2003年8月7日(木)「しんぶん赤旗」
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ヒマワリの黄色が鮮やかなことしの原水爆禁止世界大会のポスター。原画の作者はカザフスタンの大学生、レナータ・イズマイロワさん(21)です。平和への思いをこめてかきあげました。
五日、世界大会に参加しているレナータさんと広島県の民主商工会青年部の村田進さん(36)たちが交流しました。
村田さんたちは、ヒマワリの種にメッセージを添えて普及する「ピース・サンフラワー運動」にとりくんでいます。
メッセージは呼びかけます。「…地平線には/大地を揺らす/地雷ではなく/平和の証である/花の種を植えよう 世界中に散りばめよう/ともに生きる幸福を/取り戻すために」
![]() 懇談した(左から)村田さん、レナータさん(前)、レナータさんのお父さん(後ろ)、広島県商連事務局の屋敷誠司さん=5日、広島市内 |
レナータさんは、にっこり笑って「とてもすてきな呼びかけ文ですね」。
村田さんは運動について説明します。「イラク戦争が始まろうというとき、広島に住む業者として何かできないかと考えたんです。ヒマワリは種もたくさん採れます。その種をどんどん広げていこう、と」
旧ソ連のセミパラチンスク核実験場の近くで生まれたレナータさん。趣味は絵を描くことです。近所にはヒマワリがたくさん咲いているといいます。「ヒマワリはロシア語で『小さな太陽』といいます。明るくて楽しい絵を描きたかったのです」
苦労もあります。障害があるため、絵のサイズが大きいとき、手が届かないのです。そういうときはキャンバスを逆さまにひっくり返して描きます。
絵は、レナータさんの気持ちや苦しみを表しています。世界大会国際会議で発言しました。
![]() 「Article9(憲法9条)」と書かれたメーセージカードとヒマワリの種 |
「新しい一日はどんな日でも、太陽の光に照らされて始まります。太陽はすべての生き物にあたたかさと光を与えてくれます。五十八年前のある日、太陽と並んで空で何かがピカッと光りました。一瞬その光は『もう一つの太陽』のように見えました。ただし、その光は生きるためのエネルギーを与えてくれるものではありませんでした」
そして「私たち全員を本物の太陽が照らしてくれますように」と核兵器の廃絶を呼びかけました。訴えは、参加者の胸を打ちました。
村田さんはヒマワリの種をレナータさんに手渡し、「核実験の被害を受けたセミパラチンスクと、原爆を投下された広島。ともに連帯していけるところがあるのでは」と尋ねます。
「その通りです」。レナータさんは核実験の被害者の一人として、地元で青年の平和団体「サレナ」をつくり、セミナーを開いて広島・長崎のことなどを伝えています。「悲劇を二度と繰り返させない。戦争ではなく平和を、との思いを参加した人たちと分け合っています」
村田さんの妻は被爆二世です。「二人の子どもたちは三世。孫ができたら四世です。私たちが負った被爆の歴史を忘れずに伝えていきたい」
レナータさんも大きくうなずいて共感を示します。「地元では障害をもって生まれる子どもが増えています。私たちは次の世代のために、放射能がどういうものであるか伝えなければなりません。子どもたちがおとなになったとき、きちんとした選択ができるように」
レナータさんは、原水爆禁止世界大会国際会議で、次のような発言をしました。
◇
一九四九年、「核の太陽」は、カザフスタンの人々に、他に比べることのできない被害をもたらしました。それはセミパラチンスク核実験場での初めての原子爆弾の実験でした。「核の太陽」はその光線で私の健康を焼き焦がし、私の人生を台無しにしました。
私の生活は特殊で、ふつうの人の生活ととても大きな違いがあります。家族の助けなしでは私は何もすることができません。核実験が残したものを受け入れて生きていくのはとても苦しいです。
自分の未来を考えると不安になります。大学を終えて専門知識を得ても、身につけた知識を生かすことができるのだろうか、就職できるのだろうか、被爆者であることで社会にとって必要でない人間になりはしないだろうか、と。
核兵器の改良のために、私は大きな代償を支払わされています。それは、私の生活、私の家族の運命という、とても残酷な代償です。世界のどこかでテロ事件が起こったり、どこかで戦争がはじまったことを知るとき、また、紛争を解決するために核兵器を使用するとき、私の胸は痛みます。
私は新しい若い世代の代表、二十一世紀を生きる人々の代表です。同時に核兵器の実験の被害者でもあります。わたしたち二十一世紀の若者こそが、世界中を危険にし被爆者の心を痛みで満たす、そんな核兵器が存在しなくなるようにしなければならないのです。