2002年10月28日(月)「しんぶん赤旗」
この先どうなるのか。どうすればいいのか。それが見えないとき、人は底知れぬ不安にかられます。「くらし最前線」第一回の「“救い”求めて」(二十一日付)で紹介した東京・荒川生活と健康を守る会の「くらしの相談会」には、最近、「先が見えなくなった」と来る人が増えています。「続“救い”求めて」――。竹本恵子記者
同会の丸山秀子事務局長は、「相談会には、今すぐ生活保護が必要な人だけでなく、それなりに働き暮らしてきた人が家族の病気や退職などをきっかけに先が見えなくなったとくる人が増えてきた」と語ります。破たんの日に備えて、入会していくというのです。
「都営住宅申し込みの相談ですか」。そう尋ねられて、「なにもかもです」と、安田清子さん(64)=仮名=はこたえました。
守る会の相談会があることを宣伝の音で聞いた夫の博さん(60)に「いってきてくれ」と頼まれました。
博さんは六月、三十四年勤めた皮革関係の会社を定年退職しました。不況のため年々減給され、退職時月給は手取り二十五万円。年金は月額十二万円ほどです。
六十歳から支給されるはずの年金は六十一歳からにくりのべに。定年による失業給付は昨年四月、三百日から百八十日へと短縮されました。
社宅も出ていかなければいけません。1DKのアパートを借りても六万円はかかる。退職金もわずか。貯金は葬式代程度で、「あと何年生きるのか」と考えるととりくずす余裕はありません。
独立している息子夫婦はマンションのローンに追われ、「おれたちのころは年金はないな」とつぶやきます。娘夫婦は事業が思うようにいかず、家計は娘さんの肩にかかっています。
「とても頼れる状況じゃないんです」と清子さん。
年金の切り下げや消費税増税が安田さん夫婦の不安をさらにかきたてました。
一九四二年生まれの博さんは、中学卒業後、大阪の玩具会社に就職しました。高度経済成長時代、労働力不足から若者は「金の卵」と期待されました。出身は九州の小さな町。大阪に向かう列車のなかは、集団就職の若者でいっぱいでした。
「寮で朝七時に食事をすませたら、営業にでる。一人が四百五十軒は担当して、近畿全域を回りました。夕方六時、七時に帰ってきてもまた内勤の手伝いをして、銭湯にいくのはいつも十二時を回っていた」
その後、会社の移転とともに関東に移り、転職。同じ町の出身だった清子さんと職場結婚しました。前の会社が倒産、現在の会社にかわったときは、清子さんは妊娠していました。
「当時他人の家の土間を間がりしたちっぽけな会社だった。会社を大きくしたかった、子どものためにも」。その一心で働きました。博さんの売り上げはいつも一番。地図だけをたよりに右も左もわからぬ町で新規開拓をする日々でした。会社は今、四階建てになりました。
「働いてきたことに悔いはない。でも、年金証書に年金をかけたのは五百十四カ月(四十二年十カ月)とあった。それでこの年金とは…」。博さんは、ショックで寝込みました。
「金の卵」という言葉はすぐに忘れられ、学歴で悔しい思いをしたこともあります。「社宅の家賃が安かったから、二人の子どもにだけは学問をと、私もパートで働いて大学へいかせました。それがムダだったというのですか。もっと貯金すればよかったというのですか」と清子さん。
今は、病弱で働けず、年金もない清子さん。蓄えにと掛けてきた簡易保険も解約しました。商店街で五百円の洋服を買えば喜び、総菜が安くなる午後八時に買い物にでかけるような暮らし。
そんな二人にはささやかな夢がありました。中古のマンションを買うことと、これまで持てなかった車を買って時間に追われない旅をすること。「旅館なんかにとまらなくてもいい、車に毛布をつんであちこちいきたいなって。それもだめなんでしょうか」
清子さんは七歳のとき、母親と満州から引き揚げてきました。途中、妹を亡くしました。「飢えていたから、佐世保についてもらったイモがおいしくてね」。食糧難のため、親せきを訪ねても、邪魔者扱いされました。
苦労に苦労を重ねた二人の人生。
「だけど守る会にいって、ああ本当に困ったら、ここを訪ねればいっしょに考えてくれるってわかりました。せめて安い都営住宅にでもあたれば」
相談できるところがある。頼れる人たちがいる。その安心感が、安田さん夫婦を暗い不安のトンネルから救い出したのです。
何度も眠れぬ夜を過ごしたあとに、清子さんは初めてのラブレターを夫にあてて書きました。
「お父さん長い間ご苦労さま。…あせらずゆっくり頑張っていきましょう」
「初めてああいうのをもらったから。感謝してますよ」と、博さんは照れました。