日本共産党

2002年11月17日(日)「しんぶん赤旗」

「拉致調査妨害」など事実無根

 ――日本共産党国会議員団はこの問題にどう取り組んだか

前参議院議員 橋本敦

 『文藝春秋』十二月号は、「不破共産党議長を査問せよ」と題する兵本達吉氏の一文を掲載しました。これにたいし、日本共産党はただちに反論の掲載を要求し、橋本敦前参議院議員が執筆した反論を、同誌編集部に届けましたが、同誌はその掲載を拒否しました。橋本氏の原稿全文を本紙に掲載します。


 『文藝春秋』二〇〇二年十二月号に「不破共産党議長を査問せよ」などという一文が掲載された。「日本共産党こそ拉致調査を妨害した元凶である」と言うのが、その内容のすべてであり、ウソと中傷に満ちたものである。その筆者が、私の参議院議員時代の秘書だったものであるだけに、彼をよく知るものの一人として、また日本共産党国会議員団のなかにあって、拉致問題究明にいささか力を尽くしてきたものの一人として、真実を明らかにすることは、私の責任でもあるだろう。

一、一九八八年三月、参院予算委で一連の事件を正面から取り上げて追及

 一九七七年から一九七八年に新潟・福井・鹿児島の海岸から、若い男女が失踪(しっそう)したのか、連れ去られたのか、突如、行方が判らなくなるという、人命にかかわる重大かつ異様な事件が発生した。それは、現在、北朝鮮による拉致事件であることが明白になった一九七七年十一月の横田めぐみさん、一九七八年七月の蓮池薫さんと奥土祐木子さん、同じ七月の地村保志さんと浜本富貴恵さん、同年六月の田口八重子さん、同年八月の市川修一さんと増元るみ子さんらの事件であった。今日ではこのほか、曽我ひとみさんと母ミヨシさんの事件をはじめ、十五名のみなさんを拉致被害者と政府は認定している。

 これらの事件は、事件発生当時には社会の関心を集める重大事件とはなっていなかったが、家族の不安と心痛は筆舌に尽くし難いものであったことは言うまでもない。

 国民の基本的人権を守る弁護士として活動してきた私は、参議院議員になってからも幸い法務委員会に属し、国民の人権の擁護や犯罪による社会的不正をなくす課題に取り組んでいた。

 そうしたなかで、一連の拉致疑惑事件が重大な社会問題となってきたのは、一九八〇年代に入ってからのことであった。一九八七年に起きた大韓航空機爆破事件では、わが党はこれを北朝鮮による無法なテロ行為であると厳しく批判したが、その事件の直接の犯人とされた金賢姫が、日本名の旅券を保持していた上、同人の教育係であった李恩恵(田口八重子さん)が北朝鮮の工作員によって日本から拉致されたという衝撃的な事実を告白した。

 この事件の解明が社会的に重大な関心を呼ぶことになり、一九七七・七八年の一連の若い男女の蒸発事件の究明も新たに大きな課題となってきたのである。

 私が質問でも紹介しているところだが、一九八八年二月九日には、読売新聞が「日本の浜を無法の場にするな」という社説で、「『李恩恵』という人物についての真相解明を急ぐべきであり、北朝鮮側によるら致が事実とあれば、わが国は北朝鮮に対し、原状の回復を求め、同時に、その責任の所在を明確にするための適切な措置をとることが必要である」と述べ、また、同じ日の朝日新聞も「事実とすれば、日本の主権にかかわるきわめて重大な事件である。…日本の警察が北朝鮮にら致されたのではないかとみている三組の男女についても、疑惑は大きく膨らんでいる」と書いた。

 また、一九八八年二月上旬に発売された雑誌論文でも、「拉致事件をスクープした記者の記録」によって、富山での一九七八年の拉致未遂事件をはじめ、福井・新潟・鹿児島での男女蒸発事件の具体的状況が克明に報道されるに至った。

