3、日本の未来社会――社会主義・共産主義の展望

生産手段の
社会化
「生産手段の社会化」がポイント共産主義・社会主義の大目標大もとをきりかえる生産手段と生活手段

資本主義を
乗り越える
「資本が主人公」から「人間が主役」の世界へ生産手段の社会化の「三つの効能」人間が全面的に発達する社会経済を計画的に動かしていく道無駄のない効率の高い生産 

社会主義・
共産主義への
道すじ
社会主義・共産主義への道すじどんな段階も国民の合意で「生産手段の社会化」は多様、原則は「生産者が主役」「市場経済を通じて社会主義へ」市場経済とは中国やベトナムの場合

二段階論 社会主義、共産主義の二段階論は捨てた国際的な“定説” ソ連社会を美化する道具だてマルクス、エンゲルスの未来社会論「ゴータ綱領批判」の注意書き「ゴータ綱領批判」


人間解放の社会


3、日本の未来社会――社会主義・共産主義の展望

 日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。(綱領改定案)

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「生産手段の社会化」がポイント

共産主義・社会主義の大目標

 経済を動かす原動力が、個々の資本のもうけの追求だというところに一番の根っこがあります。利潤第一主義、これが経済のあらゆることを支配しているから、経済全体の管理ができないのです。しかも、その巨大な生産力と生産体制を現実に動かしているのは、そこで働いている人たちなのですが、その人たちは社会的には資本にやとわれ、使われるという受け身の存在で、生活も厳しい条件のもとにあります。ここにも利潤第一主義の不合理と犠牲があります。

 それを乗り越えることが、私たちは、次の新しい社会の一番大事な役目だと考えています。

 それには何が必要か。個々の資本の利潤第一主義が経済の原動力になるのは、工場とか機械とか生産のための手段、装置、そういうものが個々の資本の財産になっているところに基礎があるのです。だから、その生産手段を社会全体の手に移し、しかも現実に生産に当たっている人が主役になって経済を動かすという方向に経済の仕組みを切り替える、これが必要だということが、資本主義の矛盾の分析からでてきた結論なんです。

 それを、社会主義の言葉では「生産手段の社会化」といいます。個々の資本が持っている生産手段を社会全体の共有財産にしようじゃないか、「生産手段の社会化」はこういうことで、これが社会主義・共産主義の大目標なんですね。(日本共産党創立81周年記念講演)

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 資本主義というのは、生産手段を、生産者ではなく個々の企業がにぎっていて、利潤が経済を動かす最大の目標になる、そこから搾取も起きれば、不況や環境破壊も起きる、「生産手段の社会化」というのは、その大もとを切り替えて、人間社会の発展の新しい展望を開くことで、そこに社会主義・共産主義のそもそも論があります。(「しんぶん赤旗」日曜版7月6日号インタビュー)

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 人間が社会で作っているいろいろな物資は、大きく分けると二種類あるのです。衣食住をはじめ、私たちが生活のなかで消費してゆくもの、これは生活手段なんです。これにたいして、いろいろなものを生産するために使うものが生産手段なんです。

 「生産手段の社会化」というのは、共産主義・社会主義の社会になって、社会化されるのは何かということを言葉の上でも明確にしています。つまり社会化されるのは、生産に使われる物資だけであって、生活の手段は社会化の対象にならないということが、この言葉にははっきり表現されています。(日本共産党創立81周年記念講演)

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「資本が主人公」から「人間が主役」の世界へ

生産手段の社会化の「三つの効能」

 改定案では、「生産手段の社会化」が、どういう点で現代社会の諸問題の解決になるか、という点を、三つの角度から押し出しました。(1)人間の生活を向上させ、人間の豊かな発展の土台をつくりだす、(2)経済の計画的な運営が可能になり、不況や環境破壊の問題に正面から立ち向かえるようになる、(3)浪費やむだをなくして生産力の飛躍的な発展に道を開ける。私は、報告でこれを「三つの効能」と呼んだのですが。(「しんぶん赤旗」日曜版7月6日号インタビュー)

