2005年1月18日(火)「しんぶん赤旗」

いま困っている人のため

阪神・淡路大震災10年

神戸・灘区 生健会会長 萩野一雄さん

孫に誓う新たな生きがい


 「天国で元気にやっとるかいな。幸せにな」。孫の武史ちゃん(当時二歳一カ月)を亡くした萩野一雄さん(63)=灘区=が、冷たい雨に打たれながら手を合わせ、語りかけました。十七日午前五時四十六分。神戸市灘区上河原通の一角、フェンスに囲まれた更地。阪神・淡路大震災で倒壊した木造アパートの跡地です。武史ちゃんはここで亡くなりました。喜田光洋記者


写真
木造アパートの跡地前で、犠牲になった孫らのために花を供える荻野一雄さん(手前)や、親族、近所の人たち=17日午前5時46分、神戸市灘区

 十年前のあの日、萩野さんの娘、由美さん(36)夫妻が住んでいた部屋で、落ちてきた整理ダンスが武史ちゃんの体に当たりました。最初は泣いていましたが、だんだん声が小さくなっていきました。

 当時宝塚市に住んでいた萩野さんがかけつけたときには、武史ちゃんは遺体となって病院のテーブルに横たわっていました。

“どうでもええ”

 武史ちゃんは萩野さんのことが好きで、いつも「じいちゃん、じいちゃん」と駆け寄ってきていました。八人いる孫のなかで、萩野さんに一番なついていました。「死んだ子の年を数えたらいかんが、いま生きていたら小学六年生。人に迷惑をかけたこともない、こんな小さいもんがなんで死なないかんのか」。「できるもんなら代わってやりたかった」と何度もくり返します。

 由美さんも当時、「なんで私もいっしょにいかんかったんやろう」と自分を責め続けたといいます。

 萩野さんは、宝塚市内にある金属加工の中小企業の社長でした。武史ちゃんの死に直面しながらも、震災直後、必死に陣頭指揮を取り、混乱を乗り切ります。しかし、一段落した二月の中ごろから五月ごろまで、「気が抜けて、武史のことを思い落ちこんでいった」といいます。「もうどうでもええわ」と。「でも、一番つらかったのは娘です。『お父さんの子じゃないでしょ』といわれたのはこたえました」

人の役に立とう

 長年の民主商工会会員。「それにしても、震災から復旧できていない。特に暮らしは。神戸空港をつくるんやったら、被災者に金を使うべきや」と、怒りは強い。

 不況の影響で昨年二月に倒産。しかし、めげてはいません。古くからつきあいのある日本共産党の島田鎮郎前県議(元・灘民商事務局長)から、灘区の生活と健康を守る会の会長に推薦され、悩みましたが、「いまの社会は、弱者への思いやりがなさすぎる。人の役に立つのが大事かな」と八月に就任。新たな生きがいをみいだしています。

 「じいちゃんもそのうちいくけど、いまは困っている人のためにがんばるよ」と、心の中で武史ちゃんに語りかけました。



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