきており、そのことが、きのう、きょうの新聞で、鮮明に指摘されています。

 きのう(三月十六日)の「朝日」の朝刊に、「自民党 自信喪失症候群」という記事がでています。そこでは「自信喪失」の代表例の一つに、自民党候補が不評の「都知事選挙」とならべて、「日の丸・君が代」問題があげられているのは、興味あることです。その中身は、こうです。

 「『できれば今国会中に』(野中広務官房長官)と、日の丸、君が代法制化に動く首相官邸。かつてなら自民党内のタカ派議員らが先導しそうなテーマだが、むしろ党側には『急ぐ必要はない』(党首脳)、『自然な感情で対応するもの。強制すれば必ず反発が起きる』(官房長官経験者)と世論の反発を懸念する声が強い。これまでにも党勢が弱った時に発揮された『右バネ』も、弱ってきた様子だ」

 けさの「毎日」(三月十七日)には、「ブレーキ踏み始めた野党 小渕政権のアクセル、一度は容認……世論や教育界の反応に揺れ」という記事がでています。

 このように、「急ぐな」という声がずっとわきでてきていて、国会の多数だけで簡単にやれる状況ではないことを、政府・自民党の側も感ぜざるをえなくなっている――ここに、この問題が表舞台にでてからの動きの、一つの大事な点があると思います。

4、「しんぶん赤旗」号外を全世帯に配付する

国民的な討論を起こす先頭にたとう

 つぎに、こういう情勢をふまえてのわが党のとりくみの問題です。

 政府・自民党の側に「あまり急ぐな」という気分がでてきたとはいっても、国民的討論ぬきでの法制化の動きや、国民的義務づけの強行をあくまで主張するタカ派の動きがなくなったわけではないし、政府の側にも、問題を長引かせると、世論の抵抗がいよいよひろがるから、世論にあまり火がつかないうちにやってしまおうという気運が、いまでも消えてしまったわけではありません。その危険も、十分にみておく必要があります。

 それだけに、いまこういう形ではじまった国民的討論への気運を、もっと徹底的に広いものにし、国民的な討論と対話を主導的に起こしてゆくことが、いまたいへん重要だと思います。

 討論を起こすということは、ただ「日の丸・君が代」の賛否を問う、それだけで保守派と大論争をやるということではないのですね。私たちの問題提起の性格について、さきほど説明しましたが、この問題をどう解決すべきか、保守派との対話をふくめて、大きな議論を起こす必要があります。

 その面では、国民的な討論の気運が、まだ「熟した」とはいえませんが、熟しつつある、と思います。地方の演説会にいったとき、この問題もとりあげて話すのですが、「日の丸・君が代」問題で、保守派の方がたからもずいぶん感想がよせられます。「共産党が『日の丸』に反対するのはおかしいと思っていたが、筋のとおった話だとわかった」という声もありました。二つの提案は全面賛成だという声も広くあります。

 いま、いっせい地方選挙を前にして、たいへん大事な時期ですけれども、いま、まさにこの時期に、国民的な討論を起こしひろげる活動の先頭に、わが党自身がたつことが大切だと思います。

「しんぶん赤旗」号外の内容について

 そういう点で、思い切って、この問題で「しんぶん赤旗」号外を日本の全世帯に配布することを計画しました。

 号外はお配りしましたから、みていただければ、内容はおわかりだと思います。

 一面では、国民のあいだにいろいろな意見があるのに、政府が勝手に決めつけて、「日の丸・君が代」を学校現場におしつけているやり方を批判し、この問題をどう解決すべきかについての、私たちの二つの解決策――(1)大切な問題だからみんなの討論で、(2)国民にも教育にもおしつけない、という二つの問題を提唱しています。

