2004年11月27日(土)「しんぶん赤旗」
「コイが死んだ時は言葉もなかった。色や模様だけじゃなく、顔も体形も違う。私にとっては人と同じです」。新潟県中越地震で全住民が避難を続けている山古志村。同村虫亀地区でニシキゴイ数万匹を飼う田中忠雄さん(54)が語ります。全村避難後、いま長岡市内で家族十二人が避難生活を続けています。
渡辺浩己記者
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同村はニシキゴイ発祥の地といわれ、養鯉(ようり)業は村の代表的産業。約百八十戸が従事します。棚田を利用した野池を泳ぎ回るコイの姿は村の風物詩で、ヨーロッパ、アメリカ、中国にも出荷される“輸出産業”でもあります。
十月二十三日の震度6強の地震は村の姿を一変させました。
田中さんはこの日、ドイツから訪れていた業者と越冬池(ハウスなどのなかに造られたコンクリート製の池)で商談の最中。コイを網ですくいあげた瞬間でした。
「ドーンときてね、みんな池に落ちました。津波のようになって水が襲ってくるんですから…」。池の中の水も何度も揺すられ、半分近い量が池の外に飛び出しました。
この時期は販売やコイの品評会などのため、六十ある野池から越冬池にコイを移し変えます。コイを集めたことが被害を大きくしました。
野池は堤の決壊や、亀裂などで水が抜けました。コンクリート製も同じでした。自宅も玄関に入れないほどめちゃめちゃになりました。地震後の全村避難。停電でも装置を動かしてコイに酸素供給を続けるため、車のバッテリーを電源にして村を離れましたが、生きたのは数日間でした。三十センチほどの二十六匹が生き残っただけでした。
コイだけで数千万円の被害を受けたという田中さん。大量の土砂で芋(いも)川がせき止められ、水没した家も出た山古志村。今なお帰村のめどはたっていません。
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養鯉業者は新潟県全体で約六百三十戸。山古志村についで百四十六戸と業者数の多い小千谷市の被害も大きい。
同市大崩地区にすむ大淵英明さん(60)もその一人。越冬用いけすなどの施設は無事でコイも九割近くを救い出したものの、百枚近くある野池のほとんどが亀裂や決壊でだめになりました。
「一枚の池を直すのに数十万円かかる。池の修築費用だけで数千万円だね」と語ります。
県によると、死んだコイは百三十万匹。施設被害も含めると、被害総額は推定六十五億円。
田中さんは被災後、息子からこういわれました。
「父さん、家を山古志に建て直さねばならんね」。村での生活を続けたいという思いです。しかし、妻は「コイを続けてもいいけど、長岡に住もうね」。地震の怖さが忘れられません。
三十年以上、養鯉を続けてきた田中さんはいいます。
「山古志の業者は続けるか、やめるかせっぱつまった状況だ。毎日のくらしも大変だ。でもコイは飼える場所さえあれば続けられる」。コイとともに生きる気持ちだけは変わりません。
「泳ぐ宝石」とたとえられるニシキゴイ。被災者はくらしとともに伝統産業を支える支援を求めています。