日本共産党

2003年9月21日(日)「しんぶん赤旗」

白砂青松を育てる

景勝・防潮・防砂 になう

海辺の緑のついたてが危ない


 「松原遠く消ゆるところ白帆の影は浮かぶ……」と歌われた美しい日本の海岸線は、年々失われつつあります。それだけに残っている白砂青松の地は貴重です。本来の防潮防砂の役割に加え、観光資源の保護・育成という点からも、地球の生命維持装置の一翼をわずかではあっても担うという点からも、これらの景観は大切です。岩手県陸前高田市と富山市での保存の取り組みを紹介します。


富山市 古志の松原

住民がマツ植え、管理

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県指定天然記念物の松の大木=17日、富山市

 富山市のJR岩瀬浜駅から常願寺川まで約五キロの海岸通りをいくと、海側に松並木が続きます。県指定天然記念物の松も見られ、江戸時代の旧街道を思い起こさせます。海岸に出ると、白い砂浜が続き、数え切れないほどの松が植えられた松原越しに立山連峰を眺望することもできます。

 一九三二年、当時の美術行政家が、壮大な多幹性根上がり黒松や美しい松並木を見て、「古志の松原」と名付けました。「古志」は古代(大化前代)北陸地方を「コシ」と呼び(さまざまな説がある)、「古志」の表記を引用したもの。

 松並木は、関ケ原の戦い後、加賀藩二代目の前田利長が徳川家康への恭順を示すために植えたのが最初。参勤交代の行列が通りました。一九六五年には、松並木のうちの四十四本の松が県の天然記念物に指定されました。現在残っているのは十一本だけです。

超党派で「育てる会」

 いまの松原の姿は、一九七〇年代後半からの住民運動によってつくられてきたものです。七八年に「古志の松原を育てる会」(会長・故舘盛英夫製薬会社社長)が、超党派で結成されました。当時、県が飛砂防備保安林として管理していた部分は当局が植えた松が成長し立派になっていたものの、松原の中には私有地があり、不用意に伐採されたり、松毛虫の被害による立ち枯れなどで「荒れ果てていた」といいます。県が天然記念物に指定した松の木も半数以下になっていました。

 「育てる会」は、マツを植える運動を展開。市(改井秀雄革新市政)から助成を得て、広い空き地や、一本でも二本でも植えられそうな場所、立ち枯れした木を引き抜いては、その後に、三年がかりでマツを植えていきました。当時の「育てる会」事務局長(74)は、「ぼくは引っ越してきたばかりだったけど、歴史ある松並木はすばらしく、守っていかなければならないと思った。週一回は松原に行って、松毛虫を見つけては駆除しました。『育てる会』に入っていない人も、いっしょにやってくれました」と振り返ります。

 運動にいっしょにとりくんでいた犬島肇氏(日本共産党の前県議)は、「育てる会」の会誌第一号(七八年刊)に、「歴史的伝統的な豊かな景観が保たれるようにするために、それにふさわしくない建築物の進出を規制する何らかの法的規制を加える努力が、地方自治体に必要なのではあるまいか」と書いています。

景観保全の条例策定中

 現在、富山市は町内会が行う清掃活動や自治振興会での病害虫駆除の補助をしています。また、今年度の三月議会にむけて景観保全のための条例を策定中です。

 犬島氏は市の条例策定にあたって、「砂浜が続き、松が生い茂っている海岸は、富山湾では貴重です。住民の暮らし、文化を大切にするなかで住民を啓発し、行政がとりくみをサポートするような条例をつくってほしい」と話していました。

 (富山県・中本明子記者)


岩手・陸前高田 高田松原

自然破壊の施設許さず

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家族連れの観光客がたくさん訪れます=16日、陸前高田市の高田松原

 今年四月、環境省の世界自然遺産の候補地検討リスト(案)入りした陸中海岸。その一部、三陸リアス式海岸の岩手県の南端、広田湾を抱くようにゆったりした弓形の白い砂浜に、クロマツとアカマツ数万本が約二キロにわたって連なっています。

「世界の松」との声も

 ここが陸前高田市の名勝・高田松原(国立公園)で、日本百景や白砂青松・渚(なぎさ)・森林浴の森などいくつもの「百選」に選ばれています。海水浴場や年中楽しめるすばらしい景観は、市民の憩いの場ともなっています。

 樹齢三百年を超える松などがあり、「日本の松から世界の松になるかもしれない」との声も聞かれました。

 快晴の十六日、山形県からきた家族連れらが、砂浜で水遊びやカレイ釣り、ジョギングを楽しんでいました。ウミネコが舞う沖合では、ホッキ貝捕りの小さな船も。陸前高田市シルバー人材センターの人たちは、松林の草刈りをしていました。

 林間の散策路の傍らには、石川啄木の「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」の歌碑と、高浜虚子の「草臥れて 即ち憩う 松落葉」の句碑があります。

 いまから約三百三十年前は、松林のない砂浜や湿地帯でした。気仙川から運ばれた土砂が、広田湾の沿岸流によって堆積(たいせき)し、形作られました。

 松林は防潮のため一六六七年(寛文七年)から菅野杢之助(かんのもくのすけ)が仙台藩の支援を得て六千二百本植えたのが始まりで、享保年間(一七一六―一七三六年)には松坂新右衛門が植栽を続け現在のような美しい形になりました。

 一九六〇年のチリ地震津波では、二百メートルにわたり砂浜が流出し、天然湖沼・古川沼と海とがつながりました。古川沼では市民や団体でつくる「古川沼をきれいにする会」がクリーン作戦を実施しています。

保護貫く中里市長

 高波や潮風から沿岸の田畑を守り続けてきたこの地に、海洋療法施設のタラソテラピー建設計画が浮上したのが一九九七年。日本共産党市議団は議会で、予定地は国立公園の第二種特別地域内だから設置できないと指摘し、「自然を破壊する施設は建設せず、市民と観光客に高田松原の自然そのものを楽しめるようにすることが大事」と論陣をはり、計画の中止を求めました。

 前市長時代、古川沼のそばに市が出資して民間のホテルを誘致。ホテルが赤字で破たんし、その隣にタラソテラピー建設を打ち出したため、二月の市長選の大きな争点になり、中里長門市長(当時、日本共産党市議)の誕生につながりました。豊かな自然環境を守る公約にそって、計画はすぐに中止になりました。

 中里市長は、高田松原について、「先人から受け継ぎ、後世に確実に引き継がなければならない大切な財産である」(三月市議会)と、松くい虫被害対策など松原保護の姿勢を貫いています。

 市は、六月に高田松原の大切な松林を松くい虫被害から守るため、薬剤の地上散布を実施。七月末には、高田松原で市民の津波避難訓練も行われました。

 (東北総局・佐藤利夫記者)


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