2003年7月13日(日)「しんぶん赤旗」
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一九九三年七月十二日午後十時十七分、地震と大津波が北海道の日本海側を襲った北海道南西沖地震。あれから十年。死者・行方不明百九十八人の大被害を出した奥尻町(奥尻島)では十二日、町主催の犠牲者追悼式や防災シンポジウムが持たれ、地域では遺族会や住民が、偲ぶ会や防災行事を開き、新たな歩みを誓う一日になりました。
青苗中学校での犠牲者追悼式。悲しみを乗り越え、全国からの温かいご支援で島はこんなに元気になりました―と、遺族代表で話した野呂由美子さん(24)は父と妹をなくしました。「お母さん、一人でよくがんばったねと父が天国から見守っているよ。これからも強く生きていこうね」と語ると会場は静まり返ります。
犠牲になった百九十八人の名前が読み上げられ、全員で黙とう。鴈原徹町長や高橋はるみ道知事が追悼の辞をのべ、参列者が献花しました。
奥尻島は日本海に浮かぶ周囲八十四キロの漁業と観光の島。人口は約四千人。その島を十年前のこの日、魔の手が襲いました。いまそれを防ぐ防潮堤が住宅街を囲み、低地の住宅地は高台に移転しました。
青苗漁港でホッケ漁の網を修理していた田中秀行さん(68)は「津波で家を流されショックでもう島を出るしかないと函館や千葉に行ったけど、やっぱり島がいい。みな、やればなんとかなると思ってがんばってきたんだよ」と振り返ります。
青苗地区で商店を営む主婦(80)は、「ここから先(岬)の人はみなうちのおとくいさんだった。顔を思い出すね。十周年が一区切りだと思うと、余計胸がいっぱいになる」といいます。
住民や日本共産党の制野征男町議ら「時空翔(じくうしょう)を燈(とも)す会」は、青苗地区の高台にある慰霊碑「時空翔」を五百本のロウソクで囲み、犠牲者をしのびました。
災害で町に全国から寄せられた義援金は百九十六億円。復興事業を続けて町は九八年三月、「復興宣言」をしました。
(北海道総局 富樫勝彦記者)