日本共産党

2004年4月29日(木)「しんぶん赤旗」

米軍 ファルージャ虐殺の惨状

“動くものはみな撃たれた”


 世界中で広がる非難を無視し、イラク駐留米軍は二十七日夜、再び同国中部の都市ファルージャに空と陸から大規模攻撃を再開しました。


モスクを空爆、救急車銃撃

死者の多くが女性、子ども

 米軍は三月三十一日にファルージャで米民間人(元軍人)四人が殺害されたことへの報復を口実に、四月五日以来、同地で六百人以上のイラク人を虐殺してきました。約千五百人の米海兵隊が街を包囲し、大型地上攻撃機AC130やF16戦闘機、武装ヘリを動員して無差別爆撃をおこない、残虐なクラスター(集束)爆弾まで使用しました。

 米軍当局は「死者の多くは武装勢力」としていますが、現地からのさまざまな報道によれば、死者の多くが罪のない子どもや女性です。米軍はイスラム教徒にとって最も神聖なモスク(集団礼拝所)まで幾度となく爆撃し、救急車にまで銃撃を加えました。

帰れない市民

 市の人口約二十万のうち、およそ三分の一が首都バグダッドなどに避難し、いまだに帰宅できません。

 アラブ首長国連邦のアルカリージ紙二十六日付は、現地特派員が、これら避難民におこなった取材をもとにファルージャの惨状を伝えています。

 ―米占領軍は野蛮にも、なにもかも攻撃の対象とした。彼らはモスクを攻撃し、付属施設のミナレット(尖塔)を占拠し、そこに陣取って、付近の家から出てくる住民をかたっぱしから銃撃の標的にしている。

 ―米軍は女性、老人、子どもを殺害した。ある一家が車で脱出をはかった時、戦闘機が飛んできて爆撃された。夫と妻、七人の子どもすべてが粉々になった。

 ―米軍は空爆で知人の一家二十四人すべての命を奪った。多くは女性と子どもだった。

 ―私たちは歩いて(五十キロ離れた)バグダッドの方向に避難を始めた。途中で泊めてくれる場所を探したが、モスクや親切な家はどこも避難民でいっぱいだった。私たちは早く帰宅できることを願いながら、仕方なく、仮設テントで寝た。

閣僚からも怒り

 証言はどれも、無差別攻撃の実態と住民の苦難をまざまざと示しています。同紙特派員は次のようにまとめています。

 「ファルージャではすべての市民が標的にされ、安全な場所などどこにもない。民家、商店、通行人に加え、病院や救急車、援助関係者までもが攻撃対象だ」

 この米占領軍のファルージャ壊滅作戦ともいうべき攻撃には、住民の怒りはもとより、占領当局影響下のイラク暫定閣僚からも「ファルージャ住民にたいするとてつもない誤り、残虐な行為は絶対に受け入れられない」(辞任表明したトゥルキ人権相が二十四日、地元紙に)などの声があがっています。

 アルカリージ紙は、次のようなファルージャ住民の証言を伝え、米軍の攻撃が逆にファルージャ住民の団結と占領への抵抗を強めていることを明らかにしています。

 「占領軍にとって破壊と殺人の方法はいつも同じだが、ファルージャのすべての住民が占領軍に抵抗する意思をもっている」 (カイロ=小泉大介)

砂漠で米軍に封鎖され水も飲めず子は死んだ

韓国の平和団体住民証言を報告

 韓国の平和団体「イラク平和ネットワーク」は二十二日、米軍によるファルージャ住民殺害の実態を現地調査した報告書を発表しました。

 ネットワークの代表、ユン・ジョンウン氏が十三―十九日、現地の元大学教員などイラク人の協力を得て、ファルージャ近郊とバグダッドで避難民から直接、証言を聞きました。

民家に向けて撃つ

 米軍が市内への侵攻作戦を開始した五日の様子を、ヌリエ・サイクさん(52)=女性=はこう語りました。「月曜日の朝、米軍は戦車を連ねて侵入を図った。ムジャヒディン(民兵)が防いだが、かなりの人が死んだ。午後になって米軍は、家に向かって機関銃を発射し始めた。民家、ビル、街路がそこらじゅうで破壊された。交戦は夜まで続き、ヘリが民家にミサイルを撃ち込み始めた」

 他の女性は「空襲でたくさんのけが人が出たが、病院に行けなかった。病院に行く道は米軍が封鎖していた」と証言しています。ファルージャにある大規模な病院は二つ。このうち国立ファルージャ病院の医師が、モスクへの攻撃で四十人が死亡したと明らかにし(米軍は「民間人の被害なしと発表」)、もう一つのタリブ病院(個人経営)は、米軍の爆撃で破壊されました。

