|
2005年1月23日(日)「しんぶん赤旗」 インド洋大津波本紙記者がみた二十二万人を超える人々の命を奪ったスマトラ島沖大地震と大津波から約一カ月。被災地では、物心両面での深刻な被害がなお続くなか、復興への取り組みが開始されています。本紙記者が見たインドネシア・ナングロアチェ州とタイのプーケット島などの現状を伝えます。 インドネシア・ムラボ生き残りへ懸命の復興“犠牲者の分がんばる”
【ナングロアチェ州ムラボ=岡崎衆史】震源地から百キロしか離れておらず、人口五万人のうち一万人が死亡する最大級の被害を出したインドネシア・ナングロアチェ州ムラボ。地震・津波発生から三週間余りが過ぎた町では、壊滅的な被害を乗り越えて生き残るための人々のたたかいが始まっていました。 「どう? 新鮮な野菜を買っていかない?」。ムラボのメーンストリート、ガジャマダ通りで野菜の出店を開いているニャウバンさん(33)とニダルワティさん(25)夫婦が笑顔で迎えてくれました。通りには、野菜の出店のほか、たばこ、ペットボトルの水の露店、レストランもあり、自転車やバイク、車にのった人々が頻繁に行き交います。 ニャウバンさんの店の簡素な机の上には、唐辛子やエンドウ豆、ネギなどが並べられ、客もひっきりなしです。 三歳のウリアンちゃんを腕に抱いたニダルワティさんがいいます。 「一月九日から店を再開しました。津波が来たとき、私たちはたまたま高い場所にいて助かったけど、多くの友人が犠牲になりました。その分もがんばらなくちゃと思っています」
道路や橋が破壊され孤立していた町では、道路の修復が進んでいます。メダンからの陸の物資輸送も十四時間以上かかるものの再開し、人々の生活はわずかながらも改善されつつあります。 もちろん、店を再開できる人は幸運な方で、多くの人々は避難所生活を強いられています。働いていた食料品店が全壊したサウディンさん(45)は、もとの店の前でぼうぜんとたたずんでいました。「妻も息子も死んでしまった。どうしていいか分からない」 「ムラボ住民のほとんどは、家族や親せき、友人、知人を失い、自ら負傷している人も少なくありません。行方不明者も多いし、約八千人が避難所で生活しています」。インドネシアの非政府組織(NGO)の先遣隊としてムラボ入りしたインドラさん(33)がため息まじりに話しました。 足りない医師病院に1日400人町は、道路自体は車も走れるものの、その両脇には、一階部分が崩れ落ちたり、骨組みだけになった家や、港から数キロ流されてきた船や木材などが放置されています。かろうじて破壊を免れた家も、中に入ると吐き気をもよおす腐敗臭に襲われ、まともに住める状況にないものが多数あります。住民やNGOのメンバー、インドネシア国軍の兵士が、後片付けや遺体の収容のため全力を尽くしていますが、いまだに行方不明者も多く、回収されない遺体も残されています。 ムラボで唯一のチュニャディン病院では、津波前一日最大八十人程度だった訪問患者が、津波後一日五百人まで増えました。現在では少し減ったものの、約四百人が訪れるといいます。十三人いた医師は、二人が死亡、また遠くに避難したりしており、現在は五人です。看護師は、津波前は百二十人でしたが、いま二十人で対処しています。「人手が足りなすぎる」とハリス院長が訴えました。 診察を待つナルジュさん(50)は、娘のヌルルちゃん(3っ)を連れています。もう二時間半も待っているといいます。「この子がかぜをひいて…」と心配そうです。 右手にせきどめ薬を持った女児がいました。 母親のサワダさん(33)は「町ががれきとなり、ほこりや燃やしたときの煙で、子どもの呼吸器官が影響を受けています。この子は、津波を思い出し泣くこともあります」と顔を曇らせました。 感染症が心配日本赤十字緊急対応ユニット医療チームのチームリーダーとして現地入りしている宮田昭医師は、「生き残ってよかったという段階から、家族や家屋をなくした人たちが、通常の生活に戻るための段階にきている。雨期なので、なんらかのきっかけで、感染症がまん延するのが心配だ」と述べました。 (ナングロアチェ州ムラボ=岡崎衆史) タイ家、漁船、漁網 流され仕事なく南部・パンガー県
【プーケット(タイ)=鈴木勝比古】インド洋大津波に襲われたタイ南部の海岸。「津波がこんなに怖いものだとは全然、知らなかった」―人々が恐怖を語りました。 プーケット島は、日本の淡路島とほぼ同じ面積。西海岸のスリン、カマラ、パトンの各ビーチやプーケットから半島部を結ぶサラシン橋を渡って北ヘ百二十キロのパンガー県カオラック。ここでは日本人を含む外国人観光客が一瞬のうちに波にのまれました。各国の家族が消息を求める掲示板を出しています。 避難所に850家族津波被害はタイ南部六県に及んでいます。二十一日付のプーケット県庁からタイ内務省への報告によると、これまでに判明した死亡者は五千三百七十三人です。死者の内訳はタイ人千七百七十九人、外国人千七百八十九人、タイ人か外国人か判別不明の遺体が千八百五人。行方不明者は三千百四十一人(タイ人二千百三十一人、外国人千十人)。 またタイの被災家族は一万二千六十八家族、五万四千七百六十二人です。家屋の全壊が三千六百五戸、半壊が三千百九十四戸。漁船が四千三百四十八隻、観光用の船五百五十四隻が破壊されました。漁網や魚をとるしかけ、エビなどの養殖場も消失しました。被害金額の総額は百七十四億三千八百万バーツ(約四百七十三億六千万円)にのぼります。 もっとも被害が大きかった村の一つ、ナムケン村はカオラック海岸から西へ十キロ。約六千人の村民のほとんどが漁師とその家族です。死者、行方不明者は村民の半数にのぼります。村の集落の大半が消滅していました。 漁師のユタカイさん(29)は長男のサラウットちゃん(6っ)を船に乗せて漁をしていました。波にのまれて四―五時間、海に漂っていたところを他の船に父子ともに助けられました。家に残っていた妻のナリサラーさん(21)は二男のユタカーンちゃん(2っ)とともに波にさらわれました。「息子の手をしっかり握っていたのに、波にたたきつけられて手が離れてしまいました」―ナリサラーさんは悔し涙をにじませました。彼女の母親、カムサイさん(51)も亡くなりました。 津波から約一カ月。家を失った人々は避難民センターでのテント生活です。最大の避難所、パンガー県バンムオン村の避難所では八百五十五家族、三千四百五十人が生活していました。日本で登山用に使うような小さなテントに五人、六人の家族が寝泊まりしています。 仮設住宅は130戸社会発展・人間安全保障局から派遣されたピラカーンさん(26)がいいます。「第一に食べ物、衣服の提供から始めました。第二は住居の提供です。第三に職業訓練です。職業訓練では各国の援助を期待します」 ナムケン村で軍隊が突貫作業で建設した仮設住宅百三十戸が完成しました。 入居者を決める抽選会に村人が詰め掛けていました。「当選した人は明日から入居できます」―ナムケン村のサティエン村長が述べました。 |





学習・党活動版編集部の紹介ビデオ

