沖縄の米軍基地問題を世界に訴えます

沖縄サミットを前に各国政府と世界のマスコミへの日本共産党の報告と訴え

2000年2月16日

「しんぶん赤旗」号外(PDF書類500kB) 英文パンフレット(PDF書類300kB)


 ことし七月に、わが国の沖縄県で主要国首脳会議(サミット)が開かれます。
 沖縄県民はもちろん、私たち日本国民は、サミット開催地として沖縄が選定されたことに特別の関心をもっています。それは、この沖縄が「基地の島」という象徴的な”別名”をもつことにかかわっています。沖縄は、一九四五年に第二次世界大戦が終結して以後、今日まで、一つの世紀の半分を超える期間にわたって、米軍の「基地の島」という状態に置かれたままです。
 私たちは、二十世紀最後の年のサミットが沖縄で開かれることを機に、沖縄のかかえる基地問題を世界の人びとに知っていただくことがぜひとも必要だと考えました。さきに沖縄県当局が県民を対象におこなった意向調査でも、「サミットにあたって世界にもっとも訴えたいことは」という質問への回答の第一位は、群を抜いて「米軍基地問題」(四四・六%)であり、第二位は「県民の平和を愛する心」(三三・二%)でした。
 私たちは、二十一世紀に向けて、この沖縄を、県民と日本国民の「平和」の意思の発信の地にしたいと願っています。今回お届けする資料は、サミット参加各国首脳をはじめ、沖縄に関心を寄せるすべてのみなさんに、沖縄における米軍基地問題を理解していただくために、私たちの平和への気持ちをこめてまとめたものです。

  二〇〇〇年二月十六日

 日本共産党中央委員会
 同 沖縄県委員会


沖縄の米軍基地問題を世界に訴えます

 沖縄は、第二次世界大戦がはじまるまでは、日本軍も駐留しない島でした。軍隊にかかわるものといえば、徴兵事務をおこなう役所があり、司令官と数人の事務員がいるだけでした。県民は、基地のない島で、アジア諸国の国民とも友好的に交流し、生きてきました。

 この沖縄に、はじめて軍隊が本格的に駐留したのは、一九四四年、第二次大戦で日本の敗色が濃厚になり、沖縄を「決戦場」にすると政府が決めたときでした。日本の敗戦により、沖縄への軍隊駐留という事態は、ほんらい解消されるべきものでした。

 それがいま、「沖縄のなかに基地があるのではない。基地のなかに沖縄がある」といわれるほど、沖縄は米軍基地過密地帯になっています。この表現がけっして誇張でないことは、沖縄に足をふみいれれば納得できます。沖縄県の面積の一一%は米軍基地によって占められています。沖縄本島だけをみれば二〇%にも達します。人口百三十万人の島に、二万七千人の米兵が駐留しています。ヨーロッパのどの国をみても、こんな県・州など一つもありません。

 しかも沖縄の米軍基地は、人口密集地のど真ん中にあります。たとえば嘉手納空軍基地は、嘉手納町の面積の八三%を占有し、一万数千人の町民は残る一七%の土地に押し込められています。住居も学校も病院も、滑走路から何百メートルも離れていない場所に、ひしめきあって存在しているのです。嘉手納だけではありません。面積の五〇%以上が米軍基地だという町村が四つ(嘉手納町以外に金武町、北谷町、宜野座村)、三〇%以上というのが九つ(前出の四つ以外に読谷村、東村、沖縄市、伊江村、宜野湾市)もあります。

 なぜ沖縄がこんな状態になったのか。その結果、沖縄県民はどんな問題をかかえることになったのか。ぜひ知っていただきたいと思います。


1、沖縄における米軍基地のなりたち

第二次大戦から平和条約まで

 沖縄は、一九四四年の日本軍配備により、第二次大戦において、日本のなかでただ一つ住民を巻き込んだ地上戦がたたかわれたところになりました。一九四五年三月末から八十日にわたったこの戦闘は、使われた砲弾の多さから”鉄の暴風”といわれており、言語に絶する苛烈(かれつ)なものでした。その結果、米軍に一万数千、日本軍に約九万の死者がでました。同時に、この戦闘の特徴は、一般の多くの県民が犠牲になったことであり、県民の三分の一に近い十数万人が命を失いました。

