2003年9月2日(火)「しんぶん赤旗」
三宅島の名産「くさや」が復活――全島避難から三年たった東京・三宅島。島のくさや業者が、三宅島をのぞむ新島(にいじま)で製造を再開しました。
![]() くさやづくりを再開した青山さん=東京・新島 |
この六月、新島に「清漁水産新島営業所」をオープンさせたのは青山敏行さん(44)。くさやは伊豆諸島に古くから伝わる独特の魚の干し物。青山さんは三年前、家族といっしょに島から避難。岡山の妻の実家にいました。昨年六月から、島の状況をこの目で確かめたいと島の復興作業員をしてきました。
今年四月、同じくさやをつくる新島水産加工業協同組合の協力で、「くさやの里」という共同加工場の一角を借りることができました。準備を経て、六月から製造を再開しました。三宅島を離れて二年九カ月ぶりでした。
「体一つで避難してきて、何も三宅島から持ち出せなかったけど、ここは何から何までそろっていて、一番大事なタレ(魚の漬け汁)も分けてもらって、くさやをつくることができた。新島村や組合の仲間のおかげです。本当にありがたかった」
営業再開から二カ月。昔の顧客にダイレクトメールを送っていますが、「まだ三宅にいたときの十分の一の商売だね」。
製造を再開したものの不安、心配はつきません。売り上げも、魚の仕入れと生活費で消えて、借金返済も蓄えもできません。避難の五年前、新しい冷凍庫を買って、借金も残っています。
「島に帰ってもゼロからの出発じゃない。大きなマイナスからの出発だよ。火山ガスが減って、帰島していいですよ、といわれたとき、今の島には生活の基盤がぜんぜんない。帰ってもくさやはつくれない。冷凍庫もだめになったし、ほかの設備も使えるかどうか分からない。新たに借金して設備投資なんてできないし…」
青山さんは、新島みたいに共同で使える施設があれば、ほかの業者も仕事を再開できると考えています。「くさやに限らず、たとえば農家がアシタバをとってきたら、共同で袋づめをしてくれる人も設備もあれば、農家も助かるし雇用も生まれる。いろいろな業種がつながりあえる産業団地的なものを整備すれば、島に帰ってもみんなすぐに仕事ができる。俺一人でどうにもなる話じゃないけど、そうしたことが必要なんじゃないかな」。
新島の海岸にたつと三宅島が目の前に見えます。ときどき、三宅島の様子を見に来るという青山さん。岡山にいる妻と三人の娘たちとの別居生活も一年三カ月。
「三宅島で暮らしたい。島を離れて、その思いはいっそう強くなったよ。子どももいっしょにいるときはうざったいと思うときもあったけど、離れると家族はいっしょにいなきゃとつくづく思うね。でも、悪いことだけじゃない。夏休み、女房と子どもたちが岡山からきて、新島のとなりの式根島にいって海水浴をした。三宅にいるときは仕事が忙しくて子どもと泳ぎにいったこともなかったからね。でも、子どもたちが岡山に帰ったあとは、寂しかった」
“新島産の三宅のくさや”をパックした袋にはってある青山さん手づくりのラベルには、こう書かれてあります。
「故郷三宅島に帰るためのはじめの一歩です」(栗田 敏夫記者)