日本共産党

2004年9月18日(土)「しんぶん赤旗」

「満州事変」73年

戦争犠牲者は今も出ている


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 一九三一(昭和六)年九月十八日、日本は中国東北部で侵略戦争(「満州事変」)を始めました。以後、三七年には中国全面侵略戦争、四一年からは太平洋戦争へと侵略戦争を拡大し、一九四五年八月の敗戦に至りました。

 一九三一年九月十八日は、十五年におよぶアジア太平洋戦争の開始日であり、歴史の大きな転換点でした。それは、今日にどうつながっているでしょうか。

謀略で侵略開始

 「満州事変」の発端は、中国東北部に駐留していた日本の陸軍部隊=関東軍が、瀋陽(当時は奉天)郊外の柳条湖付近で南満州鉄道(満鉄)の線路を自分で爆破しながら、「中国軍の仕業だ」と言って攻撃を始めたことです(柳条湖事件)。

 謀略で始めた侵略戦争であることを百も承知しながら、天皇制政府は、日本の権益を守る自衛の戦いだと強弁。当時の「二大政党」も「正当防衛の挙」(民政党)、「自衛権の発動」(政友会)と言い、メディアも、「守れ満蒙―帝国の生命線」(大阪毎日新聞)と全面的に追随し、中国への敵意をあおって、国民を戦争に駆り立てました。

 これにたいして、日本共産党は、侵略開始の翌日に声明を発表し、「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ!」と訴え、「赤旗」でも、侵略戦争の実態を明らかにして、反戦をよびかけました。

日本の権益叫ぶ

 「守れ満蒙・帝国の生命線」という言葉は、当時の流行語・合言葉にもなりました。「守れ」と叫ぶ「日本の権益」で、最大のものは、満鉄です。日露戦争の結果、日本がロシアから獲得したものですが、ただの鉄道会社ではありません。大連―長春間、奉天―安東間など約千二百キロメートルの鉄道と、線路の両側約六十メートル(場所により多少広狭あり)といくつかの市街地を「満鉄付属地」とし、行政権を行使していました。それを守るためとして、軍隊を配置していました。これを、現在の日本にあてはめて考えるなら、新幹線の東京―博多間(千百七十五キロメートル)が、外国の植民地になってしまうようなものです。

 こうした状況に中国の人たちが反発するのは当然でしたが、それを徹底的に抑圧し、中国東北部全体の植民地化を狙ったのが「満州事変」でした。

毒ガス弾70万発

 日本は、戦後、憲法に戦争放棄・戦力不保持を明記して再出発しました。しかし、歴代の自民党内閣は、侵略戦争にたいする根本的反省を欠き、都合の悪いことは隠す態度をとってきました。

 たとえば、旧日本軍は、中国で毒ガスを使い、敗戦にともなって大量の毒ガス弾を遺棄しましたが、日本政府は、戦後長い間「知らん顔」をしてきました。一九九七年の化学兵器禁止条約発効によって、遺棄した化学兵器の廃棄が義務づけられたため、日本政府は、中国政府と協力しつつ、発掘・回収・廃棄の事業をすすめています。中国に遺棄された毒ガス弾は、少なくとも七十万発はあると、日本政府も認めています。

 中国では、昨年、黒竜江省で、今年も吉林省で、旧日本軍の毒ガスによる死傷事故が起きています。「満州事変」から七十三年、戦後五十九年たってなお、戦争犠牲者が出ています。

 歴史の教訓を生かして憲法の平和原則を守ることと同時に、「九・一八」が、けっして過去の問題ではないことを直視する必要があります。

 庄子正二郎記者



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