 サブリエ・オベイドさん(75)=女性=は「七日に弟から電話がきた。『どの建物の屋上にも米軍の狙撃兵がいる。通りを歩いている人を撃っている。怖くて外に出られない』。これが最後の電話だった。別の弟は狙撃兵に射殺された。親せきの一人は爆撃で壊れた家の下敷きになって死んだ」と語りました。

 ハミド・ジェサムさん(54)=女性=は、避難の途中で子ども二人を失いました。「米軍は私たちに『退避しろ』と言っておきながら道を遮断した。(バグダッドへ向かう途中の)砂漠で米軍に封鎖され、水も飲めずに私の子ども二人は死んだ。米軍が四人家族の避難民が乗った車を止め、銃撃して皆殺しにしたのも見た。これは虐殺だ」

 市内の通りに放置された死体を片付ける作業を続けたという男性教師、アフメド・ヌワプさん(25)は、憔悴(しょうすい)しきっていました。「一度避難したが、年老いた父が残っていたので市内に戻った。いっしょに死体を片付けていた友人は米軍狙撃兵に射殺された。十三日に米軍は『八時間以内にファルージャから立ち去らなければムジャヒディンと見なす』と発表した。それ以来、通りで動くものはみな撃たれた。自宅の庭で頭を撃たれた息子を助けようと、家から飛び出た父親もその場で射殺された」

逃げる途中砂漠で

 ファルージャの病院関係者は「死者は六百人以上、負傷者は千二百人以上」だといいます。

 小学校の女子生徒バトル・フセインさん(10)は、「今も米軍が攻撃する音が聞こえる」とおびえていました。「戦闘機と戦車の音がとても怖かった。どうしてファルージャが攻撃されるのか分からない。逃げる途中の砂漠では食べ物も飲み物もなかった。米軍は嫌い。学校の友だちを思い出すと泣いてしまう。みんなどうしているのかと思うと涙が出る」

街ごと破壊の危険も

 ファルージャをめぐってはここ数日の間に米軍と地元代表の間で「停戦」交渉がおこなわれていました。しかし米軍側は、抵抗勢力側に武装解除を一方的に求めるなど、相手側が受け入れるのはきわめて困難な条件をつきつけていました。米側は交渉で合意に達することは考えていなかったとの分析もあります。実際に交渉の一方で、米側からは、相手が受け入れなければ攻撃再開するとの発言が相次いでいました。

 米軍は二十六日夜から攻撃を公然と再開、二十七日の本格的な攻撃に踏み切りました。

 二十七日午後、米軍は空から多量のビラをまいて、市民に「降伏」を呼びかけ、夜間に入って、猛烈な空爆と地上攻撃を開始しました。

 AC130とみられる大型攻撃機で空爆。また、武装ヘリでモスク(イスラム教礼拝所)を攻撃、施設を破壊しました。繰り返しおこなわれた空爆で、たちのぼる煙と真っ赤な炎は夜空をこがしたと報じられています。

 市民の犠牲などは不明ですが、モスクからは、すべての市民は決起せよとの呼びかけがおこなわれています。

 一時「休戦」の間に多くの市民がバグダッドに避難しましたが、ほとんど女性や子どもたち。男性について米軍は町から出ることを許さず、市内に封じ込めたままです。

 かなりの数の女性や子どもが市内に残っており、包囲をかためた米軍がこれら一般市民を大量殺りくし、街を軒並み破壊する可能性もあります。ファルージャはいまきわめて重大な状況下にあります。(三)

ファルージャをめぐるおもな動き

 3月31日 米警備会社要員4人が武装勢力に殺害され遺体を損傷

 4月5日 米軍がファルージャ攻撃作戦開始。海兵隊2500人が包囲。爆撃など開始。アラブのテレビが米軍はクラスター爆弾使用と報道

  7日 米軍がモスク攻撃。市民40人以上死亡

  8日 邦人3人が人質になる

  9日 米軍当局が戦闘一時中止を表明するが攻撃はつづく。これまでに市民470人死亡。負傷は1200人

  11日 イラク軍がファルージャ作戦拒否と米紙報道

  12日 停戦一時延長。死者は600人を超す

  13日 米軍が戦闘再開

  15日 米軍、モスクを攻撃

  20日 停戦の動きがあるなかで戦闘継続

  22日 イラク駐留米軍キミット司令官が攻撃再開を示唆

  26〜27日 攻撃本格的に再開


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