 沖縄を占領した米軍は、生き残った県民を、県内各地につくった収容所に閉じこめました。これは、日本との戦争がおわった一九四五年八月以降もつづきました。

 一九四五年末から四七年にかけ、収容所から出された県民は、ふるさとに帰って驚きました。見慣れた自分の家や田畑はふみつぶされ、鉄条網に囲まれて足をふみいれることさえできない米軍基地が、目の前にひろがっていたのです。たとえば北谷町には、戦争中に日本軍の飛行場がありましたが、米軍はこの飛行場を接収するだけでは満足せず、まわりの土地を四十倍もの規模で接収し、現在の嘉手納基地をつくったのです。町民が住むことができたのは、傾斜地や谷あいなど、最悪の環境の場所だけでした。農耕地は戦前の百分の一以下になったとされています。その農耕地も、戦火で荒れ果てていました。土地も家も失った県民のなかには、遠く南米などに移民せざるを得なかった人びとも、少なからずいました。

 北谷町だけではありません。この時期、同じようなやり方によって、沖縄の全域で県土の約八%にあたる一万八千ヘクタールが接収されています。「土地を失った地主は四万戸、立ち退きを余儀なくされた者は約一万二千戸」(旧琉球政府文書)だとされていますが、いっさい対価の支払いはありませんでした。

 国際法(ハーグ陸戦法規)は、戦争中といえども私有財産を没収することを禁じており、たとえ軍の必要で収用することがあっても、その場合は対価の支払いを義務づけています。沖縄県民を戦争終了後も収容所にいれ、その間に土地を取り上げ、ましてや対価も支払わないなどというやり方は、どんな弁明も通用しない国際法違反の行為でした。

平和条約締結後から施政権返還まで

 県民は、戦後、戦火で焼け野原となったわずかばかりの接収をまぬかれた土地を、一坪一坪たがやし、なんとか耕作できる土地にしてきました。そして、平和条約が結ばれれば、元の土地が返還されるものと信じてきました。

 ところが、一九五一年、日本が連合国との間でむすんだサンフランシスコ平和条約によって、アメリカは沖縄の占領統治を継続することになりました。そしてこれ以降、さらに大規模な土地の取り上げがおこなわれ、沖縄県民は新たな苦悩を背負うことになったのです。

 たとえば伊江島では、一九五三年から新たな土地の接収がはじまりました。米軍は、ある時は南米への移住をあっせんしたり、ある時は軍高官を派遣しておどしたりして、土地の引き渡しをせまりました。しかし、葉っぱのある木が一本もなかった終戦直後の状態から、耕地をようやく戦前の半分程度まで回復した伊江島の農民にとって、その土地を取り上げられることほど、つらいことはありませんでした。

沖縄市、嘉手納町、北谷町の3市町にまたがる広大な米空軍嘉手納基地。住宅地は基地周辺にひしめくように存在しています

 農民は頑強に反対しました。農民を説得できないと判断した米軍は、一九五五年、別の手段をとることを決断しました。ちょうど十年前に上陸作戦をおこなった砂浜から三百人の武装兵と車両をおろし、村を包囲したのです。住民は「米兵も人間だから誠意は通じる」として、素手で座り込みました。しかし、米軍は、住民の願いを聞き入れませんでした。ブルドーザーで十三戸の住居をふみつぶし、焼き払い、土地を取り上げました。ある家では、はしかにかかった子どもがいるから別の日にしてほしいと要望しましたが、米兵は土足で入り込み、荷物と家族をトラックに乗せると、またたくまに家屋をつぶしたのでした。こうして伊江島では、島の六三%が米軍に接収されてしまったのです。