 このような状況のなかで、私は、いよいよ一連の事件をまとめて重大な政治課題として国会で取り上げる必要を痛感した。

 それは第一に、速やかな真相究明により解決すべき国民の人命と基本的人権にかかわる重大な問題であること、第二に、相手がいかなる国であれそれが外国の政府関係機関による犯行であれば、わが国に対する重大な主権侵害事件であり、民主的法治国家として絶対に看過できない問題であることが明白だからである。

 私はこれを、私の議員室の会議で、なんとしてもやるべきであり、やろうと提起した。その当時、私の議員室は、私の他に秘書二名で構成されており、その一人が兵本君だった。

 二人の秘書も賛成で、質問のための準備、調査は、現地に赴いての実情調査は兵本君が担当し、政府関係からの聞き取りや新聞報道などの資料収集は別の秘書が担当することとした。

 さらに私は、この問題の重要性から考えて、法務委員会で法務大臣相手に質問するよりも、政府に対する総括的質問として予算委員会において質問するのが適当であると考え、そのことを党議員団の国対委員会に報告して了承を得た。準備には橋本室をあげて取り組んだ。

二、参院予算委で拉致疑惑を認める政府の最初の公式答弁

 一九八八年三月二十六日、第一一二国会参議院予算委員会での拉致疑惑問題の総括的な質問にあたっては、前述の現地調査とともに、政府関係者からの聞き取りや資料調査をもとに、何度も部屋会議を重ねて討議し、意見を出し合って質問構想を固めていった。もちろん最終的には質問者である私が、私の責任において詳細な質問原稿を練り上げて質問に臨んだ。三晩ほど徹夜に近い準備をしたと記憶している。

 答弁のための私の要求大臣は、国務大臣・国家公安委員長梶山静六、外務大臣宇野宗佑、法務大臣林田悠紀夫の各大臣と政府委員の城内康光警察庁警備局長らであった。

 私はまず、大韓航空機爆破事件から質問に入って、梶山国家公安委員長から、この李恩恵が実は日本女性で「日本から拉致をされた疑いが持たれることから、事態の重大性にかんがみ、今後とも国民の協力を得つつ解明に力を尽くす所存である」との答弁を得た上で、一連の拉致事件を総括的にまとめて質問に入った。

 それまでの調査検討で、私は、第一に、これらの事件の若い男女には自殺の恐れや失踪の理由など毛頭ないこと、第二に、営利目的の誘拐など日本国内の犯行とみられる状況がまったくなく、また、富山での未遂事件の遺留品が日本製のものと判断されないことからみて、国外からの犯行の可能性があるとの強い心証を得ていた。

 そこで、まず警備局長に対し、三件の状況を警察はどうみているかを質(ただ)したところ、警備局長は、これらの事件については「自殺することは考えられない」「家出などの動機はない」と答弁し、「諸般の状況から考えますと、拉致された疑いがあるのではないか」とはっきり答弁した。警備局長は、富山事件の遺留品について「製造場所とか販売ルートなどは不明」、つまり日本製でないかもしれないことを認めた。

 そこで私は、質問を次に進め、前述した雑誌記者のルポやその他の報道、二人の秘書の調査などをもとにして、つぎのように梶山国家公安委員長に迫った。

 「この三組の男女の人たちが行方不明になってから、家族の心痛というのはこれはもうはかりがたいものがあるんですね。

 六人のうちの二人のお母さんは、心痛の余り気がおかしくなるような状況に陥って、その子供の名前が出ると突然おえつ、それから精神的に不安定状況に陥るというのがいまだに続いている。それからある人は、夜中にことりと音がすると、帰ってきたんじゃないかということで、その戸口のところへ行かなければもう寝つかれないという思いがする。…

 それから新潟柏崎というのは長い日本海海岸ですが、万が一水にはまって死んで浮かんでいないだろうかという思いで親が長い海岸線を、列車で二時間もかかる距離ですが、ひたすら海岸を探して歩いた。あるいはまた、…あらゆる新聞、週刊誌を集め、もう真っ黒になるほどそれを読み直している家族がある。本当に心痛というものは大変なものですね。

