2002年7月8日(月)「しんぶん赤旗」
繰り返される“在韓米軍の犯罪”が、2人の女子中学生の命を奪いました。2人が米軍用車両にひかれ無残な死を遂げてから3週間。韓国・ソウルから北へ20キロの京畿道・議政府市にある米第2師団司令部前で抗議行動が続いています。(京畿道議政府で面川誠)
六月十三日、議政府市の西に隣接する楊州郡の一般道路を、近くの中学校に通う女子生徒、シン・ヒョスンさん(14)とシム・ミソンさん(14)が、友人の誕生日パーティーに向かっていました。背後から、ごう音とともに七台の米軍用車両が迫ってきます。道路は片側一車線ずつの二車線。ゆるい上り坂の右端を歩く二人のすぐわきを、先頭の装甲車が通り過ぎました。韓国では車両は右側通行です。
続いて二台目の兵員輸送車が通り過ぎ、三台目の仮設架橋運搬車が二人の背後にさしかかります。この時、反対車線を別の米軍装甲車五台が擦れ違おうとしていました。三台目の車両の幅は、一車線分の幅を超えています。三台目が衝突を避けるため右に車体を寄せた瞬間、二人は悲鳴を上げる間もなく、キャタピラーの下敷きに。
事件を起こしたのは米第二師団の工兵部隊。交戦中の移動作戦を一般道を使って訓練中でした。警察が駆けつけたとき、すでに現場は米軍によって手をつけられていました。「公務中」の事件は捜査・裁判権を米軍が持っているため、運転手に対する事情聴取もできませんでした。
米軍の態度はごう慢でした。当初は「正当な公務執行中の事故」だと開き直り、事件から六日後になって「狭い道路で軍用車両を擦れ違わせた指示は間違い」とだけ認めました。しかし、兵士の責任は否定し、「訓練については地元住民に事前に知らせていた」と、責任逃れのうそ発言まで飛び出しました。
友人を奪われた生徒たちをはじめ、地元住民の怒りは高まりました。六月二十日、約二百人の生徒たちが米第二師団司令部前の道路に座り込みました。二人の遺影を掲げ、涙でのどを詰まらせながら「殺人者を引き渡せ」、「ヒョスン、ミソンを返せ」と叫ぶ生徒たち。怒りと号泣の抗議デモは、夜遅くまで続きました。「走る凶器」。基地近くの住民たちは、米軍用車両をそう呼びます。「いつかこうなることは、米軍も分かっていたはずだ。これは事故ではなく、殺人なんだ」。農業を営む河清弼さん(57)は声を震わせました。
住民は日本の「基地の町」と似た悩みを抱えています。議政府市と周辺一帯は、韓国でも有数の米軍基地密集地。地元経済は「基地頼み」の部分が大きいのです。
「プデチゲ」という韓国料理があります。プデは「部隊」、チゲはなべ料理。粉トウガラシとニンニクを入れたスープに野菜、ハム、ソーセージ、インスタントラーメンの乾めんを入れるのが一般的です。材料の奇妙な取り合わせは、朝鮮戦争直後、食糧難に苦しむ庶民が米軍部隊から流出したヤミ物資で料理を作ったのが始まりで、議政府が発祥の地とされます。
「最近、プデチゲを見ると腹が立つ。米軍にすがって生きている気分になる。『基地頼み』の経済に甘えていたら、第二のヒョスンやミソンを見ることになるよ」。地元の土木業者、禹康一さん(49)が、はき捨てるように言いました。
四日、米第二師団司令部前では「女子中学生殺人事件糾弾、第三回国民大会」が開かれ、約五百人の市民らが参加しました。ラフォット在韓米軍司令官は同日、米陸軍に事件の「全面的な責任」があることを初めて認めました。韓国政府は、事件を起こした米兵を韓国側で裁くために、米側に刑事裁判権の放棄を要請することを検討中です。