2005年1月16日(日)「しんぶん赤旗」 阪神・淡路大震災10年たたかいが政治動かすほんとうの復興を求めて借金、孤独死…いまなお戦後最大の災害であり、未曽有の都市直下型地震、阪神・淡路大震災から丸十年。被災地の街なみはすっかりきれいになり、兵庫県は、「復興は着実に進んできた」といいます。しかし被災地の実態は、震災で余儀なくされた借金の返済の困難さや止まらない孤独死にみられるように、多くの被災者がいまも立ち直れず、震災による重荷を引きずったままです。依然としてさら地も多く残っています。被災者に個人補償がおこなわれなかったこととともに、国・自治体がすすめてきた復興政策がもたらした結果にほかなりません。十年間の復興政策と、被災者本位の復興めざす流れを検証します。 復興事業費、6割は大開発
この十年間に投じられた国・自治体の復興事業費十六兆三千億円のうち六割、約十兆円もの巨費が、「多核・ネットワーク型都市圏の形成」という大型開発事業群に注ぎこまれていたことが、昨年末の兵庫県の発表で明らかになりました。 これは、神戸空港建設、新都市づくり、高速道路網建設、巨大再開発事業などからなり、関空二期工事への出資金まで入っています。ゼネコン型の大型開発を中心にすえたことが、国・自治体の復興政策の最大の特徴です。 震災直後に設置され、復興の方針を決める国の復興委員会は、「復興は単にもとの姿にもどることではありません」(同委員会報告)とし、兵庫県は「単に震災前の状態に回復するだけではなく、二十一世紀の成熟社会を開く『創造的復興』」をスローガンに。こうした論法で、震災を絶好のチャンスとして大型開発を推進しました。 神戸市の当時の助役は震災直後のテレビ番組で、神戸空港など開発計画をもりこんだ震災前の市のマスタープラン(総合基本計画)にふれ、「このマスタープランを実行するのが震災復興。タイトルを書き換えて、今日からでも明日からでも実行する」と発言。「幸か不幸かこういうことになりましたので」と、震災を歓迎するかのような発言までしました。 大企業優遇も明りょうです。県や神戸市がすすめた「東部新都心」づくりの事業では、神戸製鋼所や川崎製鉄のぼう大な遊休地を住宅や商業用地として高く買い上げ、神鋼は三百億円弱、川鉄は二百十八億円もの売却益を得ました。 地域コミュニティー壊す
地域のコミュニティーを壊し、被災者を元の街に戻さないという方針が貫かれたことも復興政策の特徴です。 貝原俊民前知事は、二〇〇二年十月のインタビューで、この点を明確にのべています。 「住民の言うように、前のとおりにつくっていって、それで事足りるのかと言われたら、これはまた問題なんですね」「だから、長田なんか、人口が戻らないというような声が切実にあるわけですけれども、それでは、本当に元の状態に戻していいのかということです。…高齢者の集団を長田につくって、一体どうするのか」(『阪神・淡路大震災復興誌第七巻』所収) 仮設住宅は、神戸市分の約八割(戸数比)が郊外や埋め立て地など被災市街地外につくられ、災害復興公営住宅は全県分の44%(同)が被災市街地外に建てられました。コミュニティーを破壊して被災者を不便な遠方に追いやり、孤独死の温床となりました。 震災前と同じ場所に住み続けている人は、神戸市内で51%(『平成十五年度 復興の総括・検証』)、西宮市内、芦屋市内ともに37%(『街の復興カルテ二〇〇三年度版』)にすぎません。日本共産党神戸市議団の十周年調査でも、震災前と同じ行政区の復興公営住宅に住んでいる被災者は約四割にとどまっています。 「棄民政策」―― 自力再建押しつけ
「棄民政策」――阪神・淡路で生まれた用語です。国や県、神戸市などは徹底して「棄民」の立場でした。 震災当時の村山内閣は、「私有財産制のもとでは認められない。生活再建は自助努力で」と個人補償を拒否し、自力再建を押しつけたのはその典型です。そのため、被災者はいまも苦闘を強いられています。 仮設住宅と復興公営住宅で孤独死が通算五百六十人にのぼります。孤立した病気や高齢の被災者が集められ、孤独死が多発する危険性が明白なのに、行政はまともな対策を怠ってきました。 県は、「復興十年総括検証・提言報告」で、生活援助員の配置など「見守り」体制を「先導的な取り組み」などと自画自賛していますが、抜本的充実こそ求められています。 行政の非人間的な対応も問題になってきました。神戸市内の仮設住宅で九七年八月、真夏にもかかわらず料金滞納で市に水道を止められた女性(53)が、衰弱死する事件が起きました。 今月十三日には、西宮市の復興県営住宅で、男性(63)の白骨化した遺体が昨年十一月に見つかっていたことが判明しましたが、亡くなってから一年八カ月たっていました。報道では、男性は家賃を滞納していて支払いを督促され、「自主退去したいが転居先が見つからない」と話していたといいます。
公的支援へ署名、「住民投票」運動
