日本共産党

2003年5月1日(木)「しんぶん赤旗」

メーデーの歴史

8時間労働制が原点

暮らしと平和の要求掲げて


 第七十四回メーデーは、労働法制の改悪やリストラ競争、健康保険の本人三割負担などで国民の暮らしと雇用が脅かされ、米英両国による無法なイラク戦争と軍事占領統治が続き、先制攻撃の戦争に日本が参戦する有事法案の策動が強まるなかで、雇用と暮らし、平和の要求を掲げて開かれます。そのときどきの経済的、政治的な要求を掲げて、労働者と国民が立ち上がってきたメーデーの歴史と伝統をみてみました。

起源は米国のスト

 メーデーの起源は、一八八六年五月一日、長時間労働で苦しむアメリカの労働者が八時間労働を要求して約三十五万人がストライキに立ち上がったことです。

 不当な弾圧で一時後退したアメリカの労働者は、再び立ち上がります。これに連帯してエンゲルスの指導する国際組織の第二インターナショナルが呼びかけ、一八九〇年五月一日、世界の労働者が八時間労働を要求してストやデモを展開したのが第一回メーデーです。

 今、八時間労働の原則を崩す長時間労働が横行し、裁量労働を拡大する改悪が提案されているとき、「八時間は働き、八時間は睡眠し、残りの八時間は自由な時間に」というメーデーの原点は、人間らしい労働へ今日的な意味をもっています。

 第二回メーデーからは、ヨーロッパ列強による植民地の分割競争で、世界の平和が脅かされる情勢下で、戦争に反対し平和を守る政治的な課題も結んで掲げられました。

 日本では一九二〇年に第一回メーデーが東京・上野公園で一万人余が参加して開かれました。失業の防止や最低賃金法の設定とともに、八時間労働制、ロシア革命干渉のためのシベリア出兵の即時撤兵を決議しました。

 ビラを配り、革命歌をうたっただけで検挙された厳しい抑圧のもとでも、メーデーは暮らしと権利、自由と平和の旗を掲げて続けられました。

 中国侵略と太平洋戦争の中でメーデーは十年間禁止されていましたが、敗戦後復活しました。

 労働運動は、組合員が四五年末の約三十八万人から翌年は十倍に飛躍し、あらしのような発展をとげました。四六年、東京・皇居前広場の中央メーデーは「働けるだけ食わせろ」などのスローガンのもと、五十万人の労働者で埋まりました。

安保闘争高揚の中

 安保条約反対や千二百人余の指名解雇とたたかう三井三池争議のうねりのなかおこなわれた六〇年のメーデーは、全国八百カ所以上で五百万人が団結の力を示しました。

 六〇年代後半から七〇年代はじめにかけては、大幅賃上げ獲得やベトナム侵略戦争反対、沖縄の即時全面返還などのプラカードを掲げて、全国で六百五十万人から七百万人が参加する統一行動に発展しました。

 八〇年代、連合と全労連という二つのナショナルセンター(全国中央組織)の時代に入り、中央メーデーも八九年から、それぞれ開催するようになりました。

拡大する要求一致

 二十一世紀を迎えて自公政権の悪政のもとで、労働組合の掲げる要求の一致が拡大しています。

 世界と日本の労働者・国民のたたかいと団結の力の前進、国際連帯が刻み込まれたメーデーの歴史と積極的な伝統を引き継ぎ、第七十四回メーデーを成功させましょう。


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