2005年1月4日(火)「しんぶん赤旗」

あすをひらく人たち

沖縄のおばあを誇りにして

辺野古を守ることは、戦争を止めること

米軍海上基地建設に反対する 富田晋さん


 東京出身の富田晋さん。二十歳。「いまじゃ、頼もしい船長」と信頼され、沖縄県名護市辺野古の海上で、船を操り、抗議行動をしています。海上基地建設反対の座り込みに携わって二年半がたちました。高校を辞め、仕事も身につかず、周りが見えなくなった十六歳の秋。「すがる思いで沖縄に来た」富田さんが沖縄でつかんだものは―。本吉真希記者

 初めて目にした沖縄。「米軍基地の大きさにびっくりした。沖縄のことを知らなさすぎた」。それが最初の印象でした。「こんな基地を知らずにきたことが沖縄の人に申し訳ない」と。

 移り住んで半年後。リサイクルショップ「ジュゴンの家」で店長をしていたとき、知人に誘われ、ジュゴンの目視調査に行きました。ジュゴンに初めて会いました。親子のような三頭のジュゴン。「見てしまった。守らないかんだろう」。そう思いました。「何かしなきゃいけない」と気持ちが動きました。

 自分一人で名護市瀬嵩の浜辺に「ジュゴンの海の家」を立ち上げました。ジュゴンの形をしたテントでした。そこで浜の掃除を始めました。浜辺に来る住民に話を聞きました。辺野古への新基地建設賛成派、反対派。さまざまでした。

 「『賛成』という人たちも心根では反対の思いです。生活のため、賛成せざるを得なくなった人たちが多くいます」

 沖縄の現実を知りました。辺野古に毎日通う日々が始まりました。

 辺野古では米軍基地建設問題が持ち上がって以来、おじい、おばあの座り込みによる抗議行動が続いていました。その中心をなす「ヘリポート建設阻止協議会」(命を守る会)に出合いました。

 座り込みを続けるおばあが富田さんにいいました。「晋、森って何か知っているか?」―。大地に根を張り生きる木。その木を一本でも残せたら、やがて木が増え、森にかえる可能性がある。「辺野古にガジュマルのきぃのように根を張っている」と語るおばあ。辺野古で生まれ、辺野古とともに生きてきました。「種一つでも木一本でも残せたら基地建設はわったーたー(私たち)の勝ちさあ」

 このときです。「自分も種や木一本になれたら…」。おばあといっしょに生きることを決めました。

 二〇〇三年四月八日。那覇防衛施設局など大勢が早朝から作業のための調査に来ました。知らせの電話に目を覚ました富田さんは、寝間着のままバイクをすっ飛ばし、辺野古へと向かいました。そこには、施設局職員に突き返されても、立ち向かう「命を守る会」の代表、金城祐治さんの姿がありました。

 「もし自分独りだったら…」と不安もよぎりました。が、「一人でもここに立っている人がいれば、状況が変えられるかもしれない」。確信がわいてきました。

 おばあはいいます。「あの子は辺野古を支えている。晋ちゃんは、くがに孫(宝石のような大事な孫)。ここになくてはならない子です。二年前、初めて来たときよりも、ずっとずっとおとなになって頼もしくなったさあ」

 辺野古で多くの人と出会いました。

 辺野古の浜と米軍のキャンプ・シュワブの境はカミソリの付いたフェンスで大きく隔てられています。そのフェンスに向かって、涙を流して怒るフィリピンやパレスチナの人々とも会いました。「彼らは戦争で家族や友人を殺されています。本気でフェンスをなくそうという思いが伝わってきた」と語ります。

 「誇りを持って生きる」。辺野古での出会いが教えてくれたことです。

 日焼けした顔に運動への信念がうかがえます。「基地建設を否定することは、日本政府のイラク派兵をやめさせることでもあるし、戦争を止める方向に向かっていくことでもあると思う」

 いま、基地建設反対の運動は辺野古から全国に。美ら海(ちゅらうみ)にはやぐらが立ち、鉄筋が突き出ています。「嫌です。許せないです」。富田さんの確信は、「この国に勝つ確信」へと向かっています。

 米軍新基地建設 辺野古沖に長さ二千五百メートル、幅七百メートルの最新鋭の米軍基地をつくるために、昨年四月、反対住民の声を押し切って那覇防衛施設局のボーリング(掘削)調査が始まりました。



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