不破さん青年と語る

戦後60年 世界とアジアそして日本

あの戦争は何だったのか

8・15で誰の目にもはっきりしたこと

(しんぶん赤旗日曜版 2004年12月26日・2005年1月2日合併号、1月9日号掲載)


 ことしは終戦から60年、そしてアジア・アフリカ(バンドン)会議から50年にあたります。1945年を機に世界は、日本は、なにが変わったのか。イラク情勢の泥沼化や戦争美化の動きを、世界とアジアの流れのなかで見るとどうなのか。不破哲三議長が日本民主青年同盟の青年たちとともに、大いに語り合いました。


出席者

日本民主青年同盟中央委員長
 姫井二郎さん

同副委員長
 近藤奈津子さん

民青新聞編集局長
 染矢ゆう子さん

不破 あけましておめでとうございます。

姫井、近藤、染矢 おめでとうございます。

たたきこまれた「聖戦」の「大義」

不破 今年は、前の戦争が終わって60年、戦争の問題がいろいろ議論される年になると思いますが、私は、あの戦争のただなかで育った世代なんですよ。日本が中国に攻め込んでその東北部を攻め取った「満州事変」が始まったのが、私が生まれた翌年の1931年。小学校1年生の時に、この侵略戦争が中国にたいする全面戦争に拡大し、6年生の12月には、それがさらに、アメリカやイギリスまで敵として東南アジア全体を侵略する太平洋戦争に拡大した。東京をはじめ日本全土が焼け野原になるなかで、日本の敗戦で戦争が終わったのは、中学4年(当時は5年制)の8月、工場への“勤労動員”で、特攻機用の通信器をつくらされていました。

姫井 そうなんですか。

不破 いまイラク戦争の大義のことが大問題になっているでしょう。前の戦争のことを見る時にも、そこが大事なんですよ。あの戦争中、この戦争の「大義」について、私たちにどんなことが吹き込まれたか、それを話すと、日本がやった戦争の性格がよく分かる、と思います。戦争を始めたり、拡大する時には、そのときどきなりの理屈がいわれましたが、新聞でもラジオでも学校でも、教えこまれた「大義」は簡単なものでした。

 代表的な合言葉は三つでした。まず「神国(しんこく)日本」、「八紘一宇(はっこういちう)」。要するに、日本は天皇が治める神の国だから、アジアと世界に手を伸ばして、これを支配下に収める権利と使命がある、これに従わないものは悪者だから、これを退治するのは当たり前だ、ということ。それに、「神州不滅(しんしゅうふめつ)」が続きます。神の国の戦争だから、負けることはない。これが、私たちがたたきこまれた「聖戦(せいせん)」の「大義」のすべてでした。

 子どもたちだけじゃないですね。大学の途中から動員されて戦場で命を落とした人たちの手記『きけわだつみのこえ』を読むと、私たちよりも難しい言葉で表現していますが、戦争に疑問を持った一部の若者をのぞけば、みんな同じ考えを書きつけていますよね。

近藤 いまでは想像できない世界ですね。

不破 ところが、実際には、1945年8月、「不滅」だったはずの「神国」日本が戦争に負けて降伏しちゃった。これで「神の国」も壊れてしまう。その後、世界のすべての国が独立して生きる権利をもっており、勝手に外国に攻め込んだり、自分の領土にしたりすることは許されない、こういう世界の当たり前の道理が分かってくると、日本がやった戦争がいかに間違った侵略戦争だったかということが、誰の目にもはっきりしてきた。

 “目からウロコ”という言葉がありますが、短い期間に、日本の国民の考え方が大きく変わったというのが、私の実感でした。これは、押しつけでもなんでもないんです。私自身がそうでしたから。だから、敗戦の翌年、新しい憲法が制定され、再び戦争を起こさないという反省や決意が書きこまれた時、多くの国民がそこに自分の気持ちを託したんですよ。

あからさまに描かれた侵略の目標

不破 いま、侵略戦争などなかったという戦争美化論が一部でさかんになっていて、教科書にまで持ち込まれていますが、いまさらこういう議論を持ち出す人たちは、歴史を本当に知らないんですよ。この戦争がアジア侵略の戦争だったことは、当時、日本の政府や軍部が決定した公式の文書にも、ハッキリ書かれていることなんです。

染矢 そんな文書があるんですか。

不破 いろいろありますが、一つだけ紹介しますと、1940年、日本がヨーロッパの侵略国家だったドイツやイタリアと軍事同盟を結ぶんです(三国軍事同盟)。その交渉にゆく時、これから三国で世界を分け取りするとしたら、日本は、世界のどれだけの部分が欲しいか、という要求範囲を、政府と軍部で公式に決めるんです。

 「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏について」という文書です。「皇国」とは、天皇の国家、「大東亜新秩序」というのは、東アジアに日本の支配する「新秩序」、つまり「大東亜共栄圏」をつくるという目標、「生存圏」は支配下におくべき領域の範囲ということなんです。

 読んでみると、「日満支を根幹とし」――「満州」とは日本がカイライ国家をつくった中国の東北部のことですが、「支」、つまり中国の全体が勝手に「新秩序」の根幹にされています――に始まり、以下、めざす地域がずっと並ぶんですが、そこには、イギリスやフランス、オランダがアジア・太平洋地域にもっていた植民地が全部、インドやオーストラリアまで入っていました。