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 一般的な生活の保障、向上の問題とあわせて、人間の全面的な発達を保障することを、未来社会の非常に大事な特徴としていることです。社会を物質的にささえる生産活動では、人間は分業の体制で何らかの限られた分野の仕事に従事することになります。しかし、労働以外の時間は、各人が自由に使える時間ですから、時間短縮でその時間が十分に保障されるならば、そこを活用して、自分のもっているあらゆる分野の能力を発達させ、人間として生きがいある生活を送ることができます。この人間の全面的発達ということは、社会主義・共産主義の理念の重要な柱をなす問題でした。労働時間の短縮にも、こういう意義づけが与えられてきたのですが、人間の発展のこういう大道が開かれる、というのが、大事な点です。(不破議長の7中総での報告)

 まず、生産や経済が、資本のもうけのためではなく、社会のためにはたらくようになります。社会を構成しているのは人間ですから、人間のためということが経済の第一の目的となります。ですから経済条件が許すなかで、社会を構成する人たちの生活をいかにして保障するか。これが経済の中心になります。

 それだけではありません。マルクスという人は、未来社会を考えるときに、人間が全面的に発展する社会だということを一番強調しました。どういうことかというと、私たちはみんな頭と体にさまざまな能力を持っています。しかし自分の持っている能力を全部発展させる機会にはなかなかめぐまれない。分業社会ですから。たまたま、めぐりあわせである仕事にぶつかったら、一生その仕事ですごしてしまうという人が多いのです。隠された能力がいっぱいあっても、自分でも発見しないままに人生が終わってしまう。それはさびしいじゃないかということが、マルクスの未来社会論の根底にあるのです。

 それで、どういうことになるか。マルクスは労働時間の短縮ということを非常に重視しました。いま私たちが、みんな一日八時間働いて、これだけのものをつくっているとしましょう。生産力が二倍になったら、労働時間を半分にしても同じ量のものができるはずです。生産力が四倍になったら、労働時間を半分にしてもいままでの二倍の量のものができるはずです。生産力の発展というのは、まともな社会だったら、労働の時間を減らして、それ以外の時間を増やすことと結びつくはずなのです。そうしたら短い労働時間を社会のためにつくしたあとは、自由に使える時間が十分にできる、あとの時間は遊んじゃうという人もいるでしょうけど、遊ぶだけじゃさびしいから、自由な時間を自分の持っている能力を発展させるために使えば、より多面的な人間に成長、発展する道が開ける。誰でもやる気になればそういうことができる。そういう社会になるはずです。

 ところが日本の私たちの経験では、生産力が発展すると、工場がかえっていそがしくなって、残業時間がよけい長くなったりします。これにたいして、生産がもうけのためでなく社会のための生産になると、暮らしの保障と同時に人間の全面的な発達が保障されるようになる。その要となるのが労働時間の短縮です。これが「生産手段の社会化」の効能の一つなんです。(日本共産党創立81周年記念講演)

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 「生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の成員の物質的精神的な生活の発展に移」す。つまり、もうけのための生産から、社会と社会の成員の生活の発展のための生産にきりかわる、ということです。これによって、「経済の計画的な運営」が可能になり、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大を引き起こさないような、有効な規制ができるようになる、ということです。(不破議長の7中総での報告)

 いまの地球がこんなにひどいことになっていることをみると、もうけ本位で勝手放題にやってはだめだ、経済への計画的な働きかけが大事だ、と誰でもが思います。だから小泉内閣でも「計画」と名のつくものをずいぶん作りました。雇用拡大計画だとか。高齢者対策の計画だとか。しかしいま自民党政治のもとで立てられる計画で、100%近く実行されるのは、防衛力増強の計画ぐらいのものです。あとはまったく看板だおれです。

 それは実際の経済の動きが、資本の利潤本位の行動に任されているからです。いくら政府が机の上で計画を立てても、これは現実の社会になんの影響もおよばさない。公害もなかなかとめられない。

 生産手段が社会のものになって、そういう個々の企業の利潤本位のやり方がなくなったとき、はじめて経済を計画的に動かしてゆく道が開かれます。

 自動車をこれだけ増やしても、それが大気汚染を増やさないようにするためにはどういうことが必要か。こういう計画がはじめて本物の形で問題になるようになります。ここにも新しい側面が開けるでしょう。(日本共産党創立81周年記念講演)

