2003年8月28日(木)「しんぶん赤旗」
「娘を失ったこの二年間はむごすぎました」。栃木県足利市の中村スイ子さん(54)は、三回忌を間近にした仏壇の前で、ゆれる線香の煙を見つめてそういいました。二〇〇一年九月一日、四十四人の命を奪った東京・歌舞伎町ビル火災。中村さんは二十三歳になる長女・沙由理さんを亡くしました。「責任はない」と被害者に線香一本さえも手向けないビル所有者。「娘の命の重さを知ってもらいたい」と裁判に立ち上がった遺族の思いを聞きました。(菅野尚夫記者)
沙由理さんの部屋は二階です。「この階段を上がるたびに思うんです。あぁ、ちゃぁちゃん(沙由理さんのこと)はいない」。部屋に案内してくれたスイ子さんはそうつぶやきました。
当時のままの部屋。変わったのはベッド横の仏壇。千羽鶴や友達に囲まれた笑顔の写真。
「今年四月になって沙由理が使っていた携帯電話がようやく警察から返ってきました。消防署に助けを求めた記録があったようです。でも、戻った携帯からは記録が全部消えていました」と切なく顔を曇らせるスイ子さん。
「さゆり、元気。お母さんも元気している。こんどさゆりとメールやろう。でも、なんだかむなしいな。帰らないのがわかっているのに」。六月二日に遺品となった長女の携帯電話にメールを送ったのです。
「お父さんとお母さんのこと、大好き。私も結婚したら二人みたいな夫婦になりたい」
亡くなる四日前の〇一年八月二十八日。沙由理さんは、母にそう言い残して東武伊勢崎線足利市駅から特急に乗り上京。「お母さんもあなたが一番の宝物よ」と会話したのが最後となりました。
女優を夢見て東京で下宿生活をしていた沙由理さんは、この年の一月から実家に帰っていました。一時アルバイトをしたことのある火災のあったビル四階の店の店長の懇願で上京したのでした。
「もう東京にはいかないで」という母。「十年、十五年頑張ってやっと(女優に)なれることもあるのよ」と夢を追う長女のいちずな訴えに負けました。
「あぁ、あの時に体をはってでも止めていたならば」。後悔がスイ子さんをさいなみます。「(沙由理さんが乗った)特急電車を見るだけで身震いが止まらない時期がありました」といいます。
沙由理さんは高校生のとき、東京・原宿でモデルとしてスカウトされました。テレビドラマのエキストラとして出演。これをきっかけに女優を志しました。卒業後上京して下宿生活。アルバイトをしながら俳優養成所に通っていました。
「夢を追い通した。えらい」とスイ子さん。「歌舞伎町で亡くなった娘に批判があるのを覚悟していました。顔を出さなければ偏見はなくならない」。ビル所有者の責任を追及しようと決心して実名でテレビなどの取材に応じてきました。
「葬儀の日、沙由理の友だちがおおぜいきてくれました。この子を信じていいと思いました。この子の命の重さを知ってもらわなかったら天国のあの子に報告できません」
「ひつぎのなかのわが子を見せられたとき真っ白で何も見えませんでした」。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙。「わが子さえ帰ってきてくれれば」という思いで食事もできなかったスイ子さん。「苦しくって死んじゃおうかなあと何度も思いました。二年もたとうとしているのに思い出しては涙が止まりません。こんなつらい思いは人にはさせたくない」。
業務上過失致死罪に問われたビル所有者らの第二回公判が、九月五日東京地裁で行われます。