 この1年あまり後に太平洋戦争の開戦ですからね。いくら、あれは日本の自衛のための戦争だったと、美化論をならべてみても、戦争を起こした連中が、他国侵略の目標をこれだけあからさまに描いているわけですよ。

近藤 あきれた話ですね。

東南アジアに残る「ロームシャ」の言葉

不破 そういう戦争を、「日本は神の国だから、アジアを指導する使命がある」という勝手な議論で合理化した、これが真相でした。侵略戦争には、野蛮な残虐行為がつきものですが、日本が、アジアの人びとに与えた被害は、本当にひどいものでした。

 中国や朝鮮はもちろんですが、戦争と占領の傷跡は、東南アジアでもいたるところに残っています。私は、99年にシンガポールをはじめて訪問したんですが、街の真ん中に「血債(けっさい)の塔」という日本占領時の犠牲者を記念する大きな碑が建っていました。日本軍がここを占領したあと、抵抗の恐れがあるということで、街中の中国系住民を1カ所に集めてひとまとめに殺してしまった。大量虐殺ですね。

 日本軍はまた、軍用の鉄道工事などのために、東南アジア全体から労働者を強制動員したんです。ビルマ(いまのミャンマー)とタイを結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」建設は、映画「戦場にかける橋」にも描かれ、連合国軍の捕虜への残虐行為で有名になりましたが、いちばん虐待されて、7万人以上の死者を出したのは、「ロームシャ(労務者)」と呼ばれた東南アジアの人たちでした。いまでも、マレーシアやインドネシアでは、「ロームシャ」という言葉が、当時の思いをこめてそのまま残っています。

 日本軍の食糧調達もひどいものでした。侵略した出先で何十万もの軍隊の食糧をまかなうために、コメなどを強権で取り上げたのです。ベトナムでは、そのために大飢饉(ききん)が起き、戦争の最後の年の45年には、200万人が餓死したと聞きました。侵略戦争は、戦場での蛮行にくわえて、そういう被害まで、アジア各地で引き起こしたんですよ。

青年たち 知らなかった。

不破 そんなことは、戦争中には知らされませんでしたが、戦後のいまでも、日本人はあまり知らないでいますね。戦後60年を迎えるいま、日本の戦争とそれが何をもたらしたかについて、日本人が正面から向かい合うことが、私は本当に大事なことだと思います。

 戦争や植民地支配の被害というのは、被害を与えた国民の側からいうと、“過去の歴史”ですませがちです。しかし、被害を受けた国民の側では、何十年たったとか、世代が替わったからといって、記憶が消えるものではないし、消えていいものでもないですね。

 韓国でいえば、その歴史は、植民地支配の苦難の時代をのりこえて独立をかちとり、現在を開いてきたという、民族の誇りある歴史です。中国でも、抗日戦争15年の歴史――1919年の“五・四運動”から数えれば二十数年の歴史――は、今日の中国を築き上げた建国の歴史です。

 こういう状態が、東アジアの全体にあるわけですね。

 ですから、戦争の問題というのは、日本の国民がアジアで生きてゆく上で、本当に大事なことです。歴史をよくつかんで、あの戦争を歴史をゆがめて“正しい戦争”と描きだすような戦争美化論は横行させない、それが出てきたら、それを打ち破るだけの力を身につける、これは、責任ある日本国民一人ひとりの義務だと思うんですよ。戦後60年という今年は、このことを、しっかり腹にすえる年にしたいですね。

姫井 私も昨年夏、韓国を家族で訪問して、植民地の傷跡と抗日戦争の歴史の重みを強く感じました。

日本の戦争をどう見るかは「内政」でなく世界の大問題

国際社会が断罪した日本の侵略戦争

不破 この問題でもう一つ考えてみたいのは、日本の戦争をどう見るかということは、世界の問題だということですね。

 いま国際連合があり、戦争と平和の問題では、国連憲章がいつも問題になるでしょう。この国連憲章は、45年4月〜6月、日本がまだ戦争をやっているときに、連合国がサンフランシスコに集まって、戦後の世界の設計をやり、その会議で生みだしたものなんです。日本がアジアで、ドイツ、イタリアがヨーロッパでやったような侵略戦争は、今後の世界に二度と起こさせてはならない、そのことを保障する平和のルールと組織をつくろうではないか、これが国連憲章の精神で、そこから、各国がやる戦争は自衛の場合以外は認めないとか、憲章の一連の条項がつくられたのです。

 世界には、それまでにいろいろな侵略戦争がありましたが、国際社会が、これは侵略戦争であって、こういう戦争は二度と起こさせてはならないと確認したのが、日本とドイツ、イタリアのやったこの戦争だったのです。いわば、現在の世界の秩序は、その反省の上に成り立っているわけですから、もし日本が、あの戦争は“正しい戦争”だったと、その見直しを始めたら、それは、日本が現在の世界で生きてゆく立場を失うことになる、それぐらい重大な問題なんです。

 ドイツでは、いまでも、過去の戦争にたいする徹底した反省を、歴代政府の最高の任務にしているでしょう。だから、ドイツと、ドイツの侵略で大被害を受けたフランスとのあいだに、がっちりした信頼関係が築かれ、それがいまの統一ヨーロッパの柱になっています。

