2002年6月18日(火)「しんぶん赤旗」
核保有国同士の核戦争の危機―。インド・パキスタンの軍事的緊張の高まりで、それが現実のものになりかけました。国際社会の働きかけで両国間の緊張緩和への動きがみられていますが、根本的な問題は解決されていません。紛争の平和的解決への努力がひきつづき求められています。両国がなぜ、これだけ深刻な対立を繰り返すのか。どうすれば和平へ向かうのでしょうか。(ニューデリーで竹下岳)
「決戦のときだ」。五月二十二日、インドのバジパイ首相は前線兵士に檄(げき)を飛ばしました。
インド北部ジャム・カシミール州を中心に、イスラム過激派による相次ぐテロ事件(別表)。五月十四日に発生した自爆テロ事件で、ついに「忍耐の限界に達した」(バジパイ首相)というのです。
これらのテロ勢力は、パキスタン軍の諜報機関ISI(統合軍情報局)が操っているというのが、インド政府の認識です。
バジパイ首相は、米国の対アフガニスタン戦争を例に挙げました。「反テロ」を掲げれば、どんな横暴も許されるという米国流を踏襲し、カシミール地方の実効支配線(停戦ライン)を踏み越えて、イスラム過激派の訓練キャンプを粉砕すべきだという考えです。
しかし、パキスタンは「一歩たりとも国土の侵害は許さない」と主張し、核攻撃の可能性も排除しません。インド軍関係者は「地域限定戦争」戦略を主張していましたが、識者は一様に戦争の「地域限定など不可能」と声をあげました。
内外の懸念の高まりから、パキスタンのムシャラフ大統領は九日、「『越境テロ』を即時かつ恒久的に停止させる」と公約しました。
また、インドはパキスタン航空機の領空通過禁止解除、アラビア海に展開していた艦隊の帰還など緊張緩和措置をとりはじめています。
何が両国の対立の根本にあるのでしょうか。
一九四七年、印パ両国が英国から分離・独立する際に、インドのヒンズー教徒と、パキスタンのイスラム教徒が相互に殺しあい、百万人が犠牲になりました。出発点から敵対関係をつくった両国の軍事的対立の発端が、カシミール問題でした。
両国の分離独立の時点で、カシミールは印パどちらにも帰属しませんでした。独立も模索して動揺していた当時のカシミール藩王(領主)はヒンズー教徒でした。住民の大多数はイスラム教徒でした。四七年秋からパキスタン側から不正規軍が侵入したのに対し、藩王はインド帰属に合意し、インド軍の派遣を要請。パキスタンは住民の意思を無視してインドが藩王からインド帰属をかすめとったと非難し、正規軍で参戦。宣戦布告がないまま第一次印パ戦争が始まりました。六五年、七一年にも両国間で全面戦争が発生しました。
七一年の第三次戦争は、インドの圧勝に終わり、現在の実効支配線(停戦ライン)が敷かれました。停戦協定では実効支配線の尊重、両国間の懸念事項は対話で解決することが取り決められました。
しかし、パキスタンは第一次印パ戦争の停戦時の国連決議がカシミールでの住民投票を求めていることを根拠に、あくまでカシミール問題の国際的な枠組みでの解決の希望を捨てていません。
こうした歴史に加えてカシミールの地方自治を形がい化し、産業育成を怠ってきたインド政府に対する住民の不満を背景に、八九年ごろからカシミールの分離・独立を掲げたテロ活動が始まりました。
「カシミール解放戦士」を名乗るテロ組織は昨年まで、パキスタンで公然と活動していました。インドは、パキスタン政府が彼らを操って騒乱を引き起こし、カシミール問題への国際社会の関与を引き出す戦略だと主張しています。
パキスタンの見解は、「カシミール解放を願う住民の自発的なたたかい」というものです。しかし、昨年十二月にイスラム過激派がインド議会襲撃事件を起こすという事態のなかで、ムシャラフ大統領は今年一月、過激派組織の「非合法化」を言明しました。
こうしたなかで、五月に自爆テロ事件が発生したことで、インドは“決着”をはかろうとしたのです。
カシミールでのテロ活動は、パキスタンの関与という外的な要因に加え、内在的な要因を無視できません。
インド・カシミール大学のパンジャービ教授は「カシミールの若者は、軍に入るかテロ組織に入るしか未来がないといわれる。政府が本格的な振興を進めない限り、テロ組織は若者を引きつけるだろう」と指摘します。
インド軍筋によると、テロ活動家の月給は約五千ルピー(約一万三千円)で、肉体労働者の平均月収並み。加えて、両親に十数万ルピーが支払われています。
インド軍や警察による住民の人権侵害も無視できません。テロ組織摘発の名目で数万人の住民が逮捕・拷問され、処刑される場合もあります。
実効支配線沿いでは住民の避難が続いています。パキスタン側「自由カシミール」関係者によると、多い年には万単位の難民がパキスタン側に入ってきています。テロ組織は、この現状をテロ活動を正当化する理由にしています。
六月に入っても、テロ組織と軍・警察との衝突が続き、住民の犠牲があいついでいます。アフガニスタンで米国が、アルカイダ、タリバン残存兵掃討作戦を続けるなかで、その残存勢力はパキスタンのイスラム過激派を支持していると伝えられます。大規模テロの危険性はなお残っています。
印パ両国の平和団体はこぞって「戦争でカシミール問題は解決できない」と声をあげました。
ジャム・カシミール州の著名な人権活動家、バルラジ・プリ氏はいいます。「インドにとどまるか、独立か。カシミールの未来について、住民には多くの意見がある。しかし、今はまず心から平和を求めている。印パ両国はこれ以上の軍事的緊張を避け、テロ根絶のための共同努力に踏み込むべきだ」
1999年5月 カシミール停戦ラインのインド軍拠点を占拠。印パ大規模紛争に
2000年3月 ジャム・カシミール州の少数宗派住民36人が虐殺
12月 デリー首都圏の軍駐屯地を襲撃。兵士3人死亡
2001年10月 ジャム・カシミール州議会で爆弾テロ。25人死亡
12月 インド議会を襲撃。警察12人死亡
2002年5月 ジャム・カシミール州ジャム近郊で自爆テロ。軍人家族ら34人死亡
日本共産党の不破議長と志位委員長は連名で七日、印パ両国首脳に書簡を送り、両国とも加わる非同盟運動の大義に立って(1)武装テロ勢力の越境侵入を含めあらゆる戦闘行為を停止し(2)事態の平和的打開のため両国間対話を再開し(3)核兵器不使用を声明するよう求めました。駐日両国大使も基本的に同意するこうした措置が、緊迫する印パ関係を打開し、紛争の平和的解決に道を開くために強く求められていることは、事態の進展からいっそうはっきりしてきました。