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 資本主義経済というのは、利潤第一主義ですから、これは本質的に不経済なものです。一方では、利潤第一主義につきものの浪費が、あらゆる分野に現れます。日本の各地に無残な姿をさらしているむだな大型公共事業の残がいは、資本主義的浪費の典型の一つでしょう。また他方では、くりかえしの不況で、せっかく生産手段もあれば労働力もありながら、それが遊休状態におかれ無活動に放置されるということも、日常の現象になっています。そういう浪費や遊休の土台がなくなりますから、本来なら、その点だけからいっても、改定案でいうように、「人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展」が、社会主義・共産主義の社会の特徴になるはずです。(不破議長の7中総での報告)

 いままでは社会主義というと、能率が悪いものだといわれていました。それは社会主義が悪いのではないんです。ソ連の官僚主義の体制が悪かったのです。社会主義、つまり「生産手段の社会化」になったら、本当なら、もっと無駄のない効率の高い生産ができるわけで、生産力が資本主義の時代以上に発展して不思議はないのです。

 資本主義は効率、効率といいますけれども、結構無駄が多いのですよね。東京湾横断道路。計画した自動車の通行量よりもはるかに少ない自動車しか通らないで、巨額の赤字が確実ですが、そういう事業に莫大(ばくだい)なお金を平気でつぎ込む。そういう巨大な無駄が日本中にあります。

 さらに、設備投資で工場を増やして生産能力もある、働き手もいる、しかしそれをうまく結びつけて動かせないために、不況になると、せっかく拡張した工場も大きな部分を遊ばせたり、労働力のかなりの部分が失業になっている。これもたいへんな無駄でしょう。

 そういう無駄のない経済運営ができて、資本主義の時代以上に生産力の発展の道を開くこともできる。生産手段を社会化したら、こういう新しい展望が人間社会の前に開けるのです。(日本共産党創立81周年記念講演)

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社会主義・共産主義への道すじ

どんな段階も国民の合意で

 日本でおこなわれる社会主義的な変革は、出発点からその過程の一歩一歩まで、すべての段階が国民の合意のもとにおこなわれるのであって、社会主義をめざす政権がいったんできてしまったら、あとはあなた任せの自動装置のようにことがすすむのではない、「国民が主人公」の基本が全過程でつらぬかれる、このことを、念には念をいれて、ここで明記しています。(不破議長の7中総での報告)

 どんな改革も国民の合意によってやるということです。民主連合政府をつくったら、国民が民主主義の段階だと思っているあいだに、政府が勝手に社会主義にいっちゃったなどということは絶対ないのです。国民と相談しないで勝手に改革をやるということはありません。

 社会主義への最初の改革に進みだすときでも、事前に選挙による国民の合意を得て実行する。さらに次の改革をやるときにも、そういう国民の合意を先行させる。これは、当たり前のことであります。「人間が主人公」の社会をつくろうというのに、国民をそっちのけにした、勝手なことができるはずがありません。

 そのことは綱領改定案で、「その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる」と明記されています。(日本共産党創立81周年記念講演)

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「生産手段の社会化」は多様、原則は「生産者が主役」

 生産手段の社会化が多様な形態をとるだろうが、どんな場合でも、「生産者が主役」という社会主義の原則を踏み外してはならない、という問題です(第一六節の五つ目の段落)。これは、非常に大事な点で、私たちがソ連の崩壊の過程から引き出すべき大事な教訓の一つもここにあります。

 さきほども触れたように、マルクスは、『資本論』のなかで、機械制大工業の現場を研究し、労働者が集団として巨大な生産手段を動かしている、その集団が、他人の指揮のもとではなく、自分が名実ともに生産の主役となって、生産手段を動かして社会のための生産にあたる、そこに社会主義的変革の最大の中身がある、という結論を引き出しました。