 これはけっして特異な例ではありません。小禄村(当時)でも、装甲車十五台、機関砲十数門、機関銃・カービン銃で武装した三百五十人の米兵が、「地上も地下も空も合衆国の所有に帰す」としるした「契約書」をつきつけ、反対する農民に弾圧をくわえて土地を収用しています。こうして、この時期、終戦直後の時期よりもさらに大規模な土地が取り上げられ、現在のような広大な米軍基地がつくられたのです。

施政権返還以降、現在まで

 戦争がおわってから二十七年もたった一九七二年、沖縄の施政権がようやく日本に返還されることになりました。こんどこそ基地のフェンスのなかの自分の土地に入れる、土地をとりもどせると、県民は信じて疑いませんでした。

 ところが、県民の願いはまたしても裏切られました。施政権返還から現在までさらに二十八年もたっていますが、返還されたのは基地全体のわずか一五%に過ぎません。同じ期間、日本本土では六〇%程度の基地が返還されていますから、沖縄の基地がほとんど変化していないことは際立っています。

 なぜこのようなことになるのかといえば、沖縄を返還しても米軍基地の機能は低下させないことを、日本政府がアメリカに約束したからです。日本政府は、この約束を果たすため、特別の法律をつくって、米軍が占領下に強引に収用した基地用地をそのまま使えるようにしました。この法律の期限がくると、また別の法律をつくりました。アメリカの国務長官や国防長官が頻繁に来日するなかでつくられた新しい法律は、どんなに土地所有者が反対しても、半永久的に米軍に土地を提供しつづけることのできる仕組みを導入しました。沖縄はほんとうに日本に復帰したのか、まだ占領状態のままではないか…これが沖縄県民の率直な気持ちです。


2、米軍基地が何をもたらしているか

 アメリカはなぜ、沖縄に基地を建設し、維持することに、これほど固執してきたのでしょうか。日本の防衛のために必要だからでしょうか。そうではありません。アジア・太平洋地域に出撃するための拠点として、きわめて重要だと認識しているからです。各種のアメリカ政府の公開資料をみても、このことは明確です。

 その事実を雄弁にしめしているのが、海外遠征を主目的とする海兵隊の部隊が、沖縄に大規模に駐留していることです。沖縄に駐留しているのは、アメリカが三つ保有している海兵師団のうちの一つです。師団規模で海外配備されている海兵隊はこれだけです。合計で一万七千人もの海兵隊員が沖縄に駐留しています。アメリカは九〇年代に入って、より機動的な海兵遠征部隊を編成しましたが、世界で七つある部隊のうち、海外に地上配備されているのは、沖縄の第三一海兵遠征部隊だけです。

 これらの部隊の基本的な任務は、アジア・太平洋の広大な地域に展開することです。一九八二年、当時のワインバーガー米国防長官が「沖縄の海兵隊は、日本の防衛任務には充てられていない」、作戦区域は西太平洋とインド洋であると明言して日本国民を驚かせました。近年も、プルーアー米太平洋軍司令官(当時)は、海兵隊などが「西太平洋における不測の事態に対応するうえで理想的な場所に配備されている」(九六年三月、米上院軍事委員会)とのべるなど、西太平洋におけるアメリカの戦略にとって沖縄が不可欠なのだと強調しています。沖縄海兵隊とともに出動する第七艦隊(ちなみに、この艦隊の空母の母港は横須賀ですが、海外に空母の母港がおかれている事例もこれが唯一です)のホームページでも、西太平洋全域からインド洋、アフリカ東海岸までの広大な地域が任務範囲であることを、みずから公言しています。

 一九七二年の沖縄の施政権返還まで、沖縄はアジア最大の核基地でした。ベトナム戦争をはじめアメリカの自由出撃が保障されていました。施政権返還にあたって、日米両国政府は、有事の核持ち込みと自由出撃を認める密約をむすびました。このようにして沖縄は、米軍が海外に出撃するための戦略拠点だという性格を、一貫して保持しつづけているのです。そして、このような部隊の存在が、いまの沖縄県民の苦痛を生みだしているのです。

