2003年8月16日(土)「しんぶん赤旗」
![]() 趙家台村で地下道入り口跡を示す劉彦昇さん |
八月十五日の五十八回目の終戦の日を前に、侵略した日本軍と勇敢にたたかった村の一つ、北京西郊外の趙家台村(門頭溝区)を訪ねました。(北京で田端誠史 写真も)
一九三七年七月の盧溝橋事件以降、日本軍は、北京市やその郊外を支配しました。北京西方の門頭溝区にもあちこちに砲台が建てられ、炭鉱が接収されました。
同区内の趙家台村も同じ状況下にありました。同年九月二日、日本軍は六門の小型砲、六丁の軽機関銃で武装した千三百人の兵士を動員、村を攻撃しました。三機の飛行機が機銃掃射を行いました。
村に住む劉彦昇(64)、孫小群(75)さんは当時の様子を覚えています。村は九十戸、人口三百人あまりでした(現在は三百八十人)。孫さんは「日本軍を見るだけで怖かった」といいます。
村道は二人がやっと通れる幅で、各家に入る道も一人分の幅しかありません。村の暮らしは今も豊かとはいえません。
村人の孫永水(67)・取玉蘭(69)さん夫婦の場合、二十eの畑を耕していますが、土質が悪く水も十分でないため米、小麦はできず、トウモロコシ、高粱(こうりゃん)を栽培して生活しています。
劉さんらは、日本軍とたたかうため村人がつくった地下道を案内してくれました。
地下道は人一人が通れる狭いものです。隣家と結ばれています。今は使えませんが、家々が地下道の網の目でつながれ、村の外へも通じていたそうです。日本軍が攻撃してきた当時、この地下道を利用して反撃、日本軍側に死傷者三百人の打撃を与えました。たたかいは七日七晩におよびました。装備、兵力数で勝る日本軍のため、結局村民は敗れ、地下道を伝って退きました。しかし、脱出できなかった老人や病人など四人が殺され、十六人が負傷、多くの家が焼かれました。
この村の近くに三一六年に創建された潭柘(たんしゃ)寺があります。同寺の段鉄軍管理処副主任らによると、当時の住職と天皇の女婿・大谷光瑞氏が友人であった関係で同寺の僧多数が日本に留学しました。このこともあって、寺は空襲も受けず、破壊もまぬがれたといいます。
劉さんと孫小群さんが別れ際に感慨を込めて言いました。
「今回村をご案内したのは、私たちにとってもいい機会でした。あの戦争からの教訓を学んで、日中間での庶民の友好を実現したいですね。そのためにお互いがんばりましょう。またぜひ来てください」