日本共産党

2003年9月3日(水)「しんぶん赤旗」

故黒田さん(元大阪府知事)偲び お別れする会

不破議長、桂米朝さんらがお別れの言葉

参列の2100人が献花


写真

祭壇の微笑みかける黒田了一さんの遺影の前で思い出を語る不破哲三議長=2日、大阪市中央公会堂

 一九七〇年代に大阪府の革新知事を二期八年にわたってつとめ、公害防止をはじめ数々の府民本位の福祉、教育施策を実現、全国の地方自治体のあり方を大きく変えた黒田了一さんを偲(しの)び、お別れする会が二日午後、大阪市中之島の中央公会堂で開かれました。

 会では、日本共産党の不破哲三議長、落語家の桂米朝さん、作家の藤本義一さん、太田房江大阪府知事(鈴木重信副知事代読)ら各界の十氏がお別れの言葉をのべ、残暑厳しいなか会場いっぱいに参列した二千百人が献花し故人の遺業を偲びました。日本共産党の石井いく子副委員長、荒堀広、大幡基夫両常任幹部会委員も参列しました。

 主催者を代表して東谷敏雄・明るい民主大阪府政をつくる会顧問があいさつし、猿橋真・元革新大阪府政をすすめる各界連絡会事務局長が、黒田さんの経歴を紹介。ビデオ「いのち燃ゆ−革新府政と在りし日の黒田さんを偲ぶ」が上映されました。

 ビデオの中では、老人医療費、障害者医療費の無料化、「ポストの数ほど保育所を」「十五の春は泣かせない」と保育所、府立高校を大幅に増設したことなどが紹介され、黒田さんの業績を浮かび上がらせました。

 お別れの言葉のなかで不破議長は一九七一年の知事選で、ほとんどのマスコミの予想を覆して黒田さんが当選した当時の出会いを紹介しながら、二期八年の黒田革新府政について「府政の軸足をコンビナートづくりから住民自治の地方自治の本来の姿に変えました。日本の政治史に一つの大きな歴史を刻んだことは間違いない」とのべ、黒田さんの業績をたたえました。

 「やさしい、なつかしい、親しみのある先生だった」(桂米朝さん)、「温厚でがんこ」(藤本義一さん)、「ユーモアの真髄を教えていただいた」(「上方芸能」代表の木津川計さん)、「めげない楽天家」(元朝日新聞記者の長谷川千秋さん)をはじめ、大阪市立大名誉教授の甲斐道太郎さん、全国公害患者の会連絡会幹事長の森脇君雄さん、「明るい会」顧問の菅原藤子さん、全国革新懇代表世話人の谷内口浩二さんから、黒田さんの人柄と信念を偲ぶ言葉が続きました。

 遺族を代表して長女の黒田悠紀子さんと二女の山口美千代さんが謝辞をのべました。

 鯵坂真大阪革新懇代表世話人が偲ぶ会を終わるにあたっての言葉をのべ、参列者の献花が続き、太田府知事もかけつけ献花しました。


「黒田了一さんを偲び、お別れする会」での

不破議長のお別れの言葉

 二日、大阪市内でおこなわれた「黒田了一さんを偲(しの)び、お別れする会」での日本共産党の不破哲三議長の「お別れの言葉」の大要は次のとおりです。 お別れのあいさつを申し上げさせていただきたいと思います。

 私の黒田さんとの最初の出会いは、三十二年前の四月、天王寺駅前の知事選挙の宣伝カーの上でした。あの選挙は本当に歴史的な選挙でした。

 ところが、状況としては、現職の左藤知事の当選間違いなし、そういうことで、マスコミも含めて大阪には注目しませんでした。新聞の世論調査も、大阪はやらず、ある新聞にいたっては投票日の二日前に、全国の重点選挙の分析というのをやりましたけれども、北海道、東京、島根、福岡だけで大阪は飛ばしていました。

 そういう状況がなぜうまれたかというと、前の年に万博が成功した、現職の左藤さんは強い、一方、黒田さんはほとんど告示の一週間ほど前に決まったばかりで、学界では知られていても、あまり一般には知られていない、そんなことから、当の自民党もそうなんですけれども、だいたい勝負あったという判定がずうっとつきまとっていたのです。