1、人口密集地の基地ゆえに起こる諸問題

米軍による事故の恐怖

 大規模な米軍基地が、住宅や学校、病院などが密集した地域に存在しているため、沖縄に特有の基地問題が発生します。

 まず、つねに事故の恐怖におびえて暮らさなければならないことです。昨年(一九九九年)四月、普天間基地のヘリコプターが、発電所のある地域の沿岸で墜落しました。六月には、米軍嘉手納基地のハリアー攻撃機が、離陸に失敗して炎上する事故が起きています。沖縄では、こうした事故が日常茶飯事に起こります。もちろん、どの国でも軍隊の事故は起きますが、沖縄の基地の場合、滑走路から数百メートルのところに学校や人家があり、一歩間違えば大惨事になります。

 たとえば、読谷や伊江島でおこなわれてきたパラシュート降下訓練です。一九六五年、読谷飛行場で実施された降下訓練の際、輸送機から投下されたトレーラーが民家を直撃しようとしました。それに驚いた小学校五年生の少女が、家人に危険を告げ、家を飛びだしましたが、トレーラーは電柱に当たって向きを変え、少女の真上に落ちてきたのです。病院に運ばれたときは、もう事切れていました。

 ジェット機の墜落事故も悲惨です。一九五九年、嘉手納基地のジェット機が、小学校に墜落して炎上しました。学校のまわりの民家十七軒、公民館一棟も全焼しました。火だるまになって逃げまどう子どもたちの声で、教室は阿鼻(あび)叫喚の状態になったとのことです。そして、煙がただよう現場から、真っ黒にやけた十一人の子どもの遺体がみつかりました。周辺の六人も亡くなり、重軽傷者は二百十人にも及びました。

 いまでもパラシュート降下訓練はおこなわれ、ジェット機の墜落・炎上事故はたびたび発生しています。基地周辺の住民は、いつも惨事の危険と隣り合わせです。米軍機墜落事故を想定した避難訓練を実施した学校さえあります。もちろん、事故を起こしたとき、米兵がわざと民家や学校をめざすことはないでしょう。しかし、基地の周辺は、人口の増加により、当時よりも多くの人家や学校ができています。もしも事故が起きたさい、どんなに米兵が努力したとしても、人口密集地帯である米軍基地周辺では、惨事を避ける場所を探すこと自体、とうていできることではないのです。

米兵による犯罪

 一九九五年九月、米兵三人が女子小学生を拉致(らち)し、暴行する事件が起きました。県警が容疑者の身柄を引き渡すよう要求しましたが、米軍は拒否しました。この事件は沖縄県民の怒りを沸騰させ、翌十月には全県で九万二千人が参加する県民大会が開かれ、県民はこぞって米兵犯罪の根絶、日米地位協定の改定、基地の整理・縮小を要求しました。

 この事件はたまたま起きたような事件ではありません。だからこそ、耐えに耐えてきた県民の怒りが爆発したのです。復帰直後には、女性が強姦(ごうかん)されたうえで殺害された事件(一九七二年、宜野湾市)や、演習場で許可されて草刈りをしていた青年が米兵に追い回され、後ろから照明弾で腕を撃たれて重傷を負う事件(一九七四年、伊江島)がありました。少女暴行事件と同じ年には、アパートに入り込んだ米兵が女性を殴打し殺害した事件(宜野湾市)がありましたし、その後も、母子三人を死亡させた交通事故や、女子高生ひき逃げなど、事件・事故が頻発しています。

 一九七二年の復帰以降、米兵による刑法犯罪は約五千件も発生しています。そのうち一〇%以上は、殺人や強盗、強姦などの凶悪犯罪です。しかもこの数字は、あくまで沖縄県警が事件として処理した件数です。犯人が特定されなかった事件や、被害者が告訴しなかった事件など、統計数字にあらわれない場合も少なくないのです。アメリカの新聞(デイトン・デイリー・ニュース紙九五年十月七・八日付)の調査によれば、海軍・海兵隊の性犯罪の数は、世界中の基地のなかで在日米軍基地が第一位です。日本に駐留する海軍・海兵隊の七割は沖縄に駐留しており、犯罪の多くも沖縄が発生地です。沖縄県民は、学校の行き帰りや家庭にいるときも、米兵の犯罪におびえて暮らさなければなりません。「近道であっても基地のそばを通ってはいけない」と、生徒に徹底する学校もあるほどです。

