日本共産党

2002年8月25日(日)「しんぶん赤旗」

戦争の物証残そう 地元で保存運動

毒ガス訓練の陸軍習志野学校


 戦前、毒ガス戦を指揮する幹部を養成する陸軍習志野学校が千葉県津田沼町大久保(今の習志野市泉町)に設置されたのは一九三三年八月。いま「戦争を二度とやらないように」という思いをこめ、わずかに残る建物の一部などを保存、公開しようという運動が千葉県で続いています。

市も前向き答弁

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「習志野の森」で揮ごう者の名前が削りとられている「動物慰霊之塔」について語る川鍋さん

 「日本の近現代史のマイナスの遺産です。ここで国際法違反の毒ガス研究と訓練をしました。戦争を二度とやらないという思いをこめ、物証保存の運動を九五年からしてきました」

 「習志野学校」研究会の川鍋光弘さん(70)は、そう語ります。

 同会は、千葉県平和委員会、習志野市平和委員会、千葉県歴史教育者協議会とともに保存運動をやってきました。

 習志野学校跡地の大部分は現在、宅地や保育所、公園に。しかし、注意深く歩くと民家の境に裏門の門柱が、公園のあずまやの下に弾薬庫の入り口跡が残っています。

 「習志野の森」には習志野学校の本部の基礎や「動物慰霊之塔」も。

 保存運動をしている人たちは、この森に平和を祈念する碑や記念館を建てて、物証も保存することを望んでいます。

 毒ガスの中和・排出塔や出土した八面総ガラス張りのガス室の土台とみられるものが九五年の団地建設で破壊されました。

 この時、千葉県平和委員会、習志野市平和委員会が塔の煙突の一部、毒ガスの送風機を譲り受けました。市に要請し、市内の習志野こどもセンターの庭に保管されています。

 日本共産党の吉田順平市議(70)は、六月市議会で、この遺物を市で展示すること、そのための資料館、博物館をつくることを要望。市側は「そういう博物館等については検討材料になっております」と前向きに答弁しました。


散毒地帯を防毒衣で

当時の生徒、吉谷さん証言

 東京都在住の吉谷泉さん(79)は、一九四四年四月から十二月まで幹部候補生として陸軍習志野学校で毒ガス戦の訓練を受けました。

 習志野学校では、糜爛性(びらんせい)ガス(イペリットとルイサイト)、くしゃみガス、催涙ガス、青酸ガスを使っていました。学科では、どういう種類の毒ガスがあって、どう使うかを教わりました。

 訓練では、習志野演習場の中に、軽戦車で引いたバキュームカーで液体の糜爛性ガスをまき、散毒地帯をつくりました。その中を全防毒衣(ゴムびきの気密服)を着た吉谷さんたちは、ほふく前進。終わったら石灰をかぶって除毒しました。隣の班の二十人くらいが除毒に失敗し、腕や足に大きな水疱(すいほう)ができ、激痛に苦しめられたこともありました。

 起床前に、突然、くしゃみガス、催涙ガスが放たれ、毒ガスの中を兵舎から逃れ出るという訓練も。ガスマスクを着け間違うと七転八倒しました。

 「ここの図書室にあった戦訓集には、山西省をはじめ中国での毒ガス使用例が記載されていました。日本軍は、国際法に違反の毒ガスを対ソ連戦のために準備しました。しかし、逆襲されるとの判断でソ連には使わず、毒ガスにほとんど無防備な中国に使ったのです」

 


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