2003年8月4日(月)「しんぶん赤旗」
「確かにそのとおりにやっていないということになれば約束は守られていない。しかし、もっと大きなことを考えないといけない。この程度の約束を守れなかったのは大したことではない」
今年の通常国会冒頭の予算論戦(一月二十三日)で小泉純一郎首相がのべた言葉です。「国債発行額を三十兆円以内に抑える」などの首相の言明が守られたのか、という追及に答えたもの。その投げやり度は、“荒れる小泉語”の皮切りといえるものでした。
「三十兆円枠」自体は、ムダ遣いの削減につながらず、「財政危機だから」という口実で社会保障の負担増など、国民生活向け予算の削減のテコとして使われました。その結果、個人消費をいっそう冷え込ませ、二・五兆円の税収不足を招き、新たな国債発行を迫られるという悪循環に陥りました。その意味で、「約束を守れなかった」のは小泉「改革」の破たんの象徴でもありました。
同時に、この発言が問いかけたのは、首相の「公約」の重さを否定するのかということでした。
首相は「いかに景気が悪くても、三十兆円以上国債を発行しなければ景気回復しないんだという態度はとりません」と何度も言明。そして、「この方向に対して多くの国民は期待を寄せている」とものべていました。ところが、首相はあっさりと「約束は守れなかった」「大したことではない」といったのです。これでは、国民は何を信頼していいのか、ということになります。
自らの「公約」破りを平然と認めて恥じない首相の姿勢には、自民党の政治的退廃が現れています。
国民の信頼を裏切るという点では、「政治とカネ」をめぐる小泉語も同様です。昨年、ムネオ疑惑をはじめ口利き事件が多発しました。日本共産党など野党は、公共事業の受注企業からの献金禁止を提案。首相も「自民党に検討させる」と指示したはずでした。
ところが、今年、自民・公明から出てきた案は、公共事業受注企業の献金制限には一言もふれないばかりか、献金者名の公開基準を現行五万円超から二十四万円超へ引き上げてヤミの部分を拡大しようという改悪案でした。
これにたいしても、首相は「誰に献金したかわからなければ、もっと献金したいという人もいる」と大賛成。自分の指示は一体どこにいったのでしょうか。
いま、小泉首相は自民党総裁選に向けて、「総裁選の公約が総選挙での公約になる」と強調。マスメディアは「小泉マニフェスト(政権公約)」ともてはやしています。
しかし、自ら言明してきた「公約」を守れなくても大したことはないという態度では、どんなマニフェストを出してきたところで、国民は「その程度のもの」とみるしかありません。