米軍基地による騒音被害

 沖縄県によれば、騒音被害を受けている住民は約四十七万人で、県民の三七%に達しているとされています。騒音被害は、防音工事等により、ある程度は緩和されることはあるでしょう。しかし、滑走路から数百メートルのところに人家があるという地域では、多少の防音措置では防げないほど、その被害は深刻です。

 米軍の航空基地周辺では、軍用機のエンジン調整の騒音とともに朝がはじまります。学校に通う生徒は、授業中も騒音に悩まされます。嘉手納基地の滑走路から八百メートルのところにある屋良小学校では、一時間の授業のなかで平均して約十回の騒音(五秒以上継続)のあったことが記録されています(一九九六年一月)。基地周辺住民は、夜になっても安眠できません。たとえば、普天間基地周辺の調査(一九九五年六月)によれば、一カ月の間に二千二百四十四回の騒音が発生していますが、そのうち夜の七時から朝の七時までの騒音が五百九十五回を数え、二六%をこえているのです。

 医者などを中心に航空機騒音が健康に与える影響を調べてきた沖縄県の「研究委員会」は、一九九九年三月、四年間の調査を終えて最終的な報告を発表しました。大規模なサンプルによる科学的な調査としては世界に例をみないものです。それによれば、航空機騒音が幼児の問題行動を増加させていること、騒音と低体重児の出生に因果関係があること、騒音が原因で聴力を喪失した者がいることなどが、医学的・科学的に立証されることとなりました。これも、人口密集地の基地という沖縄の現状と、密接にかかわる結果だといえるでしょう。

地域振興の阻害要因

 米軍基地が町の中心部に位置していることは、地域の振興を阻害する要因ともなっています。

 普天間基地は、宜野湾市の面積の四分の一をしめ、しかも市の中心部をそっくり占有しています。そのため、道路や上下水道は、基地を大きくう回する形でしかつくることができず、都市基盤を整備するうえで大きな障害となっています。また、米軍機の進入に不都合がないよう、周辺地域では建物の高さが制限され、市街地の再開発も希望通りには実施できません。新築の民間マンションが米軍機の飛行の障害になるとされ、取り壊された事例まであります。

 北谷町には、嘉手納基地やキャンプ桑江、キャンプ瑞慶覧など広大な基地があり町の面積の五六%を奪われています。公共施設をつくろうにも適切な場所がありません。町立の小学校や幼稚園が、となりの沖縄市にあるほどです。基地が返還されれば公共施設や住宅をつくることもできますが、それがかなわないため、膨大な費用のかかる水面埋め立て事業をおこない、土地を確保せざるを得ませんでした。

 沖縄には、戦前は鉄道がありましたが、沖縄戦で破壊され、米軍が鉄道用地を接収して基地にしたことにより閉鎖されました。基地の存在は、南北に鉄道を通すための障害となっており、いまでも沖縄を縦断する鉄道が走っていません。

 恩納村や金武町のなかには、水源が米軍基地のなかにある地域があります。そうした場所では、水源を清掃するためにも、いちいち米軍の許可が必要とされています。

2、米軍に特権が与えられていることによる諸問題

沖縄の空の管制権は米軍に

 沖縄の上空には、十六カ所の米軍専用訓練空域があり、その総面積は九万二千平方キロメートルと、県全体の陸地面積の四十倍にものぼっています。そのうえ、沖縄本島の上空六千メートルまでの空域は、すべて米軍が進入管制をおこなう空域となっています。米軍基地を使う航空機だけでなく、那覇空港を利用しようとする民間機も、米軍嘉手納基地の許可がなければ、この空域に進入することができないのです。外国の軍隊に自国の空の管制をまかせている国など、世界のどこにもありません。