この十年間は、住民本位の復興をめざす世論と運動が政治を動かし、被災者支援策を一歩一歩前進させてきた十年でもありました。 被災地の諸団体が集まる阪神・淡路大震災救援復興兵庫県民会議と日本共産党はその先頭に立ち、震災直後から、住宅など失われた生活基盤回復の要となる個人補償の実現をはじめ、被災者の切実な願い実現に奮闘してきました。 県民会議は、「住宅・店舗再建に五百万円、生活支援に三百五十万円の公的支援」を求め百万筆を超えた署名運動、九六年の二度にわたる一万人集会、約八十七万人が投票した九七年の公的支援実現「住民投票」運動(八十五万人以上が公的支援賛成)、たび重なる政府・国会要請、返済に困る災害援護資金問題の相談会など、大きな運動をくり広げてきました。 多くの成果実現日本共産党は、震災後ただちに全国から救援にかけつけるとともに、被災地でも国会でも個人補償実現などに全力をあげてきました。 震災直後の一月二十五日に参院で、同二十六日には衆院で真っ先に個人補償を要求。二月九日には不破哲三委員長(当時)と志位和夫書記局長(同)が被災地入りし、十日に復興対策を提言しました。九六年と〇一年に、生活と住宅再建にそれぞれ最高五百万円支給の法案大綱を発表し(〇一年の法案は事業所再建も対象)、〇一年六月には参院に法案を提出。他党議員との共同にも努力しました。九七年には、作家の小田実氏らの運動とも連携して、日本共産党を含む参院六会派三十九議員が超党派で全壊五百万円などの支援法案を提出しました。 こうした奮闘で、九八年に被災者生活再建支援法が成立し、昨年三月には同法の改正で、住宅再建の周辺経費に助成する制度が発足。最高三百万円が支給されるようになりました。 ほかにも、ガレキ処理の公費負担、復興公営住宅の戸数増、公営・民間賃貸住宅の家賃補助、災害援護資金の少額返済など返済緩和、被災者自立支援金の支給など多くの成果を実現しました。
“家は捨てる。救援に専念しよう”ヒゲ先生 筒井県議がんばる苦難あるところ、共産党あり
“人間復興”――。自ら被災しながら、被災者の支援活動に身を投じた日本共産党兵庫県議の筒井基二さん(74)が、追求し続けてきたテーマです。筒井さんは、「国民の苦難あるところ日本共産党あり」の精神を体現し、被災地の党の象徴ともいえる人です。 震災で自宅が全壊。ガレキに埋もれた妻と義母を引っ張りだしたあと、すぐ外へ飛びだし、生き埋めになった三人を救出しました。義母と妻を避難させ、壊れた自宅を振り返ったとき、「家は捨てる。日本共産党の議員として、救援活動に専念しよう」と誓いました。 議場圧する追及筒井さんは、東灘区内の避難所を泊まり歩いて、被災者の要求をじかにつかみ、すぐ対応する活動を続けました。公園で避難生活をしていた依田久恵さん(55)は、「筒井さんが炊き出しに来てくれたときのことは忘れられません。あのおにぎりのおいしかったこと。ご自分も大変なのに、なかなかできませんよ」と振り返ります。 「私はすべての被災者の最後に仮設住宅に入居させてもらう。知事、私に仮設住宅を与えていただけるのか」。気迫のこもった筒井さんの追及に、本会議場は静まりかえりました。一月二十九日に開かれた臨時県議会での筒井さんの質問はマスコミからも注目を集め、その後知事は、希望者全員に仮設住宅を提供すると発表しました。 二月には、小雪の舞う小学校(避難所)でテレビに生出演。配られている冷たいおにぎり弁当をしめし、「これで栄養が保てると思うか」「国が個人補償をせよ」と小里貞利地震担当大臣(当時)に迫りました。テレビを見た人から「共産党が個人の財産を守ってくれるとは知らなかった。見直した」と電話があるなど反響をよび、翌月、避難所の給食費は一日八百五十円から千二百円へ引き上げられました。 髪もひげも伸ばし放題で走り回る筒井さんを、住民は「ひげの先生」と呼ぶようになりました。 個人補償を求め九五年十月、仮設住宅で孤独死を目の当たりにしました。栄養失調で男性が亡くなっていたのです。「食べかけのカップラーメンとほとんどカラの貯金通帳を見たとき、なんという冷たい政治かと、悔しさと怒りで言葉が出なかった」と声をつまらせます。 「被災者を救うには、どうしても個人補償が必要」と痛感。党県議団長として、「震災復興」の名で大型開発を推進する県と対峙(たいじ)してきました。 期待と信頼高め「一番大変なときに助けてくれたんは共産党だけや」「頼むで」―献身的な活動が住民の期待と信頼を高め、震災の年の県議選で、初のトップ当選。九九年の選挙もダントツの一位でした。 筒井さんは、「復興施策は『ゼネコン型』一辺倒で、被災者は立ち直れないまま…。十年で支援策を打ち切るのは許せない」と語気を強めます。 十年目の一月十七日を、かつてテント村があった東灘区の公園で迎えます。「十年で街はきれいになりましたが、被災者の苦しみはまだまだ続いています。震災で生かされた命が本当に報われる“人間の復興”を実現する日まで、被災者とともに歩み続けたい」 |