日本共産党

2004年3月3日(水)「しんぶん赤旗」

山本宣治ってどんな人?


 〈問い〉 あの戦前の状況下で「山本宣治」さんという方が国会議員に当選し、庶民の立場でたたかって暗殺されたという話を聞いて驚いています。どんな方だったのですか?(岡山・一読者)

 〈答え〉 山本宣治は一九二九年三月五日夜、暗殺されました。三十九歳の時でした。

 天皇制政府は侵略戦争の「銃後」を固めるため、前年に緊急勅令で治安維持法改悪(最高刑を懲役十年から「死刑もしくは無期懲役」に)を強行。その日は、衆院で同法の事後承認案の審議があり、山本は発言原稿を準備して議会に臨みますが、妨害にあって発言できず、東京・神田の宿舎に戻ったところを右翼テロリストにより刺殺されたのです。

 日本共産党は、民主主義と自由のために生命をささげた彼をたたえ、死後、党員としての資格をもってとむらうことをきめ、前年死亡した渡辺政之輔とともに労農葬をおこないました。

 山本宣治は、京都大学や同志社大学で生物学を教えていた学者でしたが、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって産児制限運動など世の中をよくする運動に身を投じます。一九二八年労農党の代表として京都二区から衆議院議員に当選。戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対しました。

 「山宣(やません)」と呼ばれ人々に親しまれた彼は、宇治川のほとりにある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもありました。京都では毎年、命日である三月五日に、「山宣墓前祭」をひらいています。

 山宣なきあと、日本は満州事変から日中全面戦争へ、太平洋戦争へとつき進んでいきます。

 大山郁夫書の墓碑銘「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋(さび)しくない 背後には大衆が支持してゐるから」は、いまも多くの人の胸に刻まれ、たたかいを励まし続けています。(

 〔2004・3・3(水)〕


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