 こういうことで、この問題については、国民の生命あるいは安全を守らなきゃならぬ政府としては、あらゆる情報にも注意力を払い手だてを尽くして、全力を挙げてこの三組の若い男女の行方を、あるいは恩恵を含めて徹底的に調べて、捜査、調査を遂げなきゃならぬという責任があるんだと私は思うんですね。そういう点について、捜査をあずかっていらっしゃる国家公安委員長として、こういう家族の今の苦しみや思いをお聞きになりながらどんなふうにお考えでしょうか。」

 私がこう切り込んだのに対し、梶山国家公安委員長と宇野外務大臣は、明確に次の通り答弁したのである(議事録より)。

 ○国務大臣(梶山静六君) 昭和五十三年[一九七八年]以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えております。

 ○国務大臣(宇野宗佑君) もし、この近代国家、我々の主権が侵されておった…このような今平和な世界において全くもって許しがたい人道上の問題がかりそめにも行われておるということに対しましては、むしろ強い憤りを覚えております。

 こうして初めて、一連の事件について、北朝鮮による拉致という濃厚な疑惑があることを、政府は公式に認めたのである。

 これを受けて私は、私の質問の政治的見解・基本的主張を次のように論じて、この質問を締めくくった。

 「私はこの問題は、日本国内において断固としてこういった不法な人権侵害や主権侵害は許さない、この男女を救わねばならぬという国民世論がしっかり高まることと、国際的にも相手がどこの国であれこんな蛮行は許さぬ、そして誘拐された人たちは救出せねばならぬ、それが人道上も国際法上も主権国家として当然だという世論が大きく沸き起こる中でこそ、捜査の目的を遂げ、そして法律的にも事実上もきちんと原状回復を含めて始末をするという方向が強まると思うんですね。わが党も、相手がどこの国であれテロや暴力は一切許さないという立場で大韓航空機事件でも対処しているわけですが、そういう立場で、これらの人たちが救出されること、日本政府が毅然(きぜん)とした対処をとることを重ねて要求したい。」

 この私の質問は、北朝鮮による拉致の疑惑の存在を、政府の公式答弁としてはじめて明確にしたもので、現状の認識のみならず、今後の事件の解明の手順と被害者と家族のみなさんの権利回復救援のための展望と方向を示唆する重大なものであったが、わが党の新聞「赤旗」が翌日一面に大きく報道した以外に、各紙がこれを積極的に取り上げなかったのは、今にして残念に思う。

 拉致問題に関心が高まってきていたとはいえ、当時の状況はまだこのようなものであった。

三、拉致疑惑解明のその後の取り組み

 そして、この拉致事件が、疑惑の段階から事実として確認されるまでには、まだ長い年月の被害者と家族の皆さんの苦しみと闘いがあり、国会でのわが党をはじめ各党の追及があり、さらに日朝国交正常化交渉、両国首脳会談を待たなければならなかった。

 一九八八年以後、拉致疑惑の解明問題が大きく動いたのは、横田めぐみさんの件が大きく明るみに出た一九九七年になってのことであった。

 実は、一九九七年一月二十一日に、横田めぐみさんについての情報を父親の横田滋さんにお伝えしたのは、私の部屋からであった。私の部屋に、横田めぐみさんが北朝鮮で生活しているらしいという情報が寄せられ、それを兵本秘書が議員会館の私の部屋でお伝えしたのであった。

 横田さんご夫妻は、熟慮の上、実名で救出運動に立ち上がることを決意され、同年二月には朝日放送・産経新聞・『アエラ』なども横田めぐみさん拉致事件を初めて実名で報道し、三月二十五日には「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」も結成されるに至った。

 このような被害者家族の皆さんの切実な要求実現を支援するために、私は政府に対して拉致疑惑解明にいっそうの努力を求めて、さらに質問する必要があると考え、同年六月五日、参議院法務委員会で質問に立った。