 こういう点では、いま日本で一部に起こっている戦争美化論というのは、世界でも本当に異常な潮流なんです。

染矢 戦争美化論が外国から批判されたりすると、「内政干渉」だといっていきりたつ人がいますね。

不破 日本の戦争をどう見るかは、絶対に「内政」問題ではないんですよ。明々白々な侵略戦争がおこなわれ、一般市民を大量に犠牲にした無数の事件が明々白々の事実としてあった。このことを棚上げして戦争を正当化するような流れが日本の主流になったりしたら、それこそ、日本そのものが、世界政治の上でよるべき立場を失うんですよ。

歴代自民政府は侵略を認めなかった

近藤 外国の問題ではなく、なによりも日本自身の問題なんですね。

不破 自民党の歴代政府は、日本の戦争が侵略戦争だったことを、長いあいだ、認めないできました。

 私は田中角栄内閣のとき、1973年の国会で、首相に「中国にたいする戦争を、侵略戦争と考えるのか、それとも別の戦争と考えているのか」と質問したのです。田中首相が中国に行って過去の謝罪をし、国交を結んで帰ってきたあとのことでした。ところが、私の質問への答えは、「それは後世の歴史家が評価することだ」と繰り返すだけで、侵略戦争だという事実を認めないのです。中国で謝罪した直後の最初の答弁ですから、あきれました。私は、その時も、「日本がドイツやイタリアと結んでやったあの世界戦争が、全体として侵略的な戦争だった、それを二度と起こさせないという前提の上に、国際連合が成り立っている」と指摘し、政府がとっている立場の重大性を警告しました。

 ところが、16年たった1989年、竹下登首相が戦争の問題で、16年前の田中答弁そのままのことを繰り返したのです。そこで私が、「それならあなたは、ヒトラーがやった戦争について、これを侵略戦争と考えるのか」と聞いたら、首相が困ったんですね。ヒトラーの戦争は侵略戦争で、日本は違うと言っても、理屈があいませんから、「学問的な定義は非常に難しい」(笑い)、「やはり後世の史家が……」というところに逃げ込みました。

 この竹下答弁に驚いて、すぐ“竹下、ヒトラーの戦争を擁護”と痛烈な批判の記事を掲載した外国の新聞がありました。なんと、在日米軍の準機関紙「星条旗」です。

 歴代の自民党政府がとってきた立場は、盟友であるアメリカの軍隊をもびっくりさせた、それほどにも戦後世界の常識とは両立しないものだった、ということですよ。

染矢 戦争への無反省って、本当に根深いんですね。

不破 90年代には追い詰められて、自民党と社会党の連立政権の時、村山富市首相が「侵略行為」だったという表現で、ともかく「侵略」を認めました。それ以後、これが日本政府の公式の立場になって、その後の首相は、この線は崩せません。だから、小泉首相も、“侵略については心から反省しています”と言うわけです。

首相の靖国参拝――日本の進路を誤らせる

近藤 それなのに、どうして靖国参拝をがんばるんですか。

不破 “反省の気持ちで参拝している”というのが、小泉首相の言い分ですが、これは成り立たない話です。まず、靖国神社には、いま、侵略戦争を起こした責任者として国際的に処断されたA級戦犯を祭ってあります。これでは、この神社に参拝して“侵略の反省の気持ちを表す”といっても、そんなことは成り立たないでしょう。

 もう一つ大事なことは、この神社が、“あの戦争は正しかった”という戦争美化宣伝の、日本最大の発信地になっていることです。「遊就館」という建物が、そういう展示で埋まっている。これは、戦争中もあった建物ですが、戦争を推進した「神国日本」の亡霊が生き残っているんですね。

染矢 民青新聞で、“靖国ツアー”というのをやったんです。記者もびっくりして帰ってきました。

 だけど、小泉首相はどうしてそこまでこだわるのでしょう?

不破 個人的な思惑は分かりませんが、“やりだしたことをやめたら、政治生命がなくなる”と思いこんでいるのかもしれません。しかし、一人の政治家の道理のない思惑で、誤った戦争にたいする日本の態度という根本が傷ついて、そのことが日本の進路を誤らせる、こういったことは絶対に許されないことです。外国に言われるからということでなく、日本国民の問題として、きちんとしなければなりませんね。

日露戦争100年と作家の“史眼”

姫井 戦争に関連して、不破さんが今度出した『新・日本共産党綱領を読む』で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を取り上げていましたね。非常に新鮮に感じました。今年は、日露戦争戦勝100年で、いろいろな動きがありそうですから、このあたりの歴史のつかみ方も大事ですね。

明治の日本が登った「坂」は…

不破 『坂の上の雲』という小説は、結局、明治維新から日露戦争に向かう明治の日本を、日本のもっとも偉大な国民的発展の時代として描きました。日露戦争は、めざした「坂」の上に登りつく最後の奮闘だった、というわけです。

