日本共産党

2002年10月26日(土)「しんぶん赤旗」

モスクワ劇場占拠事件

チェチェン武装勢力の犯行


 二十三日にモスクワの劇場を占拠した武装集団は「チェチェン戦争の中止」を要求し、チェチェンでロシア軍とにらみ合う武装勢力が犯行声明を発表しました。数百人を人質にした蛮行に対する批判が高まる一方、チェチェンでの「テロ掃討作戦」を進めるロシアのプーチン大統領にとって、政権の存立基盤をゆるがしかねない事件でもあります。長期化するチェチェン紛争の背景を振り返りました。 (モスクワで北條伸矢)


テロに走る分離独立勢力

武力抑圧続けるロシア政府

 ロシア南部・北カフカス地域に位置するチェチェン共和国の面積は、岩手県とほぼ同じ約一万五千平方キロ。推定人口約百万人の大半がイスラム教徒です。

 十八世紀末から始まった帝政ロシアのチェチェン併合の際、激しい抵抗戦争を繰り広げた歴史があります。また、スターリン時代には「対独協力」を理由に、民族ごとシベリアに強制移住させられた悲劇も経験しました。スターリン時代以来のソ連の圧政がチェチェン人の独立志向を強めてきたのです。

 ソ連各地で分離独立運動が高揚した一九九一年、チェチェンは独立宣言を採択し、同年十二月の住民投票でも97%が独立を支持しました。ソ連崩壊後のロシア新連邦条約締結に際しては、後に連邦と個別の分限条約を結んだタタルスタンとともに調印を拒否。その過程でイングーシ人と合同で構成していたチェチェン・イングーシ共和国が分裂しました。

 チェチェン政府はその後、スターリン時代に導入されたチェチェン語のロシア文字表記をラテン文字に戻し、連邦議会選挙をボイコットするなど、独立に向けた諸策を次々と打ち出します。

流血続いた8年

 これに対し、ロシア系住民を中心とする勢力は危機感を抱き、分離独立派との内戦がぼっ発。九四年十二月、エリツィン前政権が「憲法秩序の回復」を理由に軍事介入を開始し、第一次チェチェン戦争が始まりました。

 しかし、ロシア軍は住民の抵抗に直面して苦戦し、一般住民を含む死者の合計は十万人以上に達します。えん戦気分が広がってエリツィン政権の支持率も低下する中、九六年に休戦協定が締結され、翌年一月、ロシア軍は撤退しました。同時に、独立問題を五年間凍結することでも合意しました。

 九七年一月、欧州安保協力機構(OSCE)などの監視下で大統領選が行われ、元チェチェン軍参謀総長のマスハドフ氏が当選。ただ、一部の野戦司令官らが近隣地域を攻撃するなど、政情不安が続きます。

 こうした中、九九年八月に首相に就任したプーチン現大統領は、同年九月にモスクワなど大都市で爆破事件が続発したのをきっかけに、チェチェンへの再進攻を決定しました。現在まで続く「第二次戦争」の始まりです。

 ロシア軍は廃虚と化すまで空爆して、翌年二月までに共和国の首都グロズヌイを制圧しましたが、武装勢力が南部山岳地帯に退却した後、戦況はこう着状態です。今年八月末までのロシア軍側の死者は四千三百人を超え、武装勢力側の死者は約一万四千人。命を失った一般住民は数え切れません。

国内からも異論

 事態を悪化させた最大の原因は、ロシア側が「武力による紛争解決」に固執していることにあります。第二次戦争では「反テロ」を口実に国内外から“理解”を得ようとしたものの、一般住民と武装勢力を同一視した乱暴な掃討作戦、兵士の暴行が横行し、武装勢力に批判的な住民からも白眼視されています。

 国内の世論も軍事行動に懐疑的です。今年三月の世論調査では、「軍事行動の継続支持」30%に対し、「交渉による解決」が60%以上を占めました。「強い指導者」として登場したプーチン大統領ですが、軍事行動継続への疑念が広がれば、支持基盤が脅かされかねません。