 「初めて耳にした娘の消息に私の体はショックと驚きで震えました。議員会館のある永田町に向かう途中、次第に娘は生きていたという喜びが湧き上がってきました。一刻も早くめぐみを救出できるなら自分の命さえも惜しいとは思いません。代われるものなら代わってやりたいと思うのは、子を持つ親なら誰でも同じではないでしょうか」という『文藝春秋』誌に寄せた横田滋さんの文章を引きながら、政府として「関係閣僚会議、そのもとで必要な対策室を設けるなど」して、早急に必要な総合的統一的体制を作って疑惑解明に積極的に取り組むよう強く要求した。

 さらに同年十一月十三日、私は、法務委員会において質問に立ち、いっそうの事件解明に努力するとともに、家族の皆さんに可能な限りの情報を提供することを、政府に約束させた。私は、その後、九八年四月七日にも、政府に対して、拉致事件の徹底的な解明を求める質問を行った。

 拉致疑惑解明は、私一人ではなく、議員団として取り組んでいたので、私のほかに、諌山博参議院議員が一九九〇年六月二十五日、同院地方行政委員会で、さらに九八年三月十一日、木島日出夫衆議院議員が同院法務委員会で、それぞれ私とも緊密に連絡しつつ質問に立って、政府に対し、疑惑の解明と外交的努力を強く求めている。

 木島議員はその質問で、一九九七年八月に行われた日朝国交正常化に向けての審議官級の予備交渉と、それに続いて行われた日朝間の赤十字連絡会議の状況について質したが、政府の答弁は、北朝鮮側は拉致の事実はないと言い、与党訪朝団の訪問を受けて、「一般の行方不明者として調査する」と言うのみで、まったく具体的な進展がなかったことを示した。そのため木島議員は、「もっと毅然たる態度で交渉に臨んでほしい」と強く要望した。

 この木島質問の結果、日朝間のこのレベルの交渉では、拉致疑惑の究明はできないことも明らかとなった。日朝間の諸懸案とともに拉致問題の解明を正式の議題として、高いレベルによる正式の日朝国交正常化交渉を進めることが重要な課題であることが明白となった。

 私も前述の九七年六月五日の質問では、この拉致疑惑事件の解明と被害者の救済のためには、北朝鮮との国交関係がないという「難しい壁をどう乗り越えて」解決に向かっていくのかは、「政府としても本当に大事な問題」であると指摘していたが、右の木島議員の質問は、結果として日朝間の正規の国交正常化交渉の努力がいよいよ必要となっていることを示したと言える。

 以上の経過からも明らかなように、重大な拉致の疑惑はあっても、拉致犯人は犯人の特定が可能ななんらの直接証拠も状況証拠もまったく残していないのであるから、国内の捜査や調査には限度があり、しかも国交がないため正式の対外交渉も捜査協力も得られないのであるから、この壁を乗り越えて拉致の疑惑を「事実」であるというところまで究明するためには、日朝間の権限のある正式の交渉に待たなければならないということが、事件の性質からいっても、また事態の進展の上からみても、次第に明らかになったのである。

 しかし、その肝心の日朝間の国交正常化交渉も一九九二年十一月から中断したままであり、その上、一九九八年八月の例のテポドン騒ぎで日朝間はいっそう対立的な雰囲気が拡大していた。

四、日朝正常化交渉についての不破委員長(当時)の道理ある提案と成果

 このような時、わが党議員団の拉致疑惑解明と被害者救済のための一貫した国会質問の流れを受け、一九九九年にいたって、不破委員長(当時)が一月とさらに続いて十一月の二度、衆議院本会議代表質問に立って、拉致問題など両国間の諸懸案の解決のためにも、日本と北朝鮮との政府間交渉の正常なルートを開くべきだと提案したのである。