 二面では、国民的な討論のなかで、日本共産党は「日の丸・君が代」問題、国旗・国歌の問題についてどう考えているのかを、説明しています。私たちは、「日の丸・君が代」はいまの日本の国旗・国歌としてふさわしいとは考えてはいない、国民の討論のなかで、いまの日本にふさわしい国旗・国歌を、みんなで知恵をだして生みだそうじゃないかが、この面の内容で、「君が代」「日の丸」をめぐる歴史的ないきさつも、「ごぞんじですか」という形で、かなり詳しく解説しました。

 この号外をつくる上で苦労したことは、党の見解をはっきりうちだしながら、「日の丸・君が代」賛成の方がたとも対話の道を閉ざさないで、ほんとうに国民的な対話の土台になるような問題提起をする、ということでした。

4600万の全世帯にもれなく配布する

 この号外をめぐって最初の国民的な討論を全国的な規模で起こしてゆく、こういう意気込みでとりくみ、文字どおり日本の全世帯に配りたいと思います。

 「日の丸・君が代」が明治の初めに問題になってから百二、三十年にもなりますが、この問題で国民的な討論をしたという経験は、戦前・戦後をつうじて一度もないのです。戦後、国の体制が根本から変わったあとも、討論ぬきで上からこれが国旗・国歌だぞとおしつけてきた。そういう問題ですから、この問題をいっしょに考えましょうというのは、新鮮な問題提起になります。わが党にしても、この問題で全国的に国民に訴えるというのは、初めてのことです。

 ですから、この号外の全世帯配布には、歴史的な意味があるといってよいでしょう。

 このごろは、一口に全戸配布といっても、配る側の力の度合いということを考えますから、党の力の弱いところでは、県の要望に応じて、全戸に満たない枚数ですませるということも、少なからぬ県で認めてきました。しかし、この号外だけは、そういう例外は認めず、文字どおり日本の全世帯に配布しきることを方針にします。

 現在、日本の世帯数は、四六一五万六七九六世帯ありますが(九八年三月現在)、そこにもれなく配布するということです。離島をたくさんもっている長崎県や鹿児島県とかがご苦労なことはよくわかりますが、しかし、多少時間はかかっても、これをやりとげたい。実は、きょうは、これからCSのテレビの収録がありまして(放映は三月十八日)、そこで「時間がかかってもかならずみなさんのお宅にお届けするつもりだ」ということを約束するつもりですから、共産党の委員長がカラ約束をした、ということにならないように(笑い)、よろしくおねがいしたいと思います。

 いっせい地方選挙は目の前ですが、この国民的な大問題に、日本共産党がいわばおとなの立場で、しかも筋をとおしてどうとりくもうとしているかが、この全戸配布をつうじて浮きぼりになる――そういう意義をもつ活動です。そのことは、有権者の政党選択に、かならずむすびつく力をもつと思います。

 ただ、活動のエネルギーの配分という問題はあります。党勢があまり大きくないが、離島がたくさんあるなど、特別に困難な条件をもっているところでは、一挙に全戸に配るのはむずかしいということもあるでしょう。そういう点のエネルギーの配分は、状況に応じてよく考えてほしいところです。

 実は、この号外をつくるにあたっても、そこはずいぶん配慮したのです。一面の「しんぶん赤旗」という題字の下をみてください。「号外(一九九九年)」とあって、月を書いていないでしょう(笑い)。月が変わっても、内容が”時代おくれ”になるわけではありませんから、号外が”月おくれ”にならないように工夫したわけです。

 それだけの展望で、かならず全世帯に配り切るということを、やりとげてほしいと思います。

 また支部でも、この号外をよく討論してほしいのです。これまで「しんぶん赤旗」にも、『論座』への回答や私たちのインタビュー、記者会見などいろいろだしてきましたが、それだけでは、いろいろな質問に答えきれない、という悩みもあった、と思います。この号外の一面、二面を読み合わせて議論してもらえば、必要な材料をふくめ、私たちの考え方や問題のだし方が全部書いてありますから、国民的な討論に参加し、質問に答えるなどの活動に十分役立つでしょう。

