日本共産党

2003年8月15日(金)「しんぶん赤旗」

「おめでとうございます」と

赤紙(召集令状)配った私

名古屋の前田英一さん


 赤紙(あかがみ)配達人――。名古屋市内で印刷業を営む前田英一さん(77)が戦時中携わっていた“仕事”でした。「平和の語り部」として当時の体験を伝え続ける前田さん。赤紙を届けたら「死んだらあかん」と泣きじゃくった妻の姿が今も頭から離れません。


「死んだらあかん」奥さんの声いまも

イラク派兵の動き「昔話ではない」

 赤紙。それは、縦十五センチ、横二十三センチの赤い紙にしるされた兵隊の召集令状のこと。受け取り拒否は許されません。前田さんは十六歳になったばかりでその配達業務にたずさわったのです。

 当時、前田さんは三重県飯南郡森村の役場の給仕でした。生まれ育ったこの山村は戸数は五百戸、人口二千五百人という小さな村。村役場は、村長、助役、収入役などを含めてわずか十人でした。赤紙配達を始めたのは、太平洋戦争がはじまる一九四一年の四月。給仕になって二年目、兵事係(兵隊召集にかかわる業務をおこなう係)を兼務する戸籍係の仕事を手伝うようになってからでした。

■  ■

 「赤紙の配達はいつも深夜。警察から届くのが夜の八時すぎでした」と前田さん。県庁所在地に設置された連隊区司令部から地元警察に命令が出て、駐在(警察)が各市町村に赤紙を持参しました。「召集令状がきた」という電話が役場に入ると、当時、毎日、役場で宿直をしていた前田さんはすぐに自転車で兵事係を呼びに行きました。駐在が持参した黒いブリキ製の箱に少ない時で一枚、多い時は七、八枚の赤紙が。その日のうちに自宅まで届ける決まりでした。

 真夜中でも起きてくるまで強く戸をたたきました。口上は決まっていました。「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」

 反応はさまざまでした。「おお、前田君。俺(おれ)にも来たか。待っていたぞ」という人。「これでうちも肩身の狭い思いをしないですむ」といった父親。「ご苦労さまでした」といいながらじっと赤紙を見つめた妻…。三年八カ月の間に赤紙の配達先は六十人近くに。

 今も忘れられないのが兵役経験もある屈強な三十六歳の山林労働者のことです。十二歳の男の子を頭に子ども六人と妻の八人家族でした。

 いつものように口上を述べた前田さんに返ってきた言葉は「とうとう来たか」という本人の静かな言葉。しかし、赤紙に目を留めた妻は、突然夫の背中にしがみつきました。「死んだらあかん、死んだらあかん」と泣きじゃくりました。起きてきた一番上の男の子は黙ったまま赤紙を見つめていました。

 「夫は妻をなぐさめるように『戦場に行っても死ぬとはきまっておらんのう、前田くん』と私に声をかけてきました。私は軍国少年でしたから、ほかの家の妻は泣いたりしないのに、どうしてこの家は、と思いました」

■  ■

 森村で召集された兵隊は約二百人。生きて帰ってきたのはその半数にすぎませんでした。

 敗戦を迎えたのは十九歳のとき。終戦前日まで「日本は負けることはない」と思っていた前田さん、「これまでの価値観が一変して、新しい価値観を探して回った」。さまざまな本をむさぼるように読み、日本共産党の演説会にも参加しました。たどりついたのが「軍国主義は間違いだった。二度と国の意志で戦争をおこしてはならない」という考えでした。「戦争のない国、平等な世の中をつくりたい」。そんな思いで、一九四八年、日本共産党に入党しました。

 前田さんは五、六年前から、赤紙配達の体験をまとまった形で語るようになりました。「海外派兵するきなくさい世の中になって、赤紙で男たちを戦場に送ってきた体験と重なる」からです。そして「赤紙は昔話ではない」と思いをこめて訴えます。

 「イラクへの自衛隊派兵の動きを見ていると、もう戦争の準備がはじまっている。それも今度は日本人がアメリカの戦争に参加させられる。アメリカ製の赤紙がくるような日本に絶対してはならないと思うんです」


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