 しかし、私は選挙の中盤に応援に参りまして、大阪の雰囲気は違うということを痛感しました。それで最終盤、投票日の前日に、黒田さんと一緒に宣伝カーのデッキで手を振りながら回ったんです。

 そのとき驚いたのは、だいたい学者の方で地方選挙に出られた方は、多くの場合、硬くなりがちなんですね。しかし、黒田さんは度胸満点で、女性の方を見かけますと「もしもし、そこの奥さん、革新になりますと女性は美しくなりますよ」などと自由闊達(かったつ)に言って回っているのです。

 たまたまその途中で左藤さんの街頭演説にぶつかりましたら、なんと投票日の前日だというのに、ほとんど聞く人がいないんですね。それで、いま大阪には大変なことが起ころうとしてるんじゃないかという感じを持ちました。

 当時は翌日開票でしたから、十一日の投票で、翌十二日が開票日でした。そして、開票の進行中に新聞社で幹事長、書記長、書記局長討論会が始まったのです。そこで集まって話している最中に大阪の第一報が入りましたら、黒田さんの票が左藤現職知事の票の上にいっているのです。自民党の幹事長は田中角栄氏だったのですけど、“まだまだ”といいながら自信満々の顔をしていました。ところが第二報がきたらもう黒田さんが当確なんです。

 私は田中角栄幹事長とはずいぶん討論会をやってきましたが、彼があんなショックを顔に表したことを、見たことがありませんでした。“まったく予想外だ”、“東京はしかたがないが、大阪はマスコミも問題にしていなかった”などと口走って、そこには自民党が受けた衝撃の大きさがありありと表れていました。そこに大阪でのみなさんの勝利の意味が体現されていたのですが、実際に文字どおり日本全国に衝撃波が走りました。

 二度目の選挙はいろんないきさつから、政党では私どもだけが推薦するという選挙になりました。その選挙でも黒田さんが勝利したのですけれども、共産党の単独推薦で勝利した知事というのは、まだ日本では黒田さんのあとを継ぐ人がいないのです。それくらい記録的な内容でした。

 二期八年間の実績はさきほどビデオで詳しく紹介されましたが、教育での実績、福祉医療での実績、公害問題での実績など、ほんとうに大阪の政治の流れが変わったということをみんなが実感するような、すばらしいものだったと思います。

 それはいわば大阪府政の軸足を「コンビナートづくり」から、「住民の福祉」という地方自治の本来の立場に引き戻したもので、それが黒田さんが実行されたお仕事だったと思います。これは全国に大きな影響をあたえました。

 私は黒田府政というのは、発足から二期目の選挙、そして八年間の実績まで、ほんとうにすべて記録ずくめであって、大阪だけでなく、日本の政治史に一つの大きな歴史を刻んだことは間違いないと考えています。

 知事を退かれた後も黒田さんは革新の立場を守りぬかれました。ご紹介があったように、全国革新懇という組織をつくるときに先頭に立たれた方の一人で、発足後はその代表世話人になられました。私自身、八九年から黒田さんが体調を崩される九六年までの七年余り、毎月のように顔を合わせ、いろいろ議論をしました。黒田さんがあの会で発言されるとき、必ずといっていいぐらい、私どもの党への批判や辛口の話が入るのです。で私も遠慮なくそれが見当違いであれば見当違いであるといい、当たっている時はそれはこうでしたと認める、そんな議論を繰り返しながら、そういうやりとりがなんのわだかまりも残さないでできる、そこに黒田さんの度量といいますか、人柄というものが非常によくあらわれていることを痛感してきたものです。

 人柄という点でもうひとこと申し上げますと、現職の知事だったころに、東京に出られると、ときどき日本共産党の本部にふらっと来られるのです。お会いすると、だいたい一時間くらい大阪の話をたんたんとされて帰るのです。今日はなんの用だったのだろうと当時不思議に思っていたんですけれども、あとではたと気が付きました。自分を推薦した政党にたいし大阪の知事として大阪府政の報告をきちんとされていたんだな、そのつもりで来られたんだな、と。そこに黒田さんの律義さといいますか、誠実さといいますか、そういうものが現れていたんだということを、私は実はそのときではなくて、かなりあとになって気がつき、申し訳ない対応をしたかもしれないと思って、あとで心配したりしたことでした。

 思い出はつきませんが、今日はその一部をのべさせていただいて、黒田さんへのお別れの言葉にしたいと思います。


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