 マルクスは、『資本論』第三部では、社会主義・共産主義の経済体制を特徴づけるさい、そのことを特別に重視して、「結合された生産者たち」が生産と社会の中心になるという点をくりかえし強調し、この経済体制を「結合的生産様式」と規定したりもしました。「結合された生産者たち」とは、生産体制のなかで結びついた集団的な労働者のことで、こうして「結合された」労働者たちが、連合してその力を自覚的に発揮するようになる、それを社会主義・共産主義の経済の主役として描きだしたわけです。

 ところが、ソ連では、「国有化」して国家が工場などをにぎりさえすれば、これが「社会化」だ、「社会主義」だということで、現実には官僚主役の経済体制がつくりあげられました。そこには、「国有化」の形があり、農業では「集団化」の形がありましたが、社会主義はありませんでした。こんなことは、絶対にくりかえしてはならないことであります。(不破議長の7中総での報告)

 私たちが、日本で「生産手段の社会化」を実現してゆくとき、どんな問題にぶつかるか、いまから予想することはできませんが、「生産者が主役」という大原則は、「社会化」がどんな形態をとる場合でも、追求する必要がある、そのことを、社会主義へ向かう道のなかで、党がまもるべき注意点として、ここに書いているわけであります。(不破議長の7中総での報告)

 生産手段の「社会化」も一律のものではありません。私的な経営、個人経営が、長く役割を果たし、そのことが尊重される部門も広くあります。綱領改定案が「農漁業、中小商工業など私的な発意(はつい)の尊重」と書いているのは、そのことです。(日本共産党創立81周年記念講演)

 「社会化」の形はいろいろあると思います。協同組合をつくることもあるでしょう。国有化という場合もあるでしょう。その他の新しい形態も生まれてくるでしょう。しかし、どんな場合でも「生産者が主役」です。現実に工場で機械を動かしている働く人たちが主役にならない改革が、社会主義になるはずがありません。つぶれたソ連のように、資本家の代わりに上から官僚が任命されてきて、それが勝手に工場をきり回す、というのでは、名前が変わるだけであります。

 だから私たちは綱領改定案の中でも「生産者が主役」、これが原則だ、「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連」の二の舞いは厳しくしりぞけることを、はっきりさせました。(日本共産党創立81周年記念講演)

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「市場経済を通じて社会主義へ」

 資本主義を離脱して社会主義への道に現実に取り組んでいる国ぐにが、二一世紀に世界のなかでのその比重をいよいよ大きくしてゆくだろうことは、疑いない方向でしょう。改定案の第三章で、これらの国ぐにが「政治上・経済上の未解決の問題を残し」ていることを率直に指摘しましたが、これらの問題も、いつまでも同じ形のままにはとどまらないでしょう。そして、「市場経済を通じて社会主義へ」という新しい取り組みの経験では、日本の今後にとっても研究の価値のある多くの教訓がふくまれるでしょう。私たちは、その足どりを注意して見てゆく必要があります。(不破議長の7中総での報告)

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 市場経済といいますと、何か資本主義と同じものだと思っている方もおいでですけれども、市場経済というのは自由に商品が売買され、市場で競争し合う仕組み、体制のことです。これは資本主義に向かう道筋にもなれば、条件によっては社会主義に向かう道筋にもなりうるのです。

 日本はいま、資本主義的な市場経済が支配している国であります。そこで私たちが将来社会主義への道に踏み出すとしたら、資本主義的市場経済のただなかに、社会主義の部門が生まれることになるでしょう。もちろん、そこには資本主義の部門が残っていますから、社会主義の部門と資本主義の部門が同じ市場の中で競争し合うことになるでしょう。社会主義の部門が能率が悪くて、製品の出来も悪かったら、そういうだめな社会主義は当然、市場で淘汰(とうた)されます。そういう過程をへながら、経済の面でも一段一段、国民の目と経験で確かめながら、社会主義への段階を進む。当然、日本はこういう道筋をたどるでしょう。

 昔、レーニンも、革命後のロシアで同じことをやって、“市場経済での競争で資本主義に勝てる社会主義をつくろうじゃないか”という合言葉をうち出したことがありました。これは実に見事な合言葉だったと思います。(日本共産党創立81周年記念講演)