 この問題は、なかなか息の長いたたかいになると思います。相手の政府側も、二十一世紀をめざしてなどといっていますが、われわれも、二十一世紀にむけてほんとうにいまの日本にふさわしい国のシンボルをかちとる、生みだす、そういう意気込みでとりくみたいと思います。

 党によせられる意見のなかには、日本共産党が対案をつくったらどうか、という意見もありますが、この問題は、私たちが政党として対案をつくって、「日の丸・君が代」と日本共産党案と、そのどちらを選びますかと訴えるという性質の問題ではないのですね。これは、国民的な討論のなかから、いろいろな意見がでる、いろいろな提案や動きもすすむ、そういうなかから、戦後の新しい憲法をもった、民主日本にふさわしいシンボルが生まれる、というのが、これの自然なすすみ方でしょう。そういうものを生みだす国民的な討論を起こす先頭にたつ、そういう構えでとりくんでほしい、と思います。

教育現場でのたたかいについて

 つぎに、教育現場での問題ですが、私は、現場で、「日の丸・君が代」のおしつけに反対するたたかいにとっても、非常に新しい条件が生まれてきた、と思います。それだけに、この新しい条件をつかんで、積極的なたたかいをすすめてゆくことが、いよいよ重大になっています。

 新しい条件の一つは、政府自身が、「日の丸・君が代」に法的根拠がないことを認めたことです。彼らの思惑としては、法的根拠がないままのおしつけには無理があるから、法制化でもっと苦労なしにおしつけられるようにしようというのでしょう。しかし、少なくとも現在の時点では法的根拠がないことを認めたわけですから、それなら、根拠もなしにどうして「学習指導要領」でおしつけてくるのか、ということが、いやおうなしに避けられない矛盾となってきます。

 第二に、教育現場に国旗・国歌を義務づけることの是非という問題に、新たに社会的な関心が広くむけられるようになったことです。自民党自身のなかでさえ、法制化にからんで議論してみると、義務づけをやっていいのかどうかということが、あらためて問題になってきます。法制化をいいだした野中官房長官自身が、法律での義務づけには賛成しないといい、なぜかときかれると”法律で強制すべきものではないからだ”と答える。それを文部省が強制しているというのは、政府自身の収拾のつかない自己矛盾です。

 またそういう目で、世界の実情などを調べてみると、「学習指導要領」での義務づけが、戦時の教育統制の遺産だという性格が浮きぼりになってくる。

 第三に、「日の丸・君が代」が国旗・国歌としてふさわしいのか、こういう議論が、タブーなしに公然と議論される条件がつよまってきたことです。これが、たいへん大きな社会的変化であることは、先ほど詳しく紹介しました。

 こういう条件がすすんでいます。いままで教育現場で、それをささえる社会的背景が十分にないなかでの、個々の抵抗闘争という性格がつよかったのですが、これからは、もっと広い国民的な討論を背景に、「学習指導要領」による強制という政府・自民党の無法なおしつけ路線を打ち破るたたかいに、あらたな展望がでてきたと思います。

 この条件をどう生かしてゆくか、ということは、それぞれの現場の問題であり、組合組織の問題ですが、そういう新しい条件をふまえて、従来とかく受け身的になったり、あるいは個々の闘争にとどまりがちだったこの分野で、国民的な背景をもって攻勢に転じる、こういうとりくみが大事ではないか。そういう位置づけでの積極的なとりくみを検討してほしい、と思います。

攻勢的なとりくみということ

 攻勢的というのは、教育現場だけでなく、この問題の全体にいえることです。私たちの提唱は、政府・自民党にとっては、実はいちばん痛いものだったと思います。彼らは、この問題を正面から議論すると、自分たちに分がないことを知っているから、問答無用方式でずっときていたのです。こんど法制化の方針をうちだしてからも、マスコミに早くも「弱気になった」と書かれるような状況がでています。問題が国民的な討論の場に移れば移るほど、政府・自民党に道理がないことがあきらかになってきます。