 しかし、実際は違ったんですね。明治の日本が登った「坂」は、国民的発展の「坂」ではなく、ヨーロッパ諸国のような、植民地を持った大国をめざす「坂」でした。

 明治維新のあと、朝鮮半島にすぐ目をつけ、清国とどちらがこの半島をにぎるかの争いをやって、最後は日清戦争(1894〜95年)です。この戦争に勝つと、台湾を奪って植民地にした。それで、今度は、朝鮮半島の支配権をめぐって、北から乗り出してきたロシアとの争いになり、日露戦争(1904〜05年)はその決着をつける戦争でした。これに勝ったら、さあ、この半島はもう日本のものだということで、5年後には韓国「併合」(1910年)。さらに中国の東北部にロシアがもっていた権利も引き渡させて、中国進出の足場を手にいれます。こうして、20世紀のはじめには、日本は、早くも朝鮮、台湾という植民地をもった“帝国”になり、中国への野心をもやすのです。

 日露戦争が日本の勝利に終わった時には、“あのロシアを東洋の新興国が破った”というので、一時は世界的に日本の人気があがったんですね。ロシアは、マルクス、エンゲルスの時代から、ヨーロッパの反動の最大の砦(とりで)だとされ、民族抑圧の代名詞のような存在でしたから。ロシアにおさえつけられていたフィンランドでは、日本の勝利を喜んで、「トウゴウ」という名前のビールを売り出したぐらいです。「トウゴウ」とは、ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本の東郷提督の名前をとったものです。しかし、戦争のあと、日本がやることを見て、世界じゅうが、“なんだ、アジアに新しい帝国主義が生まれただけのことじゃないか”ということになりました。

近藤 100年前の歴史ですが、日本の戦争の歴史を知るには、ここらへんもよく見ておく必要がありますね。

松本清張の明治の描き方

不破 司馬遼太郎という人はなかなかの文学者で、筆が立ちますから、小説の面白さに引かれて、歴史の見方までそこに巻き込まれてしまうと困りますね。彼は動乱期を書くのが好きで、幕末から明治にかけての小説をずいぶんたくさん書いています。幕末の反体制派の志士は明治の政権につながりますから、結局、すべてが『坂の上の雲』につながる流れになる。

 松本清張は、そのために、幕末を書かなかったと言われています。彼が書くのは、徳川の権力が退廃しはじめた天保期が多い。『天保図録』とか『かげろう絵図』とかね。

 明治を書くときも、『坂の上の雲』とは反対に、天皇制の確立の過程など、明治の“暗黒”の部分に目をむけるんです。「朕(ちん)は汝(なんじ)ら軍人の大元帥なるぞ」で始まる軍人勅諭(ちょくゆ)は、日本軍を侵略戦争に動員する最大の精神的支柱となったものですが、『象徴の設計』は、この作成を軸に天皇絶対の軍隊制度がどのようにしてつくりあげられたかを描きましたし、『小説 東京帝国大学』は、天皇絶対の体制が歴史学の分野に支配の手を伸ばしてゆく“南北朝問題”を主題にしています。

 また、ご当人は「突っ込みが足りなかった」と反省の弁を書いていますが、短編の「統監(とうかん)」も面白い。日露戦争のあと、韓国を日本の保護国にし、統監として乗り込んでいった伊藤博文を、同行した日本の芸者の目から描いたものです。

 歴史の大きな時代を書くというのは難しいもので、どうしても、歴史を見るその作家の“史眼”が出るんです。

国連憲章に世界が注目

いま第2の波が起こっている

姫井 前の世界大戦の反省と教訓が、国連憲章を生み、平和の国際秩序を世界の大問題にしたということですが、それがいま、いよいよ緊急の問題になっていますね。

 2年前、国連であれだけ議論をしたのに、アメリカがイラク戦争をはじめてしまったでしょう。青年や学生のなかでも、がっかりして元気をなくす気分がずいぶん生まれたんですよ。そういう時に、大阪のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の会議(2003年5月31日)で話した不破さんの講演(「世界とアジア――二十一世紀を迎えて」)が「しんぶん赤旗」(同年6月4日付)に出て、“これだ”と、みんな元気をとりもどしたものでした。

事態は“国連無力論”と正反対

不破 戦争直後の時期を、国連憲章に世界が注目した第1の波だとすると、私は、いま第2の波が起こっている、と思うんです。イラク戦争が始まったのは2003年3月ですが、前の年の11月ごろから開戦に至るその日まで、反戦デモが世界各地でくりひろげられ、50万とか100万とかいう記録的な規模の集会やデモも少なくありませんでした。戦争が始まる前に、反戦平和の運動が世界じゅうで嵐のように巻き起こったというのは、歴史上はじめての経験でしょう。

 しかも、その運動を背景に、世界の大多数の国が戦争反対の意思表示をした。アメリカが総力での外交工作をしたが、戦争賛成という国は、国連加盟191カ国のなかで、わずか49カ国にしかなりませんでした。そして、戦争に反対した各国の政府も反戦運動も、口をそろえて、「国連憲章の平和のルールをまもれ」の声をあげたのです。

 “国連がアメリカの戦争を止められなかった”ということだけを見て、「国連もダメだ」といった“国連無力論”が一部で言われたりしたんですが、世界で起こっている事態はまったく反対でした。03年5月の大阪での講演では、そのことをまず訴えて、その背景をみんなで考えようと話したのでした。