 しかも、この空域の管制は、まったく軍事優先でおこなわれています。那覇空港を利用する民間機は、嘉手納基地に離着陸する米軍機の経路を妨げないために、高度三百メートルの低空を数十キロメートルにわたって飛行するよう義務づけられます。また、普通の民間空港では、レーダーが故障したときにそなえ、予備のシステムをつくっています。しかし、レーダーが故障しても米軍機は有視界飛行で離着陸できるので、嘉手納基地のレーダーは予備がありません。そのため、一九九九年十一月にレーダーが故障したとき、民間機は一日以上にわたってレーダーを使わない管制を受けるという、とんでもない事態が生じたのです。

とがめられない環境汚染

 米軍には、基地内での排他的な管理権が保障され、日本の法律がいっさい適用されません。また、在日米軍には、米国の法律も適用されません。そのため、沖縄の貴重な自然が破壊されても、それをまもる手段がありません。

 たとえば、キャンプ・ハンセンでは日常的に実弾演習が実施されており、着弾地点ではたびたび火災が発生します。そのため、着弾地点周辺の山林は、いまや緑が失われ、山肌が無残にむきだしになっています。山肌からは大量の赤土が金武湾に流出し、大量の泥がたい積してサンゴ礁を汚染したこともあります。

 猛毒のPCB(ポリ塩化ビフェニール)汚染の問題も深刻です。嘉手納基地において、PCB入りのトランクが野積み状態で放置されているのが、かつて確認されたことがあります。一九九五年に恩納通信基地が返還されましたが、その跡地からPCBが検出されました。PCBは回収されましたが、これを含んだ二十トンの汚泥は処分のめどさえたっていません。九九年六月、嘉手納弾薬庫用地の一部が返還されましたが、環境基準を上回る六価クロムや鉛などの有害物質が検出されたことが、返還のその日まで、地主にかくされていたという事態も起きています。

 米軍北部演習場は、ノグチゲラやヤンバルクイナなど、世界的に希有(けう)な動植物の宝庫です。しかし、米軍基地内は政府も自治体も立ち入り調査権がないため、自然資源が保護されているかどうか確かめようがありません。

犯罪を犯した米兵を守る仕組みも

 米兵による犯罪が多発していることは、すでに紹介しました。重大なことは、犯罪を犯した米兵が、特権によってまもられていることです。

 たとえば、公務中の事件、事故については、日本でも欧州でも、米軍地位協定によって、軍隊を派遣しているアメリカが第一次裁判権をもっています。最近イタリアで低空飛行訓練中にロープウエーのケーブルを切断した事故機のパイロットは、この規定にもとづき軍事裁判をうけました。

 ところが、日本における米兵の公務中の事件、事故は、これまで四万五千件をこえ、死者も五百十二人に達していますが、これらを引き起こした米兵で軍事裁判にかけられたものは、だれ一人いないのです。交通違反を犯した米兵の責任を問おうとすると、この仕組みを利用して、すぐに米軍が「公務中」の証明書を届けてくるなどの無法が、いまでもまかり通っています。

 公務外の犯罪については、第一次裁判権が受け入れ国にあること、特定の場合それを放棄する仕組みがあることは、どの国でも共通しています。ところが日本の場合、他国と比べて、裁判権を放棄する割合が大きく異なっています。最近の国際的な比較資料はありませんが、一九五七年に駐日大使が本国に打った電報では、日本が裁判権を行使した割合は三%、他の諸国は二八%であることが指摘されています。


3、沖縄県民の願いは何か

基地のない平和な島を

 一九九五年の少女暴行事件を機に、米軍基地の縮小・撤去、米軍の特権の見直しを求める県民の世論は、大きく高まりました。九五年十月に開かれた県民集会は、犯罪を犯した米兵に特権を与える日米地位協定を早急に見直すこと、基地の整理・縮小を促進することを、県民の当面する総意として決議しました。九六年九月には、日米地位協定の見直し、基地の整理・縮小の賛否を問う県民投票が実施されました。六〇%近い県民が投票し、そのうちの九一・二六%が、地位協定の見直しと基地の整理・縮小に賛成しました。