 プーチン政権は、昨年九月の米同時多発テロ事件以降、旧ソ連中央アジア諸国への米軍駐留を容認するなど、米国との反テロ協調路線を推進。米国主導の反テロ作戦への支持と引き換えに、チェチェンでの軍事行動に対する“理解”を得ようとしています。しかし、武力による紛争解決が無力であることは、チェチェン紛争の八年間が雄弁に物語っています。

「独立の大義」汚す

 一方、劇場占拠事件を起こしたチェチェン武装勢力は、「テロ組織」としての性格を自らさらけだす結果になりました。紛争の平和的解決への道を閉ざす愚行であり、いかなる理由があっても、劇場を占拠した行為は正当化できません。

 武装勢力がテロ行為に手を染めるようになった背景には、アラブのイスラム過激組織出身の雇い兵の影響があるとみられます。チェチェン人が関与する犯罪行為を武装勢力側が十分取り締まってこなかったのも原因です。加えて、国際テロ組織「アルカイダ」と関係が深いアフガニスタンのタリバン前政権がチェチェンの独立を唯一承認していたことも、「独立の大義」を汚す決定的な弱点になっています。



チェチェン関連年表
 1991年
8月 ソ連クーデター未遂事件
11月 ドゥダエフ退役空軍少将がチェチェン大統領に選出される
12月 ソ連からの独立を問う住民投票で97%が独立を支持
 ソ連崩壊
 1992年
3月 チェチェン、ロシア新連邦条約の調印を拒否
12月 ロシア、チェチェン・イングーシ共和国からのチェチェン共和国の分離を承認
 1993年
12月 チェチェン、連邦議会選をボイコット
 1994年
 分離独立派と反対派の内戦が始まる
12月 ロシア軍、「憲法秩序の回復」のため軍事介入を開始(第1次チェチェン戦争)
 1996年
4月 ドゥダエフ共和国大統領、ロシア軍のロケット攻撃で死亡
8月 チェチェン側とロシア軍が独立問題の5年間凍結と休戦で合意
 1997年
1月 共和国大統領選で独立派のマスハドフ元チェチェン軍総参謀長が当選
 ロシア軍がチェチェンから撤退
 1999年
2月 共和国全土にイスラム法を公布
3月 ロシアがチェチェン駐在政府代表を全員引き揚げ
8月 プーチン連邦保安局(FSB)長官が首相に就任
 ロシア軍、チェチェンに隣接するダゲスタン共和国で軍事介入を開始
9月 モスクワの2カ所のアパート、南ロシアなどで爆破事件が連続発生。死者多数
 ロシア政府、大規模な「反テロ作戦」の開始を宣言(第2次チェチェン戦争)
12月 ロシア軍、グロズヌイに進攻開始
 プーチン首相、大統領代行に就任
 2000年
2月 プーチン大統領代行、「グロズヌイ解放」を宣言。以後、戦闘の中心は南部山岳地域に移る
3月 ロシア大統領選でプーチン氏が当選
5月 プーチン氏が大統領に就任
6月 連邦政府、チェチェンに「暫定行政機関」を設置
8月 モスクワ中心部の地下街で爆破事件
 2001年
3月 プーチン大統領、駐留ロシア軍の削減を指示し、作戦の主導権をFSBに移行
 チェチェン報道で政府批判が目立ったNTVテレビの役員が追放される
5月 ロシア政府、99年夏以降のロシア軍側死者が3千人を超えたと発表
9月 米国で同時多発テロ
10月 ロシア、「反テロ」目的で中央アジアへの米軍駐留を容認
 2002年
5月 「反テロ」訓練のため、米軍事顧問団がグルジアに到着
 米ロ首脳会談で「反テロ」協調を確認
8月 武装勢力、ハンカラ基地でロシア軍ヘリコプターを撃墜(死者118人)
10月23日 チェチェンの武装集団がモスクワの劇場を占拠
(モスクワで北條伸矢)

 


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