日本共産党

2003年9月23日(火)「しんぶん赤旗」

チュニジアの七日間(29)

中央委員会議長 不破哲三

古都カイラワンの探訪(中)


九世紀の水利技術に注目

 モスクの中庭は、回廊で囲まれた明るい広場で、全面に大理石が敷きつめられている。中央に排水溝が設けられ、中庭の全体が緩い斜面になっていて、雨のときには、雨水はすべて排水溝に集中するしくみ。そこには、水を濾過(ろか)するフィルター式の装置もとりつけられている。地下に大きな貯水槽が設けられており、フィルターで浄化された水が、そこにためられるわけだ。

 アグラブ王朝時代、九世紀の改修のときに設けられた設備だと思うが、相当に高度な水利技術である。砂漠と暑熱の地チュニジアでは、日常生活に必要な水をいかにして確保するかが、そこに住むすべての人間にとって死活の問題だった。ローマ・カルタゴ時代には、そのために標高一三〇〇メートルの水源から総延長百三十二キロメートルにも及ぶ水道橋を建設して、飲料水から大浴場で消費する分までまかなったとのことで、その水道橋の遺跡も現存しているというが、イスラム・アラブの人びとも、独自の技術でこの難問を解決した、ということだろう。九世紀という時代を考えれば、彼らの水利技術に注目せざるをえない。

 中庭をはさんで、礼拝堂の反対側に高さ三十二メートルのミナレット(塔)がそびえたつ。塔の上部は三段階に見える。全体は十一世紀の建設だが、いちばん下の基礎をなす部分は、八世紀のもので、イスラム世界で最古のものだという。

いまも利用される巨大貯水池

 カイラワン市の北西の側の郊外には、巨大な貯水池がある。次にそこに案内されて、この地方に住む人びとにとって、水利の問題がいかに重要だったかを、かさねて考えさせられた。

 直径百二十八メートル、深さ五メートル、容量約五万トンという円形のたいへん大型のもの。カイラワン市の西の丘の上から、三十数キロメートルもの道程を水道で運ばれ、まず隣接する小型貯水池で浄水の過程をへたあと、この大型貯水池へためこまれるのである。

 建設はやはり九世紀のアグラブ王朝の時代。当時は、こういう池が十四もつくられ、市民の水需要をまかなったとのこと。いま残っているのは、二つだけだが、独立後の一九六九年に修復して、いまも市民の日常生活をささえる重要な水源の一つとなっている。歴史的な水利技術が、一千年を超える時間を飛びこえて、現代の市民生活に生きているわけである。

スペイン・アンダルシア文化の影響も

 次に案内されたのは、シディ・サハブ・モスク。「サハブ」とは「友人」の意味のアラビア語で、預言者ムハンマドの友人がここに埋葬されたことから、その名がついた。

 大モスクにくらべれば、小ぶりだが、その姿には、どの壁や天井も色鮮やかな模様で飾られるなど、独特の華やかさがある。もともとの建設の歴史は七世紀にさかのぼるが、その後十七世紀に、いろいろな施設が加えられて現状になったという。その時、“アンダルシア”風の装飾や様式が、このモスクの建築のなかに取り入れられたのが、この華やかさの要因らしい。

 アンダルシアは、スペインの最南部の一地方。イスラム勢力がイベリア半島を支配したとき、その影響をもっとも深く受けた地方の一つで、建築物などに、イスラム文化とヨーロッパ文化を融合させた独特の文化を発展させた。私は、まだスペインを訪れたことはないが、グラナダのアルハンブラ宮殿などは、テレビの旅行番組などでも、よく目にしている。

 イスラム勢力が、スペインやポルトガルのキリスト教徒による国土回復運動(「レコンキスタ」)で打ち破られ、北アフリカに撤退せざるをえなくなったのが、十五世紀の末。それ以後、スペインからアフリカに向かうイスラム系アンダルシア人の大きな流れが起こり、その流れがアンダルシア文化とともにチュニジアに到達する。そのなかで、アンダルシア文化を取り入れたこのモスクが建設されたわけで、その装飾には、アルハンブラ宮殿との共通性が指摘されているとか。

 ここにも、あらゆる異種の文化を吸収し融合させてゆくチュニジアの歴史そのものの現れを感じた。(つづく)


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