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 中国やベトナムの場合には、いったん市場経済をしめだしたあとで、市場経済を復活させる方針に転換し、いま「市場経済を通じて社会主義へ」という道に取り組んでいます。しかし、日本の場合には、いま資本主義的市場経済のなかで生活しているわけですから、社会主義に向かってすすむという場合、社会主義的な改革が市場経済のなかでおこなわれるのが、当然の方向となります。市場経済のなかで、社会主義の部門がいろいろな形態で生まれ、その活動も市場経済のなかでおこなわれる、そういう過程がすすむし、その道すじの全体が「市場経済を通じて社会主義へ」という特徴をもつでしょう。

 そこで、どのようにして、計画性と市場経済とを結びつけるのか、農漁業や中小商工業などの発展をどのようにはかってゆくのか、それらは知恵の出しどころですが、そういう点を重視しながら、日本らしい探究をすすめることを、わが党の注意点として書きました。

 なお、「計画経済」を国民の消費生活を規制する「統制経済」に変質させてはならないという点は、「自由と民主主義の宣言」をはじめ、わが党が一貫して重視してきたことです。(不破議長の7中総での報告)

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社会主義、共産主義の二段階論は捨てた

 民主主義革命論はしっかり引き継いだといいましたが、未来社会に関するこの部分は根底から書き換えました。

 これまではまず社会主義という段階があって、それから共産主義にゆく、こういう二段階論が世界でも“定説”になっていましたし、私たちの綱領もその立場をとっていました。これはレーニンがマルクスの文章を解釈して組み立てたものでありまして、九十年近く世界の“定説”となってきたのです。

 私たちが四十二年前にいまの綱領を決めた時には、当面の革命を社会主義革命とみるか、民主主義革命とみるかの論争が中心で、未来社会論というのはほとんど討論の焦点にならず、国際的な“定説”がそのまま受け入れられました。しかし、この間のソ連の崩壊をはじめとする世界の経験に照らし、また私たち自身の理論的な探求に照らして、この未来社会論にはマルクス・エンゲルス本来の精神に反する大きな問題があることも分かりました。ですから今度の綱領改定案を書くにあたっては、マルクスの原点に立ちかえり、それを二十一世紀を迎えた日本と世界の現実と結び付けて全面的な書き換えをおこなったわけであります。

 私たちは未来社会を、ここまでは社会主義、ここから先は共産主義と二つの段階に機械的に分けてとらえる段階論は捨てました。(日本共産党創立81周年記念講演)

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国際的な“定説”

 マルクス「ゴータ綱領批判」の教科書的な“定説”、例の読み方は、どのようにして生まれたか、という問題に進みます。

 結論的に言いますと、理論的な解釈としては、『国家と革命』(一九一七年)でのレーニンの解釈に最大の出発点があります。そして、その後、この二段階発展論がスターリンによってソ連社会の現実と強引に結びつけられ、ソ連社会の変質の過程を「社会主義」あるいは「共産主義」の名で美化する「理論的」な道具だてとして、スターリンの死後も最大限に利用されてきた、というのが、ごくおおまかに見たこの問題の歴史だと、思います。(『前衛』十月号「『ゴータ綱領批判』の読み方」)

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 ソ連が新しい憲法をつくった一九三六年、スターリンが、憲法についての演説のなかで、いきなり、“ソ連はすでに、共産主義の第一段階、すなわち社会主義を実現し、共産主義の高度の段階への移行が、次の新しい目標になった”と宣言したのです。

 この時期は、いまから振り返れば、一九二九年以降の「農業集団化」で、農村がたいへんな目にあわされたすぐあとの時期で、社会の現実としては、経済的な矛盾と国民的な苦難が深刻になっている時期でした。そのただなかで、スターリンが「社会主義は完成した、次は共産主義への前進だ」といいだしたわけです。それは、官僚主義・専制主義に大きくゆがみはじめたソ連社会の実態を、事実に反して美化する議論となりました。

 そして、それ以後、ソ連社会は、マルクスが二段階論で描いた道を着々とすすんでいる、第一段階(社会主義)はすでに卒業し、次の、より高度な段階――共産主義社会そのものをめざしているというのが、ソ連が自分を位置づける決まり文句となりました。スターリン以後も、フルシチョフ時代、ブレジネフ時代など、ソ連社会の到達段階をどう見るかという点であれこれの移り変わりがありました。その全体を通じて、二段階論そのものは、マルクスの理論にソ連の経験が結びついたという形で、“定説”として扱われ続けたのです。

