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2005年1月10日(月)「しんぶん赤旗」 家族も家も 貧しい漁村「壊滅」恐怖語る人々ゆっくり大波、浜に近づくと急に…スリランカ東海岸被害避難所の少女 「新学期なのに教科書もない」
昨年十二月二十六日のスマトラ島沖地震による津波の被害は、スリランカでは、東海岸と南海岸で特に甚大です。東海岸の玄関口トリンコマリーを訪ねました。(トリンコマリー〈スリランカ東部州〉=北原俊文 写真も) コロンボから北東へ二百五十七キロ、セイロン島を一気に斜めに横断すると東部州最北端のトリンコマリー行政区です。そこから南へ約十キロ、フェリーを渡った先のキンニヤ地区の漁村は、自然の良港を恵むコディヤル湾の一番奥にあります。 この漁村だけで、四百人余が亡くなりました。行方不明者もかなりの数に達するといいます。トリンコマリー行政区全体の死者は九百五十七人(五日現在)ですから、その四割強がこの漁村に集中していたことになります。 波打ち際の道路はさらわれ、そこから百メートルほどの建物はみな全・半壊。被害の軽微な建物も住めないものとなり、生活基盤が失われた人々は村から離れた避難所で暮らしています。 4、5分で「私の家はここにあった」といって、がれきの上に立つオベールさん(44)。「妻も死んだ、三人の息子も死んだ。家も、舟もなくした。これから、どうすればいいのか」と頭を抱えました。 漁民相手に小さな大衆食堂を経営していたというブタリさん(38)は、「私の店の跡も見てくれ」と、先に立ちました。彼の家族も、両親、妹、三人の子どもが死亡したといいます。 「わずか四、五分の間だったんだ。その間に、家族も、家も、店も、舟もなくした」と、店の跡に立ったブタリさんは怒りを吐き出すように語りました。 「沖から大きな波がゆっくりやってきて、浜に近づくとみるみる盛り上がり、浜にたたきつけてきた。高さ十メートルはあったと思う。それが引いたと思ったら、もう一波、大きいのがやってきた。おとなには、逃げおおせた人もいたが、子どもは力がなくて、どんどんさらわれていった」 彼は続けました。 「この漁村の住民は、ほとんどが貧しいムスリム(イスラム教徒)で、一日の漁でその日を暮らしてきた。貧しい者ほどつらい目をみる」 トリンコマリーの町から北へ十数キロのニラベリ・ビーチは当時、日曜日とあって、サーフィンなどマリンスポーツを楽しむレジャー客でいっぱいでした。そこを津波が襲いました。 半壊したニラベリ・ビーチ・ホテルは、周囲のレンガ塀がはがれ、金網で覆われていました。敷地内は、まるで大きなくま手で引っかき回されたようなありさまです。 同ホテルの警備員が語りました。 「あの日、約二百人の客があり、一瞬の津波でインド人一人とスリランカ人十人が死亡した。このありさまだから、当分は閉鎖です」 トリンコマリーの町の北に隣接するバック湾では、多くの漁民が舟を失いました。住居のすぐ裏の浜には、折れたり、割れたりした舟の残がいが散乱しています。 日曜日で家にいて津波に遭ったダルシュクさん(18)は、身振り手振りでその恐怖を語りました。 「沖から大きな波がゆっくりやってきて、浜に近づくと急に盛り上がって…」 「壊滅」に近い、キンニヤ地区の漁村で聞いたのと同じでした。 シート張りトリンコマリーの町からニラベリ・ビーチへの道筋には、大小の避難所が点々とあります。 その一つ、海軍の検問所を折れて海岸に向かうと、ある村の寺の境内にシートを張って、シートを敷いて住んでいる一団がいました。近くの漁村で被災して以後、こうした不自由な暮らしをしています。 弟と妹をなくしたというサヌジャさん(11)は、「十日から新学期が始まるのに、教科書もノートもありません。カバンもほしい」とはにかみました。 十分とはいえないまでも、外国の援助も受け、避難所での援助活動が始まっています。トリンコマリーの町の丘の上にあるアベイプラ寺でも、被災者たちに衣服が支給されていました。 |






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