2002年5月24日(金)「しんぶん赤旗」
先日、一般紙に籍を置いていた先輩スポーツ記者の話を聞く機会があった。
「中田英寿やイチローがなぜマスコミ嫌いといわれ、メディアに登場したがらないのか。それはマスコミを信頼していないからですよ。外務省の機密文書が新聞社ではなく共産党の佐々木憲昭議員のところへ持ち込まれたのも同じことです」
マスコミと権力の癒着から、国の貧困なスポーツ行政まで、体験を交えた話はなかなか刺激的だった。
なかでも、記者活動の永遠のテーマともいえる、目の前で起きていることをいかにわかりやすく伝えるか、の話は、言葉と“格闘”してきただけの迫力と重みを感じた。一つのプレーをとっても、その背景にある社会や時代を見なければ本質を正確に伝えられない、使う言葉は慎重に吟味し正確に――。
そういえばこの先輩記者、ラグビーの日本選手権で7連覇を遂げた新日鉄釜石を形容するのに「北の鉄人」の言葉をつくった人だったことを思い起こした。東北の地、仕事の内容、個々の選手の強さ、チームとしての結束力…。さまざまな特徴が4文字に見事に凝縮されていた。
こうした話を聞くにつけ、スポーツ・マスコミで気になることがある。戦争用語、軍事用語のはんらんである。「核弾頭」「切り込み隊長」「肉弾戦」「空中戦」…。
スポーツはたたかいであり、その迫力を伝えるのに勇ましい言葉を使いがちだ。しかし、スポーツのたどった歴史を思い起こせば、こうした言葉は安易に使えないはずである。
アジア諸国と日本国民に計り知れない苦しみをもたらした先の侵略戦争。銃剣で武装した夜間の奇襲部隊が編成された。これが切(斬)り込み隊であり、隊長はその先頭に立って敵陣に切り込んだ。その一方でスポーツは「敵性競技」として弾圧され、ついには消滅させられた。
スポーツは、競技を通じて相互理解を深め、友好・親善に役立つ。ひいては平和な世界づくりの一助となるものである。戦争は国家が起こす最大、最悪の暴力であり、スポーツとは両立しない。
そうであるならば、スポーツを論じるプロフェッショナルであるスポーツ記者は戦争にまつわる言葉にもっと敏感であるべきではないだろうか。
いま、国民が強制的に駆り出され、海外での武力行使に道を開く法案が国会に提出されている。憲法九条のピンチに、いっそうその思いが強い。(本紙スポーツ部記者)