 しかし、崩壊にいたる全過程で、ソ連社会が明らかにしたことは、この社会が、マルクスのいう社会主義社会や共産主義社会とも、またそれへの過渡期とも無縁な人間抑圧の社会であり、二段階論はそれを美化する道具だてとして利用されたにすぎない、ということでした。(不破議長の7中総での結語)

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マルクス、エンゲルスの未来社会論

 マルクスにしても、エンゲルスにしても、未来社会のいろいろなしくみについて、未来はこうなるよという青写真を示すことについては、非常に慎重でした。そういう問題は、その問題に現実にぶつかる世代の人たちが、その状況に応じて解決することで、いまから解決策を書いて、将来の人たちの手をしばるようなことをすべきでない、この態度をつらぬきました。

 分配方式の問題でも、基本は同じでした。たとえば、『資本論』の第一部(一八六七年刊行)、商品論のところで、商品社会と未来の共産主義社会を比較する話が出てきます。その時、マルクスは、二つの社会を対比するために、分配の話をするのですが、その話し方は実に慎重でした。未来社会での分配の仕方は、その社会の特殊な性格や生産者たちの発展段階に応じて変化するものであって、一律には言えないということをまず断り書きをします。その上で、この未来社会は、各人の労働時間に応じて生産物が分配されるという話になるのですが、そのさいにも、これは商品社会との対比のために、一応そういう想定をするにすぎないんだ、ということをまた断り書きをする(『資本論』(1)一三三ページ、新日本新書版)。そういう念の入れ方で、未来社会では、こうなるはずだ、というきめつけ的な言い方は絶対にしないのです。

 エンゲルスにしても、マルクスの死後、ドイツのある活動家から未来社会での分配の問題で、質問を受けたことがあるのです。この手紙にたいして、エンゲルスは、それは、「社会主義社会」の発展とともに変化するものとしてとらえるべきで、何か不変の分配方法を考えるべきではない、と答えました(エンゲルスからシュミットへ 一八九〇年八月五日 全集(37)三七九〜三八〇ページ)。エンゲルスは、マルクスの「ゴータ綱領批判」の内容をよくよく知っているのですが、それにもとづいて、未来社会の分配方式は、この段階ではこうなり、次の段階ではこうなるものだといった回答は、まったくしなかったのです。(不破議長の7中総での報告)

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 マルクス、エンゲルスのこういう基本態度にくらべると、「ゴータ綱領批判」でのマルクスの論じ方は、未来社会の分配問題を、青写真に近いところまで書いているという印象を受けます。実は、マルクスは、この分配論のあと、たいへん大事な注意書きをしているのです。

 要約してみますと、

 ――ここで分配の問題にやや詳しく立ち入ったのは、安易に間違った分配論を党の綱領に持ち込むと、どんなひどい結果になるかを、示すためだった。

 ――未来社会の問題で、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそこに主要な力点をおいたり、未来社会を主として分配を中心とするものであるかのように説明するのは、俗流派のやることで、そんなやり方は、受け継いではならない。

 ――未来社会論の中心問題は、分配ではなく、生産のあり方、生産の体制の変革にある。

……

 マルクスが、分配論について詳しい批判を書いた意味も、マルクスのこの注意書きを読むと、たいへんよくわかります。マルクス流の分配論――未来社会の分配方式の二段階論を綱領に書けなどということは、マルクスは少しも提案していないのです。未来社会を党の綱領で論じるなら、混乱した分配論をふりまわすことはやめて、生産体制の変革をしっかり中心にすえなさい――これが、マルクスの忠告の本旨でした。(不破議長の7中総での報告)

 注意をしておきたいもう一つの大事な問題は、マルクスが「ゴータ綱領批判」のなかのさきほどの注意書きのなかで、未来社会論で大事なことは、生産のあり方だとのべていることです。

