日本共産党

2004年8月15日(日)「しんぶん赤旗」

「ブーゲンビルは地獄の島よ…」

8・15 戦争体験 歌に込め語る

平和を次世代に

島根・玉湯町 衣川幸雄さん(81)


図

 「ブーゲンビルは地獄の島よ」。ガダルカナル島、ラバウルなどと並ぶ太平洋戦争激戦地の一つブーゲンビル島の五十九年前のことです。「戦争をする国へと大きくかじを切った日本の今だからこそ語り継がなければ」と、これまでの沈黙を越えてこの島での戦争体験を歌に込めて語り出しました。呉第七特別陸戦隊の志願兵だった島根県玉湯町の衣川(きぬがわ)幸雄さん(81)に会いました。菅野尚夫記者

 その日無電あり終戦を知る 静かなり八月十五日

 「しかばねの島」ブーゲンビル島で敗戦を知った衣川さんは、その時の思いをそう詠みました。

 毎日毎日続いた機銃掃射。爆撃の音がピタっとやみました。生死のはざまをかいくぐって生きた緊張の糸がぷっつりと切れた瞬間でした。「手りゅう弾二発を持たされ、一発は敵米軍に投げつけ、残った一発で自決する覚悟」だった衣川さんは、「平和と生への歴史のページが音も無くめくられたようでした」と、五十九年前の八月十五日を語りました。

地獄

 ブーゲンビルは地獄の島よ 生きながら 蝿・蛆・蟻・蚊等の餌じきとさるる

 島を開墾して芋を栽培して食料に。それでも足らずに、「口に入れば何でも良い」とトカゲ、ムカデ、ネズミ、セミ、蛇と毒にならない物であったらなんでも食べた、飢餓地獄でした。

 「敗戦を迎えたときは死ぬ一歩手前でした。やっと歩く。つまずいて倒れると起き上がるのがやっと。六十キロあった体重は半分の三十キロに」

加害

 英国兵哀れ なかばは友軍の空襲 なかばは日本軍により 生命絶たるる

 衣川さんは一九四三年(昭和十八年)当時、ブーゲンビル島の近くのバラレ島にいました。

 バラレ飛行場建設にたずさわったのがイギリスとオランダ軍の捕虜でした。

 衣川さんはいいます。 「イギリス兵には少年兵もいました。『捕虜とは話をするな』と言われ、人間の心をもってはいけなかった。勝つためには何をしてもよかった。捕虜たちは防空ごうに避難させられずに米軍の空爆で亡くなりました。生き残っていた約二百人も日本軍の虐殺で命を失いました」

戦死

 夜半雷鳴?と思えるは 艦砲音にて 哨兵に立てる友を失う

 累々とした戦死者たち。衣川さんが当初所属した呉第六特別陸戦隊は全滅。一九四二年十一月から所属した呉第七特別陸戦隊は四分の一になりました。

 戦闘のほか、マラリア、アメーバ赤痢、栄養失調で亡くなりました。

 ジャングルの病床にありて 「天皇陛下万歳」とかすかに叫び 逝ける兵曹

 「アメーバ赤痢にやられると血便が続く。便所に行ければいい。行けないと亡くなった。毛布をかぶせられた兵士。毛布からは血がにじみ出て、息ができないほどの死臭が覆う」

悲劇

 望郷を想いつめしか 人知れず潮の中に入りて 帰らぬ兵曹長

 敗戦後に衣川さんが集められたのがファウル島収容所です。

 聖戦貫徹、忠臣報国、生きて虜囚の辱めを受けず―と全軍に達せられた戦陣訓。しかし、無条件降伏を知らされ、空虚と望郷の思いにかられ「海を泳いで帰ろうとして亡くなった兵士がいました」と、戦争が終わっても悲劇は続きました。

解放

 「一体何のためにたたかい、友は死んでいったのか」と、頭の中は真っ白のまま一九四六年二月に日本に復員した衣川さん。こうした戦争体験は「墓までもっていこう」と思っていました。しかし、自衛隊のイラク派兵や憲法九条まで変えようとする平和の危機のなかで、「遺言として語り継ごう」と思いました。

 「力を寄せ合って戦争のない平和を愛する日本、民主主義と人間解放の日本をつくるために生きようではないか」と、次世代に呼びかけます。

 ブーゲンビル島 ソロモン群島の西北端にある四国の四分の三ほどの島。一九四一年十二月、ハワイ真珠湾の攻撃、マレー半島上陸、アメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まった太平洋戦争。島の日本軍は四三年ごろから敗戦の一途をたどり、「しかばねの島」と化しました。昭和天皇によってかりだされた日本兵は破局的な結果へとみちびかれ、東南アジアの人たちに惨禍をもたらしました。



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