2004年11月28日(日)「しんぶん赤旗」
標高一二〇メートルから四一七メートルの山あいに棚田が散在する新潟県魚沼市の水沢新田(旧広神村)。豪雪がもたらす雪解け水が魚沼コシヒカリをはぐくんできました。中越地震で山のあちこちの斜面が滑り落ち、田んぼや道路は、稲光の影がついたように切り裂かれ、「天保、安政のころから貧しい百姓たちが血のにじむ思いでこさえてきた」棚田が危機にひんしています。
石渡博明記者
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「オラ死ぬまで田っぽ(田んぼ)やりてえ」。今井慶一さん(69)は、液状化でドロが噴き上げている田んぼを見つめていいました。
一カ月余り前の十月二十三日午後五時五十六分。一時帰省した三人の娘に囲まれ、幸せなひと時を過ごしていた今井さん一家に激しい揺れが襲いかかりました。
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水沢新田を流れる二本の渓流沿いには、一メートルから二メートルの間隔で水沢高原に向かって棚田が積み上げられています。田んぼや畑が周りの山々と調和して、四季折々に豊かな表情をかもし出す、見慣れた風景が一夜で一変したのです。
「山も田っぽも道もみんなひびいってしまった。雪解けでいっぺえの水を含んだら棚田が壊れちまう。来年の作付けできるようひび埋めたいだども軽トラもとおれねえ。個人の力では無理だ」
水沢新田の農民は、山にへばりつくような小さな平地を見つけては、コツコツと棚田や畑を開墾してきました。春の地滑りが、八人の命を奪い、十五棟を埋没させたこともありました(一九六九年四月二十六日)。「そんなこともあっだがでる気にならなかった。八海山や駒ケ岳がよく見える。ほ場整備の補助金ももらわず開墾して、出稼ぎして金ためて、やっと百俵とれるようになっだ。移りだくねえ」
今井秀雄さん(58)は八〇年に二度目の地滑りに遭い、部落を出ざるをえませんでした。ゼネコンの下請け会社での出稼ぎは、毎年三百日を超えました。二年前に退職。水沢新田に残された二反の田んぼが生きがいです。
「山のベト(泥)がこのまま破間川、魚野川に注げば、下流の人たちが大変だ。農地の復旧は百姓のためだけじゃない」
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今井姓が九割の水沢新田の世帯数は三十戸。耕地面積は二十一・六ヘクタール。中越地震による耕地面積の被害は十七・三ヘクタール、被害総額は、田んぼだけで三億四千万円以上と推定されています。地震発生から一カ月を過ぎても、地滑りの危険から避難勧告は解除されず、約三分の一の世帯が十二月五日から仮設住宅に入ることになりました。
山一つ越えれば、全村民が避難した山古志村。五百間(約九百メートル)の長さのトンネルを山古志村と水沢新田の双方からツルハシで掘り進めた中山隧道があります。
今井春吉さん(76)もトンネルを掘りました。「十五の春におやじが逝って、生きるため死に物狂いで働いた」。いま、妻とあわせて年間九十万円の年金と五反十二畝の田んぼが生活の糧です。
「年金だけでは、バアと二人で暮らせねえ。電気料も月七千円、交際費もごうぎだ。親が残した田っぽがあれば生きていく気力があるんだども、それがだめになっだらペシャンコだ。百姓がやっていけなくなったら国は終わりじゃ」
日本共産党の覚張よしひろ魚沼市議(旧広神村議)は、地震発生直後から何度も、水沢新田の農家に足を運んできました。「春の作付けに間に合うように一刻も早く農地、農道の復旧を」という切実な願いをうけとめ、行政に反映させる努力を続けています。広神災害対策本部に申し入れた翌日、県道の復旧工事が始まることもありました。
小林春吉さん(81)は、覚張市議の姿を見かけ、不自由な足をひきずってかけよってきました。
先日、区の説明会では、農地、農道の復旧は、激甚災害に指定されても数%の負担があるという説明だったといいます。
「棚田は山の水を保水し、国土を保全する役割を果たしています。国土が動いたんだから、特別立法で農地、農道の復旧は、すべて公費でまかなうべきです。数%といってもみなさんにとっては大きな負担でしょ。来年の作付けを無事できるように大きな声をあげましょう」
覚張市議の励ましに小林さんは、しわだらけの顔にうっすら涙をにじませていました。
「急いで治してくれるなら金はいくらががっでもいい。ガキのころ、“大旦那様”に三年半奉公して、必死で稲づくり覚えだ。人に負げだぐながっだ。ブルドーザーも自分で入れ、山のてっぺんに田っぽつくり、ため池も農道も整備して一町耕すようになっだんです。それがみんなぐしゃぐしゃだ…。みなさんの党の力で助けてください」