染矢 青年や学生のあいだでも、「国連憲章の平和のルールを」の呼びかけは、大きく広がりました。

不破 この波は、戦後の第1の波よりも、根深い力をもっているんですよ。国連憲章をつくった時(1945年)には、このルールをまもる支えとして、反ファシズムの戦争を団結してたたかった五大国(米・英・ソ・仏・中)の協調に期待がかけられ、その仕組みもつくられました。しかし、米ソの対決が始まると、この仕組みは働かなくなりました。だいたい、その後の大きな侵略戦争は、ベトナムの場合もアフガニスタンの場合も、五大国の一つが侵略国になったわけですからね。

少数の大国が世界を支配する時代は終わった

不破 いまの第2の波をささえているのは、大国中心の仕組みではなく、少数の大国が世界を支配する時代を終わらせた、世界の構造の変化そのものです。なかでも、世界の多数の民族をおさえこみ、国際政治の枠の外に押しのけてきた植民地体制が崩壊し、世界のすべての民族、すべての国民が発言し活動しはじめた、この変化が大きいですね。

近藤 民青同盟の大会(2004年2月)で、不破さんが、世界の総人口62億人を、「四つのグループに分けて見る」話をされましたね。発達した資本主義の諸国が9億人、社会主義をめざす国ぐにが14億人、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ35億人、旧ソ連・東欧圏が4億人。この数字を聞いただけで、世界はこんなに変わったのか、なるほど「少数の大国が支配する時代」ではなくなったんだなと、世界の構造の変化を実感させられました。

不破 経済力をいまの断面で比較すると、発達した資本主義の比重はずっと大きくなってきますが、21世紀といった長いモノサシで見るときには、経済の断面だけの話では足りないんですね。長い目で見ると、人口はたいへん大きな意味をもつし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの動向の重みが浮かび上がってきます。

 この三つの大陸がどう動くか、ここに戦争と平和の問題をはじめ、21世紀の世界の流れが大きくかかっていると言っていいでしょうね。

バンドン会議50周年――アジア・アフリカのたくましさ

姫井 アジア・アフリカ・ラテンアメリカ、この三つの大陸がどう動くか、21世紀の世界の流れはここに大きくかかる、という話でしたが、今年はバンドン会議50周年という年なんですね。北京で開かれた第3回アジア政党国際会議での不破さんの発言で、“あ、そうか”と思いました。

「人類史上初の有色人種の会議」

不破 バンドン会議というのは、1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議のことです。「人類の歴史上はじめての、有色人種の大陸を越えた会議」――主催国であるインドネシアのスカルノ大統領は、基調報告で、こういってこの会議を特徴づけました。

 当時はまだ植民地体制の崩壊の過程が進行中で、ベトナム(1945年)、インド(47年)、ビルマ(現在のミャンマー、48年)、セイロン(現在のスリランカ、48年)、中国、インドネシア(以上49年)と、一連のアジア諸国が新国家として誕生し、独立の波が中東から北アフリカへと広がりつつありましたが、まだ多くの民族が植民地・従属国の立場におかれていました。その時期に、すでに独立をかちとった諸国家が、アジアとアフリカにまたがる形で集まり、全世界の植民地の解放という大方向を打ち出すと同時に、国連憲章をさらに一歩進めて、世界が守るべき平和の諸原則を打ち出したのです。

近藤 それが「バンドン精神」、「平和10原則」といわれているものですね。

不破 そうです。前の年に、中国とインドの協定で「平和5原則」が確認されているのですが、バンドン会議では、この方向がさらに立ち入った内容で展開されました。

 この時期は、国際情勢はかなり複雑だったんですよ。1950年に始まった朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ(53年)、フランスによるインドシナ戦争もジュネーブ国際会議で解決される(54年)など、アジアは平和をとりもどしてはいましたが、一方で、軍事ブロックの対決という状況をアジアに持ち込む動きも始まっていました。アメリカ主導で、東南アジア条約機構という軍事同盟がつくられた(54年)のは、その典型でした。

 バンドン会議に集まった29カ国のなかでも、非同盟派は少数で、軍事ブロックに加盟していたり、それに近い立場をとる国の方が多数でした。だから、ほぼ同じ立場の国が集まって、合意事項を発表するといった会議ではなく、立場の違いや深刻な対立をかかえた複雑な構成の会議だったんですね。開く前の段階でも、中国を呼ぶかどうかが激論になりましたし、バンドン会議そのもののなかでも、ソ連の東欧支配を植民地支配と見るべきではないかとか、軍事同盟の根拠である集団的自衛権の位置づけとか、「平和的共存」という用語を使うことの是非とか、さまざまな政治問題がはげしく議論されました。

 こういう問題を、“意見の違いは残して一致点で団結する”という精神でのりこえ、国際関係の基準として、いまでも国連憲章とならんで評価される諸原則を全会一致で採択するところへ進んだのです。いま経過を読み返して、アジア・アフリカの知恵のたくましさを強烈に感じますね。

染矢 この会議には、日本も参加していたのですか。

不破 ええ。鳩山内閣の時代ですが、高碕達之助という大臣が参加しています。

大同団結を生み出した原動力は

姫井 この時期に、大同団結を生み出した原動力は何でしょう。

不破 いちばんの力は、独立をかちとった諸国が先頭にたって、全世界から植民地体制を一掃し、これまで抑圧されてきた諸民族の独立と国際的地位を確立しようという、民族解放の熱望ですね。大国の軍事ブロック的な対決を前に、多くの国の政府が平和への危機感を持ったことも、この大同団結を生み出す力になった、と思います。実際、この危機感は熱い根拠をもっていました。アメリカがインドシナに介入し、ベトナム侵略戦争を準備する過程が間もなく始まりましたから。

染矢 50年前によくもこれだけのことを、と感心します。

一年ごとに新しい発見――アジア外交の展望が広がった

不破 この50年間には、アジアにも、アフリカ、ラテンアメリカにも、さまざまなことがありましたが、いま大切なことは、新しい情勢のもとで、バンドン会議の精神をうけつぎ発展させることですね。

 アジア、アフリカ、ラテンアメリカの情勢そのものが、50年前とは大きく変わっています。インドネシアのスカルノ大統領が述べた「大陸を越えた」という言葉、これは、いまでは、二つの大陸だけでなく、ラテンアメリカをくわえて三つの大陸を結ぶ規模で考えなければいけません。

 いま世界は大変動ですが、とりわけこの三つの大陸の変化は激しいですね。私たち自身も、1年ごとに新しい発見に出合います。

 去年1年をふりかえっても、そうですね。

近藤 そんなに変動が大きいんですか。たとえば、アジアでは?

アジア政党会議で豊かな交流

不破 去年の最大の発見は、なんといっても、アジア政党国際会議でした。帰ってすぐ、いっしょに参加した緒方靖夫さん(党国際局長・参院議員)とこの日曜版で対談をやって、かなり詳しい報告をしましたが、35カ国の83の政党が、与党・野党の区別なしに北京に集まり、世界の平和とそのルールの問題、お互いの交流の問題などを話し合ったのですから。会議のこういうあり方そのものが、ほかの大陸ではやれないことだと思いましたね。

 日本共産党は、この会議を舞台に、いちばん多角的で豊かな交流をやった党だと自負しています。以前からの友人との再会も多くありましたが、韓国のウリ党、カンボジアのフンシンペック党、タイの愛国党、マレーシアの統一マレー国民組織、フィリピンのラカス、インドの国民会議派、スリランカの統一国民党、ネパールの共産党(統一マルクス・レーニン主義)、パキスタンのイスラム教徒連盟、バングラデシュのアワミ連盟、モンゴルの人民革命党、トルコの公正発展党、イランのイスラム・イラン参加党などなど、新しい友人がたくさんできました。私たちのアジア外交の展望がぐっと広がり、先の楽しみも増えましたよ。

 ここでは、本当に、与党・野党とか、保守・革新の区別を気にしないで、会ったらすぐ話し合いができる、という雰囲気でした。パキスタンの与党でイスラム教徒連盟の幹事長さんも、初対面でしたが、「日本共産党のことは30年前から知っている」といって、日本軍国主義論をはじめたり、私たちの外交活動の方針を「気に入った。うちもこの調子でやりたい」などという話になったりする。

染矢 堅苦しい国際会議じゃないんですね。

「イデオロギー」の壁はなくなった

不破 会議では、互いに時間をきちんとまもって発言しあうが、休憩になるとすぐ親しい交流になるんですね。こういう雰囲気には、それだけの背景があります。

 会議で採択した「北京宣言」には、「イデオロギーの違いによってアジア各国の政党の相互接触と協力が妨げられてはならない」という明文の規定があるんです。「イデオロギーの違い」という場合、宗教の違いもありますが、これが指しているのは、まず共産主義と共産党の問題で、共産主義の党だからといって、そのことを交流の妨げにしてはならない、ということです。これが、アジアの政党の相互のつきあいの原理原則になったわけで、ここでは、もう「反共」という壁がなくなっています。

青年たち すごい。

「共産党は悪い党だと思っていた」大使が…

各大陸に広がる友好の輪

染矢 アフリカでも、去年、新しい“発見”がありましたか。

「これが共産主義なら私もそうだ」

不破 一昨年、私がチュニジアの政権党(立憲民主連合)の大会に出席し、去年は1月の私たちの党大会にチュニジアの党の代表が来てくれました。大会のあと、チュニジアの大使が私と志位委員長を夕食会に招待してくれましたが、その時、仲間の大使を何人も呼んで引き合わせてくれたのです。アルジェリア、リビア、ウガンダ、カメルーン、ガーナ、それに中東のヨルダン、レバノン、友好の輪がアフリカにもずいぶん広がりました。

 新しい経験では、最近、アフリカのある国の大使から、“あなたの本を英語版で読んだ。ぜひ会って話を聞きたい”という電話がかかってきました。これまで交流がなかった国なんです。日を決めて会ったのですが、「私は最近まで共産党とは悪い政党だと思っていた。私の国の人はみんなそう思っている」(笑い)と言うのです。共産党といえば、ゲリラの武装闘争主義、それに資本主義は頭から否定する、これが共産党だと思っていた。そこで、あなたの本が英文で手に入ったので、どんな悪いことを書いているのかと読んでみたら、まったく反対だった。『「国家と革命」を歴史的に読む』には、ゲリラ闘争主義どころか、議会の多数を得ての革命という「人民的議会主義」の方針、『私たちの日本改革論』には、資本主義の枠内の民主的改革の政策が書いてあった。それで「これが共産主義なら、私も共産主義者だと思うようになった」。それで本国にいる党の議長(前の大統領です)にそういう事情を知らせたら、すぐ会ってこい、と言われた。それで来たのだ、自分の国の政治を改革する参考にしたいから、ぜひ意見が聞きたい、というのです。