 私たちが、国旗・国歌問題について、いまの日本にふさわしい国民的な解決策を堂々としめしながら、現在の無法なおしつけにたいして、これまで以上の攻勢的な追及、告発をおこない、国民的な対話と討論、合意形成の運動の先頭にたつ、この活動がきわめて重大な歴史的な意味をもってきています。そういう展望と意気込みでとりくんでほしいということを最後にかさねて強調して、報告を終わるものです。

サミット諸国の国旗・国歌について(「しんぶん赤旗」の各国特派員の調査による)
  法的根拠 教育現場での扱い
国旗 国歌
米国
1942年、国旗にかんする規則が下院で採択され合衆国法典第4編第1章「旗」第1条「星条旗」 1931年、下院で法制化。合衆国法典第36編第10章「愛国的慣習」第170条「国歌」 「連邦政府として公立学校での国旗掲揚、国歌斉唱などについていっさい関与していない」(連邦教育省)

合衆国法典第36編第10章第174条「掲示の時と機会」の中に「授業の期間、学校に掲揚すべし」とあるが、罰則などの強制力はない。

ウェストバージニア州教育委員会が罰則をもって児童、生徒に国旗への敬礼を強制したことにたいし、連邦最高裁で違憲判決(1943年バーネット事件判決)。(注)

イギリス
国旗、国歌にかんする成文法はない 「国旗、国歌にかんする法律がないから、政府には学校行事で国歌斉唱、国旗掲揚を指導する権限はない。一般に入学式や卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱をおこなわないのではないか。国旗、国歌の由来を多くの学校で教えているが、教員には教える義務はない」(教育.雇用省)
カナダ
1964年国会で議決し、翌年に布告 1980年国会で議決し、布告 「教育についての権限が州にあるため、連邦政府には学校での国旗、国歌の扱いを指導する権限がない」(駐日カナダ大使館)
ドイツ
1949年制定の基本法(憲法)第22条 西独として1952年、統一ドイツとして91年、大統領・首相交換書簡で歌詞・曲を規定 「学校行事で国旗掲揚、国歌斉唱の義務はない。拒否して罰せられることはない」(連邦内務省)
フランス
国旗、国歌とも憲法第2条 「国旗は学校を含むあらゆる公的施設で通常1本だけ掲げるのが慣例。祝日には内務省がそのつど知事を通じて三本掲げるよう指導する」(内務省)

「学校行事でも音楽の授業でも国歌を歌うことを強制することはない。音楽教師の自由意思に任されている。通達もないし義務、罰則もない」(教育省)

イタリア
1947年制定の憲法第12条 1946年内閣通達で定め、翌年、制憲議会で申し合わせ 1986年の首相令で学年の初日と最終日に学校の外に掲げることが定められた。罰則規定はない。入学式、卒業式そのものがないので、式での扱いは問題になりようがない。
(注)バーネット事件
 1942年、米国ウェストバージニア州の教育委員会が、公立学校で生徒に国旗敬礼行事への参加を義務づける実施規則を決めた。違反者には退学処分を含む罰が加えられるというものであった。
 これにたいしバーネット家の子どもたちが宗教上の理由から敬礼行事に参加せず、罰を受けた。同家は個人の自由を侵すものとして提訴。連邦最高裁は43年、言論の自由を保障した合衆国憲法に、教育委員会の規則が違反していると判決を下した。
 判決は、結論部分で次のようにのべている。
 「もし憲法の星座に恒星があるとすれば、地位の高低を問わずいかなる公務員も政治、民族主義、宗教その他の意見においてなにが正統であるかを規定したり、市民にみずからの信条を言葉や行動で告白するよう強制することはできないということである。
 星条旗に敬礼や忠誠を強制するという地方当局の行為は、憲法で定められた地方当局の権限の限度を超えており、あらゆる公的な統制から留保されるべき合衆国憲法修正第一条の目的である知性と精神の領域を侵している」

