2002年6月30日(日)「しんぶん赤旗」
ワールドカップ(W杯)韓国戦を応援する市民が街頭を埋め尽くす様子に、多くの韓国人が一九八七年の「六月民主化抗争」を思い起こしました。軍事独裁政権に対する市民の怒りを爆発させた大学生拷問致死事件が最近、テレビドラマ化され、多くの犠牲を伴った民主化の重みをあらためて実感させています。(ソウルで面川誠)
ドラマを制作したのは全国ネット局・文化放送(MBC)です。二十四日の放映当日、演出を担当したプロデューサーの李廷表氏(39)を放送局に訪ねると、最後の作業に追われていました。完成は放映わずか二時間半前。異例の難航ぶりでした。
事件の関係者はみな生存しており、一つ描き間違えれば、直ちに訴訟問題になりかねません。出演した若い俳優は、感情移入ができないのか、なかなか真に迫る演技をしてくれません。
李氏は、六カ月間にわたるドラマの編集作業に神経をすり減らしました。
「ソウル大生の朴鍾哲君は二十一歳で拷問死した。私は二十四歳の大学院生だった。みんな民主化を求めて街頭に飛び出した時期で、彼の死はひとごとではなかった」と振り返ります。
「わずか十五年前のことだが、もう人々の記憶から消えようとしている。民主化をたたかいとった歴史を人々の胸に刻み込みたい。『歴史を忘れる民族に未来はない』というでしょう」。李氏はドラマにかける思いを語りました。
八七年一月十四日、朴鍾哲氏は治安本部(現在の警察庁)「対共捜査団」に連行されました。手配中の運動家の居所を追及する五人の捜査官は、朴氏の両手を縛り上げ浴槽の水に頭を押し込む「水拷問」を繰り返し、朴氏を死亡させます。
治安本部は「取り調べ中の心臓まひ死」と発表、事件の隠ぺいに奔走します。「机をどんとたたいたら、ウッとうなって倒れた」という表現は当時、「しらじらしいうそ」を意味する流行語になりました。結局、五月二十日にカトリックの「正義具現司祭団」が全容を暴露、国民世論は沸騰しました。
学生、在野運動家が中心だった民主化運動に一般市民が大挙加勢し始めます。六月十日、全国で約百万人の市民が「朴鍾哲君拷問致死の隠ぺい糾弾、護憲撤廃国民大会」に参加、「六月民主化抗争」が幕を開けます。六月二十九日、政府・与党は民主憲法の制定を受け入れる宣言を発表し、軍事独裁が倒れました。
二〇〇〇年に発足した大統領直属機関「疑問死真相究明委員会」は現在、民主化運動に参加して不審な死をとげた八十五件の未解明事件を調査中です。委員会の広報を担当する柳漢範氏(36)も大学生時代、運動に身を投じました。「遺族の思いは一つ。かけがえのない肉親の死の真相を、民主化の歴史の真実として明確にしてほしいのだ」と強調します。
「自分も命を落としていたかもしれない」という柳氏は、「多くの学生や市民が命を奪われた。民主化の歴史は、運動家の歴史ではなく、平凡な人々が登場する市民の歴史だ」と語ります。
ドラマは、朴鍾哲氏を英雄視しません。一学生が、純粋な良心に従って運動に参加していく過程を誇張せずに描いています。李氏はドラマのタイトルを「純朴な青年 朴鍾哲」に決めました。
W杯に関心が集中した時期にもかかわらず、視聴率は予想を上回る11%でした。六月抗争に参加した中心世代は、いま三十〜四十歳代。社会の中軸世代です。放映を見逃した視聴者から、再放送を望む声が続々とMBCに寄せられています。