 大事な提案なのでその中心部分を引いておく。

 「北朝鮮の政権あるいは政権党が、国際社会におけるルールについて、われわれと共通の常識をもたないことは、私たちもよく知っています。日本共産党自身、北朝鮮の側から、国際的な道理を無視した不当な攻撃をくりかえし受けたために、一九八二年以来、北朝鮮の政権党といかなる関係ももっていません。しかし、国際的な平和と安全のためには、また不測の事態を未然に防止するためには、相手がそういう状況にあればあるだけ、日本の側が、国際的な道理をふまえ、問題を平和的に打開する態度をつくすことが重要であります。(そして、その見地から、不破委員長は次のことを提案した――)北朝鮮と正式の対話と交渉ルートを確立する努力を、本腰を入れて、真剣におこなうべきだという問題であります。」(一九九九年一月二十一日)

 「首相。政府には、北朝鮮との関係で、日本がなにをめざすかの外交目標を明確にする責任があります。日本自身、北朝鮮との間には、ミサイル問題、拉致問題などいくつかの紛争問題をもっていますが、それは、交渉によって解決すべき交渉の主題であって、その解決を交渉ルートをひらく前提条件としたり、すべてを他の国の外交交渉にお任せするといった態度では、問題は解決できません。

 また北朝鮮は、戦前の侵略戦争と植民地支配によって日本が被害をあたえた国ぐにのなかで、その清算がまったく未解決のまま残っているただ一つの国です。そのことの解決をふくめ、北朝鮮との国交の問題などにとりくむ日本自身の責任ある立場をしめす必要があります。」(一九九九年十一月二日)

 この二回の提案が、一九九九年十二月の日本共産党の穀田衆議院議員、緒方参議院議員をふくむ超党派訪朝団の派遣に結びついた。そのときの朝鮮労働党との会談で、日朝の政府間交渉について前提条件をつけないで再開することで合意に達し、翌二〇〇〇年四月から七年半ぶりに、日朝正常化交渉が再開された。

 不破提案が、まさに道理にかなったものであったことは、事実によって証明された。二〇〇二年九月十七日の日朝首脳会談で、金正日総書記は八件十一人の拉致を事実であると認め、「遺憾であり、率直にお詫(わ)びしたい」と表明した。こうして、北朝鮮による拉致の疑惑は、交渉の中で、もはや疑惑ではなく明白な事実となり、それをさらに解明してゆく場も道筋も明らかになったのである。

 それにしても、示された結果は余りにも痛恨である。

 志位委員長は談話の中で次のように述べた。

 「わが党は、拉致という許すことのできない犯罪がおこなわれていたことにたいして、きびしい抗議の態度を表明するものである。

 さらにわが党は、北朝鮮政府に、本日明らかにされたものが北朝鮮がかかわる拉致問題のすべてであるのか、拉致犯罪をおこなった責任者はだれなのか、拉致被害にあった方々がどのような扱いを受けたのかなど、真相を全面的に明らかにすることをもとめる。また責任者の厳正な処罰と、被害者への謝罪と補償がおこなわれるべきことは、当然である。」

 国民の生命と人権、わが国の主権にかかわるこの深刻かつ重大な事件について、日本共産党がその解明と解決のために継続して、一貫して力を尽くしてきたことは、何人にも明らかである。

五、ウソで固めた兵本元秘書の日本共産党攻撃

 以上の事実と経過にてらせば、本誌(『文藝春秋』)十二月号で私の元秘書兵本君が「日本共産党こそ拉致調査を妨害した元凶である」などと断じていることのでたらめさは、あまりにも明白であろう。

 彼は、「橋本敦議員の質問を準備したのが私だった」という。質問の準備は、私を先頭にして兵本君を含む私の部屋全体でやったのだし、一九八八年の時点でこの問題を取り上げ質問しようと提起したのは、ほかでもない、この私である。質問原稿も、秘書二人の調査結果や資料をふまえつつ、私自身が自ら議員としての責任において苦労して練り上げて書いたのだ。私が兵本君のスピーカー役をつとめたかのような言い分は、思い上がりもはなはだしく、無礼というべきだろう。

