2004年6月19日(土)「しんぶん赤旗」
20日は「父の日」。そして24日は、参院選挙の公示日。「日本共産党の前進で、政治のゆがみをただそう」と連日奮闘する5人の比例代表候補に、父をテーマに語ってもらいました。投票日は7月11日です。
(末尾の都道府県名は各候補の活動地域)
父は、大阪の北河内の造り酒屋の末っ子で、奔放な人でした。映画の美術監督をしていたのですが、映画が斜陽になるなか、自分をもてあまし、気持ちも荒れたのでしょう。私が小学生のときに母と離婚、それ以来、父とはずっと離れて暮らしました。
十八歳になって父と再会したとき、「どうして実紀史という名前をつけたの」と聞いたことがありますが、「とくに意味はない。自分の好きな字を当てたら、たまたまそうなった」と言っていました。三十歳をすぎて会ったとき、共産党員であることを告げると「共産党は嫌いだ」と横を向きました。しかし、そのあと「共産党が伸びるにはこうすべきだ」と頻繁に電話をしてくるようになり、たまには、なるほどという意見もありましたが、ほとんど荒唐無稽(こうとうむけい)な思いつきでした。
八年前にがんを患い、見舞いにいったとき、「人生に悔いはない。ただ、お前とは一緒に暮らしたかった」と言いました。万事、自己中心の父でしたが、どこか憎めないところがありました。葬儀のとき、集まってくれた方々に、喪主のあいさつのなかで「わがままな父でしたから、生前みなさんにもご迷惑をおかけしたことでしょう」とおわびをしました。
いまも、空の彼方で「こうすれば共産党は伸びる」と叫んでいる気がします。ときには耳をかたむけながら、投票日までの残された時間、頑張りぬこうと思います。
| 北海道、青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉 |
親を早くに亡くした父は、高校を出て会社に入り、こつこつと定年までつとめあげました。今は、毎週のように山に登っています。
照れくささもあるのか、面と向かってじっくり語りあった記憶がほとんどありません。母からは「大学にいけなくて、お父さんはいろいろ苦労したのよ」と聞かされました。でも、父から「大学に進め」とか「何になれ」とかいわれたことは一度もなく、本当にのびのびと少年時代をすごしました。
そんな私も、昨年十二月七日、父親になりました。あきらめかけていましたが、結婚十四年めにして子どもを授かったのです。
どんなに疲れて帰ってきても、六カ月の息子の顔を見れば、元気がわいてくるから不思議です。
三日間うんちが出なければ、「腸重積?!」。子どもがミルクを吐けば「幽門閉塞(へいそく)?!」。医者のくせに心配で心配で。子をもってしみじみと、ああ、父もこんなふうに私を心配しながらかわいがってくれたんだなと思いました。
思えば、子どものころ、ぜんそく気味だった私のために、父は、よく私を自然の中に連れ出してくれたものです。今、忙しくてなかなか会いにいけません。母によると、初孫にあたる息子の写真によく話しかけているそうです。
日本共産党については、偏見もないが、支持者でもありませんでした。そんな父が、今では演説会に出かけ「人がいっぱいきていたぞ」と教えてくれるようになりました。
子を思う親の心とは、命を慈しむ心だと思います。今日も、息子の笑顔に励まされながら、全力で頑張りたいと思います。
| 東京、千葉、神奈川、山梨 |
私の父は、日本共産党とは無縁でしたが、まじめなサラリーマンで、「とにかくまじめに人に尽くす人間になれ」というのが口癖でした。これを聞いて育った青年時代の私に、ピッタリきたのが日本共産党でした。だから、入党できたことを父に感謝しています。
ところが、この結論を聞いた父は、「何で教えた結果が共産党に」と猛反対。でも、だんだん「息子が頑張る共産党が傾いたら大変」と、「しんぶん赤旗」を読み、テレビ討論も見て、応援してくれるようになりました。親はありがたいものです。
この父からの注文は、「そんなにいいことをいってやっているんだから、党名を変えたらもっといいのに」ということでした。たまには酒も酌み交わしながら、「変えなきゃいけないような、やましいことはやってない。この名前に誇りを持ち、国民と共(とも)に幸せを産み出す党なんだ」と、よく議論したものです。