 この年、県当局は、県民の願いを背景に、基地返還のためのアクション・プログラムを作成しました。これは、二〇一五年をめどに、三段階に分けて、計画的に米軍基地を返還させ、基地のない沖縄をめざすものでした。基地の跡地を利用して、県内市町村の振興開発をおこなう計画と結びつけたものであり、県民の総意をふまえたものでした。

 ところが、アメリカは、こうした沖縄県民の世論に背き、沖縄の米軍兵力を維持することに固執しつづけています。特定の基地を返還する場合も、県内の他の場所に新しい基地を建設することを要求しています。日米地位協定の見直しも拒否しつづけています。

 筆舌につくしがたい辛酸をなめた沖縄戦の後も、五十五年にわたって米軍基地の重圧のもとにおかれてきた沖縄県民の苦悩は、なんとしても解決しなければなりません。日本共産党は、沖縄県民の要求を実現するため、県民とともに奮闘しています。

21世紀にむけた新基地建設に反対します

 沖縄県のアクション・プログラムのなかで、最優先の返還が求められていたのが、海兵隊の普天間基地でした。あまりに人口密集地にあるため、人命にかかわる事故が起きる可能性が大きいからです。

 ところがいま、この普天間基地返還の願いを悪用し、新しい基地を建設する計画がたてられています。普天間基地を移設すると称して、同じ沖縄県内・名護市にある米軍シュワブ基地周辺に、いまより使いやすい強固な基地をつくるというのです。

 この計画は、五十年が経過して老朽化した現在の基地を、ヘリコプターにかわる新しい軍用機オスプレイを配備できるような、最新鋭の基地にしようというものです。米国防報告は、このオスプレイについて、「強行侵入作戦を遂行するために必要」「海兵隊員が深く内陸に位置する目標を迅速に攻撃することを可能にする」としています。それは、オスプレイが、現在の米軍のヘリコプターに比べ、巡航速度は二倍、積載能力は三倍、航続距離は五倍から十倍という能力をもっているからです。朝鮮半島や台湾海峡にも自力展開できるようになります。ヘリコプターのような垂直離着陸にくわえ、固定翼機のような水平飛行も可能です。こうした能力をもつがゆえに、離着陸時の騒音や滑走路への負荷も甚大であり、老朽化した基地でなく、最新鋭の基地に配備したいのです。

 この計画はまた、沖縄に半永久的に基地を置こうとするたくらみと、深く結びついています。米国防総省がまとめた報告書「沖縄・海兵隊普天間航空基地移設のための運用条件と運用構想(最終案)」は、「(新基地の)海上施設とすべての連結する建築物は、四十年の運用年数と二百年の耐用年数をもつように設計される」と明記しています。二十一世紀にむけて長期に使用する基地をつくるというのです。

 もしこの場所に基地がつくられるなら、自然環境に取り返しのつかない影響を与えることも、つよく懸念されています。基地建設が予定されている場所は、沖縄県が指定した自然保護区域です。サンゴ礁、干潟、藻場など多様な生態系が維持されている区域として、もっとも保護の優先度が高い地域になっているのです。この海域は、国際保護動物のジュゴンが生息する北限となっていますが、基地が建設されれば、その生存が不能となることが懸念されています。基地予定地に近い北部の森林では、ここでしか生息していない六十六種をはじめ、千三百種以上の多様な生物が確認されています。米軍機がこの上空を通過するようになれば、絶滅が危ぐされている多くの種などに、深刻な影響を与えることは確実です。

 名護市民は、すでに市民投票によって、基地建設反対の意思を確認しています。にもかかわらず、日米両国政府は、なんとしても基地を建設しようとしているのです。ことし七月のサミットは、普天間基地の移設問題が重大な局面をむかえている最中に開催されます。

 日本共産党は、日米安保条約をなくして、基地のない平和な日本をつくることを展望しています。しかし同時に、沖縄県民の苦痛は、安保条約の終了以前にも、緊急に解決しなければなりません。世界各国のみなさんにも、沖縄の現状と要求について、ご理解いただきたいと考えます。


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