日本共産党

2004年9月5日(日)「しんぶん赤旗」

命奪うテロは許されない

チェチェン 抑圧と支配の歴史

ロシア・北オセチア学校占拠



暴力のみに頼る抵抗

 ロシアの北オセチア共和国べスランの学校を占拠したのは、隣国チェチェン共和国のロシアからの独立を掲げる武装勢力グループとみられます。いかなる政治的目的があるにせよ、一般市民を犠牲にするテロ行為は絶対に許されません。とくに、いたいけな少年少女たちを人質にとり、銃を向けるなど卑劣きわまる蛮行です。

地図
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 今回の惨劇の裏には、チェチェン民族に対する帝政ロシア以来の武力と政治的圧力による抑圧と支配の歴史があります。武力による支配と、暴力にたよる抵抗の悪循環の連鎖を断ちきり、対話による解決をめざす以外にこの問題解決の道はありません。

 チェチェンは、一九九一年十一月に独立を宣言し、九二年三月には新生ロシア連邦への参加を拒否。このチェチェンにロシアは九四年十二月から九六年八月まで大規模な軍事作戦を展開しました。

 休戦と共和国大統領選挙後の九九年九月にロシア軍は、今回の学校占拠の黒幕とされるバサエフ野戦司令官によるチェチェン領外での活動への「反撃」として大規模な空爆を開始し、二〇〇〇年二月、共和国首都グロズヌイを制圧しました。

 二度の大規模な戦闘で共和国は荒廃、罪もない多くの住民の命が奪われました。加えて、「戦闘終結」後も、ロシア軍や共和国当局による不当逮捕や拷問が人権団体から報告されています。大部分の事件では、裁判も行われていません。

 先月二十九日の大統領選で、プーチン政権の支持も得て当選したアルハノフ共和国内相は、「今後、覆面をした者は誰であれ射殺する。内務省部隊も同様だ」と述べました。覆面の治安当局者による人権侵害があったことを認めた形です。

 このロシア政府とそれに後押しされた現共和国当局の弾圧への反発が、テロの続発、エスカレートの背景にあります。

 ロシア紙コメルサント三日付は、今回の学校占拠の犯人たちは「われわれはチェチェン人だ。ロシア軍のチェチェンからの撤退を要求している。子どもたちをロシア人に殺されたので、失うものは何もない」と話したといいます。

ソ連崩壊後も武力で

 チェチェン民族の抵抗は十九世紀、帝政ロシアがカフカス地方一帯を併合したときから始まります。抑圧の政治はソ連になってもそのまま引き継がれ、とくにスターリン時代には“ナチス・ドイツとの協力”を理由に民族ごとシベリアに追放され、民族そのものが絶滅の危機にひんしました。ソ連崩壊後、ソ連邦を構成していた十五の共和国はそれぞれ独立しましたが、チェチェン自治共和国は独立を認められませんでした。

 ソ連崩壊後の抵抗も結局、ロシアの武力の前に封殺されたのでした。

 しかし、現在では、圧倒的なロシアの武力抑圧のもとで、独立派を称する武装勢力が広範な住民の支持を得て独立運動を展開しているとはいいきれない状況もあります。そのことが武装独立勢力を出口のないテロに走らせる要因ともなっています。

 山岳地帯に潜んでいるといわれるマスハドフ元共和国大統領、バサエフ野戦司令官とも、ソ連時代の軍人ですが、「ロシア軍がチェチェンに居座るなら、われわれにはチェチェンの外、ロシアでもたたかう権利がある」と宣言しています。モスクワ在住のチェチェン人記者は、「“親ロシア”チェチェン人なんていない。共和国当局者も、連邦政府の金欲しさにそういう顔をしているだけ」と話します。

 しかし、官製選挙とも評された先の共和国大統領選の投票率は七割を超え、アルハノフ氏も73%を得票しました。

 選挙に立ち会った欧州議員会議の代表は九月一日の記者会見で、「人々は(混乱に)うんざりしており、モスクワと折り合える政権を求めている。アルハノフ氏が正常な生活の再建を促進することを願っている」と述べました。

 ロシア北西部トベーリ州でチェチェン難民の権利擁護で活動するアルサマコフ氏は、「人々は当局も武装勢力も信用していない。ロシアが嫌いでも、(独立)運動の柱がない状態だ」と語りました。