そんななか病に倒れた父が、「ここまできたら、なぜこの名前を名乗っているのか、みんなに『赤旗』を読んでもらって分かってもらうのが一番だな。いまさら赤旗を白旗と変えて降参してもね」といいました。
それからまもなく、私が初めて立候補した一九九二年参議院選挙中の七月十九日、遊説先の広島で父の訃報(ふほう)を聞きました。これが最後の言葉となりました。
この遺言を胸に十二年、いまこそ、父が生き抜いた戦争の時代と激動と苦闘の戦後を乗り越え、新しい希望ある時代を築かなければ。そんな思いでいっぱいです。
| 新潟、富山、石川、福井、長野、岐阜、静岡、愛知、三重 |
大阪での丁稚(でっち)奉公に始まり、こつこつと働いて小さな縫製工場を興した父。その工場を大阪大空襲で焼失しました。そして敗戦。家を失った私たち家族は滋賀県に移り住み、父は大阪で行商などをしながら商売の再興をめざしていました。
ある日、「父倒れる」の電報が届きました。父の下宿先に駆けつけると、ほとんど意識のない状態の父が眠っていました。枕元にかじりかけのキュウリが一本あったことを鮮明に覚えています。一週間後、父は息をひきとりました。私が十歳のときでした。
先日、娘の結婚式がありました。家族への手紙を読み上げる中に、こんなくだりがありました。「(父は)何かと私と過ごす時間をつくりたい感じで、恥ずかしかったり、うっとうしいこともありましたが、私はまんまとお父さん子になってしまいました」
娘は、私が三十歳で党京都伏見地区委員長になった年に生まれました。どんなに帰りが遅くても朝食をいっしょにとりました。保育園に連れていくのは私の役目でした。早くに父親を失った私は懸命に父親になろうとしていたのかもしれません。
娘は、忙しい私を見て「人生を犠牲にしているんじゃないか」と思ったこともあったそうです。自分も社会活動に参加するようになり、「お父さんの生き方が社会の発展と自分自身の幸せを重ねあわせる生き方なんだということが実感でき、本当に尊敬するようになりました」といってくれました。
「お姉ちゃんばっかりかわいがる」とやっかんでいた息子とはめったに会えないけれど、たまに酒を酌み交わしながら語りあうことが楽しみの一つです。
| 滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山 |
終戦を九歳で迎えた父は、戦後、三井三池炭鉱の炭住で育ちました。有明海の干潟でアサリやアゲマキ、赤貝などを二つのガンガン(缶)いっぱいにとり、一缶は九人家族のおかずに、一缶は市場へ出して教科書代に。三池闘争前夜の高校時代、若き荒木栄氏(故人)のうたごえ行動隊に参加したといいます。
進学志望でしたが、家の事情が許さず八幡製鉄所(現新日鉄)に入社。職場では労組青年部、独身寮では先輩たちとともに社会科学研究会を組織しました。三池・安保闘争では、支援オルグの先頭に立ちたたかいました。母は九歳で終戦を迎え、北京から命からがら引き揚げましたが、高校卒業後、町工場で労組をつくり、うたごえや労山の運動で父と出会ったようです。
私は長男として、一九六三年十月に生まれました。翌月九日、三池炭鉱の炭塵(たんじん)爆発で四百五十八名の命が奪われました。母は日記に「また尊い命が奪われました。あなたのお父さんは大牟田に行っています。あなたの時代にこんなことが繰り返されないために」と記しました。三交代で働き、夜勤明けでもラインが止まったといって工場に駆けつける父に家族の生活は乱されましたが、私たち三人兄弟にとって、頼もしい父親でした。
七〇年安保・沖縄返還・ベトナム戦争反対の集会に、父の肩車で参加。私の「聡平」という名前は、そんな両親が、聡明(そうめい)で平和のためにたたかう人間に育てという思いでつけたと聞きます。父の世代の思いを、わが子たちの世代にしっかり受け継ぐために、私も全力を尽くします。
| 鳥取、島根、岡山、広島、山口、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄 |