2004年8月8日(日)「しんぶん赤旗」
![]() 広島の写真を手に語るラザクさん=クアラルンプール郊外の自宅で |
五十九年前の広島への原爆投下による死者の中には、当時広島にいた大勢の外国人も含まれています。その中には日本軍の占領政策の一環として日本に送りこまれた東南アジア諸国からの「南方特別留学生」がいます。マレーシアのアブドル・ラザク・ビン・アブドル・ハミドさん(79)はその一人。ラザクさんは現在マレー工科大学講師で、日本語の専門家として日本マレーシア友好交流で活躍しています。七月初め、クアラルンプール郊外の自宅にラザクさんを訪ね、被爆体験を語ってもらいました。(クアラルンプール=三浦一夫 写真も)
八月六日午前八時十五分。私は十九歳、広島文理大の木造校舎で、同じ留学生のバンゲラン・ユソフ君と二人で、戸田清先生の数学の授業を受けていました。爆心地まで一・五キロ。一瞬のせん光であたりが真っ白に、そしてすぐ真っ暗になりました。校舎全体が崩壊し、三人はその下敷きになりました。
頭に手をやるとかなりの出血です。恐怖と不安のうちにユソフ君と戸田先生の名前を叫び続けると、うめき声が聞こえてきました。折れ重なった柱とがれきの下からユソフ君を助け、二人で戸田先生を救い出しました。
がれきの山からやっとの思いで外へ出てぼうぜんとしました。つい先ほどまであった街並みが消え、見渡すかぎりの廃虚と荒地でした。その荒地には大勢の人が焼け焦げになってあちこちに転がっていたのです。
「ニックたちは…」。同じ東南アジアからの留学生たちを捜しに学生寮に向かいましたが、寮がどこにあったのかもわからないほどに一面のがれきの中から、ニック・ユソフ、サイド・オマルらを捜し出しました。
「そうだ、おばさんはどこだ」。私たちにとてもやさしかった寮母の高橋さんを皆でさがしました。「おばさーん」。やっとのことで、おばさんの姿を見つけたのですが、がれきの下で救い出すことができません。
そのうちに、元安川の対岸から、猛烈な炎がおしよせ、あたり一帯がゴーゴーと音をたてて燃え始めました。このままでは、焼け死ぬ。ぼくたちは、おばさんを救い出せないままに、逃げ出すしかありませんでした。「おばさん、ごめんなさい。アッラーの神よ。おばさんを守ってください」
「ぼくらはおばさんを置き去りにしたんだ」。走りながら泣き叫びましたが、どうすることもできません。炎を避け、逃げ込んだ川は無数の死体とうめき声。地獄でした。その中で、ニックともはぐれてしまいました。
川べりで一夜を明かしました。「水をくれ」といって苦しむ人たちをかわいそうに思い、水をあげたとたんに死んでしまいました。「この水には毒でも入っているのか」と思い、「水は飲まない方がいいですよ」と言ったのですが、その人たちも結局、もだえ苦しみながら死んでゆきました。
翌日、赤十字の救助活動が始まり、私たちは、ニック君を捜しに病院を何度も訪ねました。そこで繰り広げられていたのも、恐ろしい地獄の光景でした。忘れることはできません。
忘れられないもう一つのことがあります。学校跡で野宿生活をしている留学生の私たちを、市郊外の牛田町に住む、三輪さんという方が「ここじゃ大変だ、うちへ来なさい」といってくれたのです。約二週間、私たちは三輪さんの家にお世話になりました。三輪さんはじめ、ほかのみなさんもとても親切にしてくれました。広島の人たちの親切は私の心に深くきざまれています。
そして日本の敗戦。それから十日後の二十五日。私たちの世話をしていた国際学友会の指示で、サイド・オマル君と私は、広島駅から東京に向かいました。そのころからオマル君は体の不調を訴え始め、結局、彼は京都で下車。「東京で待ってるよ」。それが彼との最後の会話になってしまいました。
オマル君が一週間後に京都大学付属病院で亡くなったと、あとから聞きました。ニックは広島であのとき死んでいたこともあとで分かりました。
核兵器は人類を危機にさらし、地球の平和を脅かす恐ろしい兵器です。それを示したのが広島、長崎です。ところが、今では広島や長崎に落とされた核兵器よりはるかに大きな破壊力を持つ核兵器が何万と地球上に配備、保存されています。
マラヤから日本に送られた三人の青年のうち、生き残ったのは私一人だけです。核兵器の恐ろしさを伝えるのは私の仕事だと思っています。
マレーシアを侵略した旧日本軍はひどいことをしました。そのことをマレーシアの国民は忘れることはないでしょう。
私はその日本軍に選ばれて日本に留学した一人ですが、日本に行って私は別の日本人、日本を知ることができました。
私は、両方の国民、特に両国の若者がお互いに理解を深め合うことがぜひ必要だと思います。
南方特別留学生 日本軍が占領政策維持のために、占領した国々で青年たちを選び日本に留学させた制度。実際に来日した学生は数百人。広島には終戦時、ラザクさんを含めて二十人以上が現在の広島大学に留学しており、多くの青年が犠牲になりました。ラザクさんらは一九四四年六月に来日、四五年四月に広島入り。その間に東京で空襲を経験しました。