 しかし、その結果としてのテロは事態をさらに悪化させています。

対話による解決こそ

 「ロシアの領土一体性の保持」を絶対使命とするプーチン政権は、チェチェン独立を認める選択肢をまったく考えていません。そして、「テロリストには絶対譲歩しない」としています。イワノフ国防相は一日、チェチェン武装勢力をアルカイダなどの国際テロ勢力と同列視し、「戦争」状態を宣言しています。二万五千人のロシア軍をチェチェンから撤退させる方針もありません。

 今回のロシア特殊部隊の学校突入も、人質の救出ではなく武装勢力のせん滅が目標だったのではないか、との分析もあります。その結果が三百人以上の犠牲だというのです。

 四十五カ国の外相や議員でつくる欧州会議のテリー・デービス事務局長は、自国英国の北アイルランド紛争をめぐるアイルランド共和軍(IRA)との交渉の例もあげながら、ロシアの新聞に「テロリストとの交渉は、時として和平確立に寄与する」と語っています(ブレーミャ・ノーボスチ紙)。

 テロとのたたかいのために武力行使、戦争を正当化するブッシュ米政権は今回のプーチン政権の対応を「テロにたいする力の行使は当然」として支援しています。しかし、こうした主張は事態をさらに悪化させるものでしかないでしょう。

 (モスクワ=田川実)

北オセチア共和国

 ロシア連邦南西部、北カフカスにある共和国。首都はウラジカフカス。面積八千平方キロ(兵庫県とほぼ同じ)。人口約七十一万人(二〇〇二年)。民族構成はオセット人53%、ロシア人30%、イングーシ人5・2%など。オセット人は、北カフカスの原住諸族とスキタイ人など流入したイラン語系諸族との混合。オセット人、ロシア人の多くがキリスト教(正教)徒、イングーシ人の多くはイスラム教徒。

 一七七四年、帝政ロシアが併合。一九九二年三月、ロシア連邦の自治共和国となりました。南オセチアはグルジア共和国内の自治州。一九八九年、グルジア政府が、オセット人の多い南オセチア自治州にグルジア語を強要したことから、自治州の自治共和国への昇格、北オセチアとの統合を求める民族運動が高まりました。

 農業はトウモロコシ、小麦などの栽培と畜産が中心、鉱物が豊富。






チェチェン紛争、北オセチア、ロシア関連年表
1783年
帝政ロシア、カフカス地方の植民地化開始
1830年
帝政ロシア、チェチェンに侵入。国民的英雄イマム・シャミルによる抵抗
1859年
帝政ロシアがチェチェンを併合
1917年
ロシア10月革命。ソ連邦成立
1936年
チェチェノ・イングーシ、北オセチアがソ連邦の自治共和国に
1991年11月ドゥダエフ・チェチェン大統領がソ連邦ロシア共和国からの独立を宣言

12月ソ連崩壊
1994年12月ロシアが軍事進攻を開始(第1次チェチェン紛争)
1996年4月ドゥダエフ大統領がロシア軍の攻撃で死亡

8月チェチェン紛争の政治解決にむけ、停戦合意
1997年1月チェチェンからロシア軍撤退

2月チェチェン共和国大統領に独立派のマスハドフ氏が就任
1999年9月モスクワのアパート街で爆弾テロ。市民200人以上死亡


ロシアがチェチェンへの攻撃再開(第2次チェチェン紛争)
2000年2月プーチン大統領代行がチェチェンの首都グロズヌイ制圧を宣言
2002年12月27日グロズヌイの行政府庁舎で自爆テロ、約80人死亡、150人以上負傷
2003年5月12日チェチェン・ナメンスコヤのロシア政府関連庁舎で自爆テロ。50人以上死亡、約200人負傷

7月5日モスクワの野外ロックフェスティバル会場で自爆テロ。15人死亡

8月1日北オセチア共和国の軍病院で自爆テロ、50人死亡、80人以上負傷

10月ロシア政府の後押しをうけたカディロフ氏がチェチェン共和国大統領就任

12月5日チェチェン・スタブロポリで列車爆破、46人死亡。160人以上負傷
2004年2月6日モスクワの地下鉄で爆破テロ、39人死亡

5月9日グロズヌイのスタジアムで爆発、カディロフ・チェチェン大統領が死亡。50人以上が負傷

6月21日−22日武装勢力がイングーシ共和国内務省など襲撃、57人死亡

8月24日モスクワ南方と南部ロストフ州で旅客機2機がほぼ同時に墜落

8月31日モスクワの地下鉄入り口付近で自爆テロ、9人死亡

9月1日武装勢力が北オセチアのベスランの学校を占拠




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