 これは、なによりも「生産手段の社会化」のことをさしているのですが、「ゴータ綱領批判」を書いた五年後(一八八〇年)に、マルクスは、フランス労働党の幹部に頼まれて、この党の綱領の前文を書いてやったことがあるのです。それは、「生産者は生産手段を所有する場合にはじめて自由でありうる」という文章に始まり、現代社会では、生産者が集団で生産手段をにぎること、言い換えれば生産者の集団に生産手段を返還させることが、社会変革の目的になるということの解明に、前文のすべてをあてたものでした。そこでは、分配論には、一言もふれていないのです。(不破議長の7中総での報告)

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「ゴータ綱領批判」

 「ゴータ綱領批判」というのは、ドイツの二つの党派が合同して新しい党が生まれた時に、マルクスが助言として書いた文書でした。(不破議長の7中総での報告)

 (「ゴータ綱領批判」の)性格という点でいえば、これは、実は、ドイツの党指導部にたいする内部的な忠告の書でした。そのために、一八七五年に書かれた文章ですが、内容は、マルクス、エンゲルスとドイツの党のごくごく少数の指導者にしか知られず、エンゲルスが一八九一年にこれを公表するまでは、この文書は、ドイツの党内でも、その存在さえ知られないままでした。

 ……

 ドイツの労働運動、社会主義運動では、アイゼナハ派とラサール派という二つの流れがあり、マルクス、エンゲルスは、基本的にはアイゼナハ派を支援しながら、ラサール派とも一定の関係をもつという形で、ドイツの労働運動にずっとかかわってきていたのです。

 ところが、一八七五年、マルクス、エンゲルスにはまったく何の情報も知らせないまま、アイゼナハ派とラサール派の指導部が、両派の合同の交渉をし、三月に、突然、合同大会をゴータで開くと発表して、あわせて合同のための綱領草案を公表したのです。マルクスもエンゲルスも、この突然のニュースには、本当にびっくりします。

 ……

 「ゴータ綱領批判」は、こういう経緯のなかで、アイゼナハ派の党指導部への忠告という目的で書かれた文章です。そのために、マルクスは、ここでは、自分の考えを筋道だてて体系的に展開するという方法をとっていません。綱領草案をその最初の部分から最後の部分まで、一行一行とりあげ、この箇所のこの表現には、こういう間違いが含まれている、この文章は、ここに問題があるといった調子で、気にかかる問題点を順次指摘してゆくという、逐条的な批判の形式をとっています。その指摘には、わずか数行の簡潔なものもあれば、数ページにわたる論文的な部分もありますが、全体として、ほぼ全面的な逐条批判なのです。(『前衛』十月号「『ゴータ綱領批判』の読み方」)

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人間解放の社会

 資本主義社会をはじめ、搾取社会では、生産者である労働者は、その生活時間の大部分を、物質的生産の領域にしばりつけられ、人間的な生活のための自由な時間を持てません。この状態を変革するのが、社会主義革命であり、それによって実現されるのが共産主義社会です。

 共産主義社会では、物質的生産の領域そのものでも、大きな変化が進行します。他人のための労働という搾取労働は消え去り、労働は、人間が自分と自分たちの社会の生活を維持・再生産するための意欲的な活動の分野に変わります。しかし、とマルクスは言います。それでも、この分野は、それがなければ社会が生きてはいけないという意味で、外的な要求に規定された、義務的な分野であることに変わりがありません。

 だから、物質的生産の領域は、共産主義社会においても、依然として「必然性の王国」であって、その彼岸に、より正確にいえば、この「必然性の王国」の土台の上に花開くのが、社会の存続とか再生産とかの義務から解放された「真の自由の王国」なのです。

 社会が発達し、労働時間が短縮されれば、この「自由の王国」はいよいよ大きくなります。この「王国」で、人間は、自由な生活を楽しみ、その力を発達させ、社会全体を科学的・技術的・文化的・精神的に躍進させる条件をつくりだしてゆくのです。その意味では、「真の自由の王国」こそが人間解放の社会であり、人類の「本史」を形づくる共産主義社会の本当の値打ちを発揮する舞台だといってよいでしょう。(『前衛』十月号「『ゴータ綱領批判』の読み方」)


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