2002年7月14日(日)「しんぶん赤旗」
人口約八億を擁するアフリカ五十三カ国を糾合する新組織「アフリカ連合」(AU)創設が九日、南アフリカ共和国のダーバンで開催された式典で宣言されました。AUは、三十九年間にわたってアフリカ大陸を結束させてきたアフリカ統一機構(OAU)に代わり、欧州連合(EU)をモデルにアフリカ諸国の政治、経済統合をはかり、紛争のない繁栄したアフリカ大陸を目指す国家連合組織です。
AUは一九九九年九月にリビアのシルテで開催されたOAU第四回特別首脳会議の宣言で設立が決まったものです。翌年七月、トーゴの首都ロメでの首脳会議でOAU憲章に代わるものとして採択された「AU創設憲章」は、二〇〇一年五月には加盟国の三分の二にあたる三十五カ国が批准し、発効しました。
八日のOAU最後の首脳会議に続いて開催されたAU創設総会では、首脳で構成される総会のほか、閣僚理事会、常設代表委員会などの機関が正式に発足しました。また将来の方向として常設軍を持つことも決定されています。紛争問題を扱う平和安全理事会は当面はOAU時代にあった機関が役割を代行します。
また紛争の予防、効率的な統治や人権擁護などを誓約することを条件に、先進工業国からの投資や支援を獲得し、貿易を増進することを目的にアフリカ諸国で合意された「アフリカ開発のための新パートナーシップ」(NEPAD)も総会の承認でAUとしての方針となっています。カナダのカナナスキスで開かれた主要国首脳会議(G8)に参加したアフリカ首脳はG8のNEPAD支持を取り付けています。
NEPADはその一八六条で「開発パートナーと新たな交渉の必要があるときは大陸の尊厳に責任を持つ」の条項があり、これは東西対立の時代から援助と引き換えにさまざまな制約を課せられてきたアフリカ諸国の教訓が反映しています。
AUは創設憲章上、汎アフリカ議会や将来の通貨統合をにらんだアフリカ銀行、国家間の紛争解決のための司法裁判所を持ちますが、その設置は将来の課題となります。
AUの前身であるOAUは、アフリカ大陸の植民地が次々に独立し「アフリカの年」といわれた一九六〇年の三年後の六三年五月、アフリカ最古の独立国エチオピアのアディスアベバで開催されたアフリカ首脳会議で誕生しました。加盟国は当時のアフリカ独立国三十二カ国、帝政から共和国までその国家形態はさまざまでしたが、アフリカの繁栄と植民地の一掃という点で一致していました。
この三十九年間、OAUはアフリカの植民地を一掃するための各国国民のたたかいを支援し、最悪の人種差別形態だった南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)体制を廃絶するために大きな役割を果たしました。
その半面、OAUはアフリカの経済的な発展に十分な力を発揮することができませんでした。その典型は八〇年代半ばに深刻化したアフリカの飢餓にみられます。世界の後発途上国四十九カ国中三十四カ国がサハラ以南のアフリカに集中、一日一ドル以下で生活する貧困人口が65%を占めるという深刻な状態の出口は見えていません。
また一部の国での独裁者による人権抑圧、各国内での部族対立などの紛争解決には、OAUはほとんど無力な状態が続きました。九四年から始まったルワンダ内戦による民族間の大虐殺など破滅的な状態を看過することになりました。
アフリカの抱える経済困難や紛争は、アフリカが民族国家が形成される前に植民地列強によって分割支配され、自立的な経済が確立されず、民族や部族が国境線とは異なったモザイクを形成していることと無縁ではありません。
OAU内でも、こうした弱点を克服する努力は始まっていました。一九八〇年のOAU特別首脳会議で決定されたラゴス行動計画など、経済社会問題などへの取り組みも行われ、九一年にはアフリカ経済共同体(AEC)設立条約も締結され、地域ごとの経済協力から大陸全体の市場統合への目標も策定されました。また地域紛争の解決や防止への動きも開始されていました。
OAU最後の首脳会議では、AU創設の提唱者といわれるリビアのカダフィ大佐がAU創設憲章を改正し「アフリカ統一国家創設」を盛り込むよう突然提案し、会議が紛糾しました。AU最初の議長国となった南アのムベキ大統領は六カ月以内に特別総会を開催することなどで、関係諸国間の対立を緩和する努力を行っています。北アフリカのイスラム国家から南端の南アまで、国家体制だけでなく、主義主張も違う国々が連帯していくことの困難が象徴されています。(夏目雅至記者)