 その2日後には、自分が書いて本国に送った「政治改革案」をとどけてきました。私たちの「人民的議会主義」という言葉が気に入ったといっていましたが、この「改革案」にもあちこちにこの言葉が書き込まれていました。

 私は感心しましたよ。共産党は悪いという自分の考えが間違いだと分かったら、すぐ訂正して、その党の本部を訪ねてきて、役にたつものは国づくりにすぐ役立てる。共産党ぎらいといっても、いわゆる「反共」の態度とはまったく違うし、その国づくりへの熱意にも打たれましたね。

染矢 ラテンアメリカの状況はどうですか。

ラテンアメリカ――新しい激動の時代が

不破 ラテンアメリカとの昨年の出合いは、ベネズエラ大使からチャベス大統領の著書『ベネズエラ革命』を贈呈されたところから始まったのですが、ベネズエラ革命は、去年、大成果をあげて地盤をかためたようですよ。反革命派が要求した大統領の信任投票(8月実施)は、大統領側の大勝利、反革命派の大失敗に終わりました。この結果は、“ベネズエラ国民が民主主義の意思を発揮したものだ”と、日本の外務省も感心していましたよ。続く10月には、首都区と23の州で知事選挙がおこなわれ、これも首都区と20州で革命派が勝つ。反革命派との闘争で、国民が鍛えられ強くなる過程がまざまざと表れました。

 しかも、その間、ウルグアイの大統領選挙で左翼が勝ったでしょう。これで、南アメリカでは、自主的・進歩的な政策を追求する政権が、ベネズエラ、エクアドル、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイと肩をならべることになりました。

 党大会で、私は、「この大陸に新しい激動の時代がはじまりつつある」(閉会あいさつ)と述べましたが、その通りの1年間でしたね。アメリカが、イラクで無法で無理な戦争をやっているあいだに、かんじんの足元で、たいへんな地殻変動が起こっている、そんな印象を持ちます。

「国内に目を向けると…」との声にこたえて

姫井 本当に世界の変動はすごいですね。ただ、青年のなかには、世界を見ると元気になるが、日本に目を向けると元気が出ない、という声もあるんです。

世界と日本の関係は弁証法的

不破 世界と日本との関係は、弁証法的なんですよ。どちらかが先に進んで、他方がおくれるということは、いつでもあることですが、世界の流れに逆らった逆流は、最後には、国内でも破綻(はたん)にぶつかることになるんですよ。

 憲法改悪の企てだってそうです。90年代はじめに社会党が護憲の旗をおろして以後、一貫した護憲派は、政党では日本共産党だけになりました。政治の舞台では、改憲派が多数派で、それを上から国民のなかに持ち込む。憲法改悪派が威勢いいように見えますが、これだけキャンペーンをはっても、9条改悪というのは、なかなか国民の多数意見にならないでしょう。

 しかも、改憲派は、憲法改悪によって、日本をどこに持っていこうとしているか――これが、国際的にも正面から問われてくるのです。

 世界では、平和のルール、平和の秩序をどうやってつくるかが、どこでも大問題になっている。さっき話したアジア政党国際会議でも、ここに討議の中心がありました。この立場に立って見れば、日本の憲法第9条の値打ちは、誰が見ても分かるんですね。9条は、世界の平和秩序づくりに最大の貢献ができる資格と力をもっています。9条が代表しているのは、戦争のない世界をつくる事業の先頭にたつ、そういう日本ですよ。

 では、憲法改悪派は、どんな日本をめざしているのか。彼らが求めているのは、アメリカの同盟国として、海外で戦争をやれる日本になることです。いまの自衛隊のように、給水活動しかできない部隊ではなく、米軍と同じ戦列で戦争をおこなえる軍隊を持ちたい、ということです。

 日本が憲法を変えてそんな国になることを、いったいアジアの誰が歓迎するでしょうか。また、世界の誰が喜ぶでしょうか。

 アメリカのブッシュ政権は喜ぶでしょう。しかし、かりに日本がブッシュ政権を喜ばせるために、憲法改悪の道を進み、アメリカの“次の戦争”の時には、軍隊を派兵できる国になったとしても、その時には、“次の戦争”なるものをやれる場所が、世界のどこにあるのかが、問題になってきます。イラク戦争でアメリカが四苦八苦の窮地におちいっている現状を、冷静にみたら、その前途のなさが誰にもわかることではないでしょうか。

近藤 まったく展望のない話ですね。

憲法改悪――世界的な見通しのない道に

不破 憲法改悪というのは、世界的な見通しのたたない道に日本をひきこんでゆくことなんです。憲法改悪派が、平和の外交戦略をもたず、「戦争のできる国になりたい」の一心で、こういう前途のない道に突き進むなら、その結果は、必ず国内に跳ね返ってきて、それを推進した勢力の危機をやがては引き起こします。

 国内の政治には、いろいろな波があり、そういうなかで、歴史は進んでゆくものです。どんな局面でも、まともな道でがんばることが、次の局面を開くカギだということを、いつも心に刻んでおきたいですね。

雇用や生活面での世界と日本

近藤 このあいだ、雇用問題で1400人参加して集会をやったのですが、日本の青年がおかれている状況は、世界の状況とくらべて、あまりにもひどいんですね。世界と日本というとき、こういうことをどうとらえたらいいですか。