 確かに、兵本君が、拉致問題で私の秘書として活動をしてきたことは事実である。私の秘書としての彼の活動は、どんな場合でも私の責任になるものだが、私は、彼のそういう活動を制限するどころか、むしろ最大限自由にやらせてきたといっていい。その一端は、たとえば彼が、「九七年から九八年にかけて私は全国を駆け回り、拉致疑惑の解明のために全力を尽くした」などとのべていることでも、裏書きされている。

 こういう兵本君に、拉致問題に関心をもつ党本部のいくつかの部局が話を聞きたいといったことは、なんら不思議ではない。それを、「妨害」とか「嫌がらせ」などというのは、意図的なねじまげ以外のなにものでもない。

 彼が、私にも党の国際部にも断ることなしに、単独で韓国大使館に赴いたことにかんしては、それが党の外交活動を彼の独断ですすめるという意味合いをもつ行為であるだけに、党が注意したのは当然のことである。

 私が、拉致問題にかかわる兵本君の行動にストップをかけた数少ない具体例の一つについて、彼が書いていることには明白なウソがある。九七年四月の彼の二度の神戸行きの件である。北朝鮮系の「地下組織の元工作員」の紹介で拉致問題に通じた「地下組織の責任者」か何かに会いに行きたいといってきた件(二十日の神戸行き)と、それに続いて、朝鮮労働党の幹部が船で神戸港に入るという情報にもとづいて外務省職員をともなって会いに行きたいといってきた件(二十二日の神戸行き)の二件である。これは、党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかった。

 最初の件については、事前に相談があった。私は、即座に止めたし、国対の担当者であった佐々木陸海衆議院議員とも相談した。佐々木議員も直接兵本君に会って、「地下組織」といったものとの接触などすべきではない、調査活動の枠を超えるし、何よりも危険だからといって、止めたのである。

 後の件については、兵本君はすでに外務省関係者にも連絡して、翌朝一緒に出発することを決めた後、深夜に電話で私に了解を求めてきた。このときも私は、佐々木議員と連絡しつつ、絶対にだめだと繰り返した。日本共産党は、朝鮮労働党と断絶状態にある。その日本共産党の議員の秘書が、労働党幹部と外務省職員を引き合わせ、勝手な話し合いを行うことを認めるならば、政党としてのけじめをまったく欠いた行動になることは、普通の常識をもつものならわかることだ。

 兵本君は、佐々木議員が「不破さん〔当時党委員長〕の直々の指示だ」といって二十日の神戸行きをとめたといい、二十二日の神戸行きに際しては、「不破委員長の秘書室」からの電話で、「労働党幹部との交渉のテーブルには絶対につくな」といってきたと書いている。最近の公明新聞によると、勝手な行動をしてはならない云々(うんぬん)と「不破さんから直々に言われた」と、兵本君は語っているそうである。これらはみな大ウソなのだ。最初は私と佐々木議員が止めた。二度目は私が止めたが、止められないとわかって、最後に佐々木議員とも相談して「北朝鮮の幹部とは絶対に会ってはならない」と指示した。二十二日の朝、東京駅を出ようとする兵本君からの電話をうけて制止したのは、党の織田優参議院事務局長である。不破委員長や秘書室がどうのというのは、真っ赤なウソなのである。

 そういうウソまでならべて、兵本君は、彼の活動を「党」が妨害したといいたいのだろう。しかし、兵本君は、こうした私たちの制止にもかかわらず、二回とも神戸に行ったのだ。そして、二回ともめざす相手に会えなかったのである。これが、いったい拉致問題解明へのどういう妨害だったというのか。妨害というのもウソなのだ。ついでにいえば、私は、この二回の神戸行きにかんしてさえも、兵本君の出張経費の支出を承認している。今となっては、これは甘かったと思っているが。

 兵本君は、彼の除名そのものが、拉致問題調査への妨害だったといいたいらしい。とんでもない話だ。大体、彼は、九八年三月で定年を迎えていた。彼の活動をやめさせたければ、そこで退職させればよかったはずだが、実際には、私も、国会議員団事務局も、彼の半年間の定年延長を党本部に要請し、党本部もそれを了承した。韓国大使館行きも、神戸行きも、兵本君の除名の理由ではない。拉致問題は除名とはまったく無関係なのである。