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国民的討論を求める新聞社説の主なもの

「朝日」3月3日付 「なぜ、いま法制化か」

 「国民的な論議を積み重ね、象徴としてふさわしい国旗と国歌を法律で定めること自体を否定すべきではないだろう。
 しかし、法制化によって学校での日の丸掲揚と君が代斉唱を徹底させようというのは本末転倒というほかない。国旗、国歌をめぐる多様な論議を封じ、日の丸、君が代の強制につながりかねないからだ。
 ……強圧姿勢は混乱をむしろ助長すると知るべきである。
 ……日の丸、君が代が戦争責任や歴史認識問題と絡んできた事実が消えるわけではない。そのことに思いを寄せる人々の思想と信条を尊重することは、国際社会で生きていくうえでも欠かせない。……
 日の丸、君が代の義務化を定めた学習指導要領を改めるのが先決である。
 国旗、国歌の法制化を議論するのなら、教育現場を狙い撃ちにするような性急なやり方ではなく、国民全体の合意を徐々に広げていく方法をとるべきだ。
 その結果、日の丸が国際協調や人権尊重の理念を象徴する意味をもって定着するのであれば、それはもとより望ましい。
 君が代が国歌としてふさわしいかどうかを議論してもいいだろう。
 先に法制化ありき、はよくない」


「毎日」3月4日付 「広く、深く、議論する場を」

 「日の丸、君が代は、戦後ずっと争いのあるテーマだった。……その歴史的経緯などから、特に君が代については抵抗感を持つ人も少なくない。
 問題なのは、その衝突が専ら教育現場に集中している点だ。政治や思想、信条にもかかわる対立が、学校で『代理戦争』とでもいうべき形で展開されてきたのである。
 ……この問題を教育現場にだけ押し付けるのではなく、国民的議論の場に引き取るのは望ましいことだ。ただ、それは日の丸、君が代の法制化に直結するものではない。
 国旗、国歌の法制化がいいのか。それが日の丸、君が代なのか。社会や学校での扱いはどうしたらいいのか。国会はじめさまざまな場で、広く深く議論していくべきだろう。国民的なコンセンサスのないものを上から強制しても、得るものはない」


「日経」3月4日付 「国旗・国歌法制化の課題」

 「政府が日の丸・君が代を国旗・国歌として法制化することを検討する方針を打ち出した。……戦後五十年以上が経過し、国旗・国歌の問題について法制化を含めて議論をきちんと整理する段階を迎えているのは確かである。
 法制化の論議に大きな一石を投じたのは共産党が先月とりまとめた新見解である。『日の丸・君が代を国旗・国歌とすることには反対だが、法律的な根拠をつくることは必要だ。国民的な議論のうえで、私たちが少数なら、国旗・国歌として採用することにやぶさかではない』という趣旨である。議論としては筋の通った見解である。……
 諸外国の例を見ると、国旗は法制化しているが、国歌については閣議決定や国会の議決を根拠にしている国もある。そうしたことも参考にしながら国会を中心に国民的な論議を深めることが大切である」


「東京」3月5日付 「強制では敬意を得られない」

 「校長の自殺という不幸を招いてしまったのは残念だが、国旗、国歌について多くの国民が考え、議論する機会が生まれるのは前進と評価できる。
 ……日の丸と君が代では格差があるが、国民の大半が受け入れ、国旗、国歌として定着しているといえよう。外国でもそう扱われている。
 しかし、この二つが明治憲法体制下で、なかでもあの戦争中に果たした役割に照らして抵抗感のある人も少なくない。特に、君が代の歌詞については国民主権国家の国歌にふさわしくないという、根強い意見がある。
 それだけに、議論は『日の丸、君が代の法制化』を前提にしないで行われるべきだ。現実問題としては両者が有力な選択肢ではあろうが、国旗、国歌にはどんなものがふさわしいか、法制化の是非も含めて幅広く議論したい。……
 避けるべきなのは掲揚、斉唱の義務化だ。憲法原則である内心の自由の保障に反するし、強制から敬意は生まれない。何かを尊重する気持ち、敬意を表する行動は自然に発生するのを待つべきものである」

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