不破 雇用などの問題でも、世界のなかで日本がどんな立場にあるかを、しっかり見ることが大事だと思います。私たちは、「ルールなき資本主義」というとき、よくヨーロッパとの比較を問題にするんですが、このあいだ、ブラジルから日本に取材にきた人が、企業の女性差別のひどさにびっくりして、こんな国はラテンアメリカにはない、と言ったという話を聞きました。この種のことは、よく聞く話なんです。一人当たりの経済規模とか、統計数字の上では、日本の水準は上にあるように見えていても、生活の実際の中身を見ると、日本で青年たちに押しつけられている暮らしぶりや働きぶりには、ヨーロッパどころか、ラテンアメリカにも例がないような異常なものがいくらでもある。

ルールなき状態の異常さ――その自覚が力になる

染矢 この異常な状態がどうしてつくられたのか、そこをもっと知りたいですね。

不破 大きな問題ですが、私の経験から一つ言いましょう。

 私は、1950年代から60年代にかけて、鉄鋼産業の労働組合で仕事をしていました。社会全体としての「ルールなき資本主義」の実態はいまと変わらないのですが、そのころは、「生涯雇用」とか「年功序列型賃金」とか、企業ごとの“日本的な体制”があって、それが社会的な「ルール」のなさをカバーしているという面があったのです。そのころは、いったん大企業に入ったら、よほどのことがない限り、途中でリストラされることはまずなかったし、生涯にわたる賃金の保障もありました。

 ところが、現在は、“国際化”の波のなかで企業ごとの“日本的な体制”がなくなり、社会的な「ルール」のなさが、むきだしで労働者を直撃するようになった、歴史的には、こういう問題もあると思います。

 ともかく、みんなが置かれている「ルールなき」状態の異常さを事実によって明らかにすること、その異常さを青年の自覚にし、国民の自覚にし、社会の常識にしてゆくこと。これが、日本を変える力になってゆく。そういう角度から世界を見てゆけば、必ずそれを日本の運動に生かしてゆけるんですよ。

近藤 憲法でも雇用でも、世界のなかでの日本の立場を見ることが、力になるんですね。

姫井 私たちが異常な日本を変える自信がわいてきました。

染矢 日本を変えるためにも、世界のことをもっともっと知ってゆくつもりです。

不破 今年も、おたがいにがんばりましょう。

青年たち 今日はどうもありがとうございました。

デンマーク女王の夕食会に招待されて

主賓は天皇夫妻だったが、デンマーク流で「君が代」なし

不破 アジアのところで、世界から「反共主義」が消えつつあるという話をしましたが、ヨーロッパの関係では、こんな経験をしましたよ。

 昨年11月、デンマークのマルグレーテ2世女王が来日した時、迎賓館での夕食会に、私たち夫婦が招待されました。日本に来て、日本の政党を招待するさい、共産党だからといって差別しない、そういう態度の表れだということをすぐ感じました。

 私たちの側でいうと、デンマークが王制をとっていることは、デンマーク国民の選択の問題ですから、私たちがとやかくいうことではありません。また、この夕食会は天皇夫妻を主賓とする会ですが、私たちの綱領は、天皇の制度の存廃は将来の国民的な選択による問題とし、それまでは共存するという態度を決めているわけですから、この点も問題はありません。

 ただ検討すべき点があるとすると、日本では、天皇が出席する行事には、いろいろな儀式がつきもので、それへの対応が問題になることです。

 そこで、招待への返事を出す前に、デンマーク大使館に使者を派遣して、“招待はお受けするつもりだが、念のために式次第を聞きたい”と申し入れたのです。もちろん、天皇問題にたいする私たちの態度も説明しました。そうしたら、デンマーク側の回答は、「夕食会は、デンマーク流でやります。『君が代』の演奏はありませんし、お客さんになにかを強制するようなことはいっさいありません。あなたがたの立場と矛盾することはなにもないと思います」というきわめて明快なものでした。

 出席してみると、まさにその説明どおりでした。「君が代」もないし、儀式的なものはいっさいない。

青年たち (笑い)

不破 時間が来たら、木の板をたたくような音がして、これが開始の合図。そこで女王夫妻と天皇夫妻の入場なんですが、“これから入場します”といったお知らせもない。お客さんが自然に通路をあけたところを通るのですが、その間、拍手もなし、お辞儀もなしです。小舞台でパントマイム的な催しがあり、終わってご一行が帰るときも、まったく同じ。

 それからが立食のパーティーですが、終わりはどうなるの、と係に聞いたら、「自由に好きな時にお帰りください」でした。

青年たち 流れ解散ですか。(笑い)

“ひっかかっていたトゲ”がとれたように

不破 これがデンマーク流。まさに強制なし、式次第なしでした。

 これには、後日談がすぐありました。緒方国際局長がいろいろな王国の大使の方々に会ったら、みなさん口々に「おめでとう」と喜んでくれた、というのです。互いによく知り合っているごく親しい大使ばかりなのですが、自分の国の王制について、日本共産党がどういう態度をとるか、ということは、気にかかっていたんですね。それがはしなくも解決して、“ひっかかっていたトゲ”がとれたということだったようで、私たちにとっても、野党外交の一つの新しい経験でした。


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