 問題は、この定年延長の間の九八年五月、『文藝春秋』の彼の一文でも引用しているとおり、彼が、赤坂の料理屋で警視庁警備公安警察官と会食し、彼の退職後の就職の斡旋(あっせん)について面接を受け、自分の採用を事実上依頼する対応をしたことだったのである。この点について、彼は「日本共産党らしい作為」だとかいろいろ弁明しているが、見苦しい限りだ。

 彼が、当時国会の同僚秘書に「退職後の身の上相談」としてもちかけた内容が重大だったので、事務局の織田優君らが兵本君に直接事情を聞くことになった。そこで彼が、積極的に語ったところによれば、公安警察官との「面接」の詳細は次のようなものだった。

 指定された料理屋に行った。「案内した女性や仲居さんが、とても水商売の女性とは違い、婦人警官のようなしっかりした感じがし、警察庁の関係の料理屋という感じだった」。案内された部屋で待っていると、現れたのは「四十五歳から五十歳くらいの、厚手の眼鏡をかけた、おとなしそうな大学教授風」の人物で、「警察庁警備局公安一課」という肩書きの名刺を出した。――兵本君はこの男と二時間近く会食し、兵本君の経歴などを男が知悉(ちしつ)していることを知らされて驚いたりしている。この会食の意味についても、兵本君は、「退職後の就職の斡旋であり、相手は政府の役人であり、拉致問題で政府の仕事に就ける人物かどうかの面接であったと理解している」と語っている。

 警備公安警察は、日本共産党対策を中心任務とする秘密政治警察の核心であり、日本共産党は公安調査庁とともにその廃止を要求している。こういう警察官の「面接」を受け就職斡旋を依頼するなどということが、党員として許されないのは、当たり前ではないか。こうして兵本君は、定年延長期限が切れる八月末の直前に除名処分となり、秘書を罷免となっている。兵本君がその後、秘密政治警察など党破壊勢力の手先の役割を、手を変え品を変えて忠実に果たすに至っていることは、周知の事実だ。

 兵本君は、拉致問題での日本共産党の「基本姿勢をしめす明白な証拠」などと称して、二〇〇〇年十月の党首討論などでの不破委員長(当時)の発言を引き、政府が「拉致疑惑」といっている以上、それにふさわしい交渉の仕方をと不破氏が政府に求めたことを、「拉致疑惑の棚上げ」と何の論拠もなく断定している。

 不破委員長は、拉致行為が重大な国際犯罪であるという認識に立って、この問題を政府として北朝鮮に提起する以上、捜査の到達点、すなわち「疑惑」の段階にふさわしい、足場を固めた交渉が必要だと主張したのである。これは、当然の理性的な提起であり、「棚上げ」でもなんでもない。

 兵本君は、「〔日本共産党が〕拉致問題を棚上げすることによって、日本国政府より先に北朝鮮と関係正常化を図る。いち早く良好な関係を築けば、利権の確保も狙える。こういった目論見があれば、拉致被害者の存在など日本共産党にとって邪魔者でしかない。拉致問題への数々の妨害行為も納得がいくというものだ」と述べている。日本共産党の「数々の妨害行為」「拉致問題棚上げ」などというありもしないものをウソを交えてでっち上げた結果、そのつじつま合わせに、日本共産党は北朝鮮との良好な関係を築いて「利権をねらっているのだ」という、荒唐無稽(むけい)なでっち上げを積み重ねるところまで、兵本君は落ちている。もはや言うべき言葉もない。

 日本共産党国会議員団が、拉致疑惑を先駆的にまた積極的系統的に追及し、この問題で新しい局面を切り開く上で大きな力を発揮したことは、厳然たる歴史の事実である。どんなウソや策謀も、この事実を消し去ることは絶対にできないだろう。

 


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