2002年5月20日(月)「しんぶん赤旗」
四世紀に及ぶポルトガルの植民地支配や旧日本軍の軍事占領、インドネシアによる武力併合など外国の支配に終止符を打ち、二十日に新国家としてスタートする東ティモール。同日午前零時、独立記念式典の席上、ルオロ制憲議会議長が「東ティモール民主共和国」の独立を宣言します。その後、グスマン氏が宣誓、初代大統領に就任します。
グスマン氏とともに民族自決への苦難の道を住民とともに歩んできたカトリック教会のベロ司教(ノーベル平和賞受賞者)はこれに先だって十七日、「教師不足、食糧不足などの直面する問題について政府に全面的協力し、国づくりに努力したい」と決意を表明しました。
グスマン氏と首相になるアルカティリ氏はともに、東ティモール独立革命戦線でインドネシアの武力併合とたたかった仲。しかし、東ティモール独立革命戦線は、四月の大統領選挙でかつての独立反対派などとの「和解」を訴えたグスマン氏を支持しませんでした。
昨年八月の選挙で選出された憲法制定議会から移行した議会では、東ティモール独立革命戦線が過半数を占めています。
新憲法は前文で、「立法、行政、司法の三権分立の確保、複数政党制に基づく民主主義の確立を目指す」としています。
憲法は人民の苦悩のたたかいの歴史を反映して、死刑や終身刑を禁止し、言論・表現・報道・集会・結社・信仰の自由、請願権、労働基本権など全体の三分の一を人権擁護条項にあてています。
新内閣のラモス・ホルタ副首相・外相は、年内には東南アジア諸国連合(ASEAN)にオブザーバー参加したいとの意向を表明しています。
一九九九年十月以来、活動してきた国連暫定統治機構は独立を機に任務を終了し、新たに国連東ティモール支援派遣団が設置され、今後も約二年間、国連が軍事・文民両面でかかわっていきます。
支援派遣団は、日本の自衛隊も参加している五千人規模の軍事部門と千二百五十人の文民警察部門、約百人の文民支援部門で構成され、治安維持や国境警備に当たりながら自前の警察組織の確立や行政面の制度構築を支援します。
経済面では、これまでの外国の過酷な支配のために、コーヒー栽培以外目立った産業が育っていないなかで住民の雇用を創出し、暮らしを向上させるのは容易ではありません。
公用語は地元のテトゥン語とポルトガル語とされ、英語とインドネシア語が公務の実用語として使われます。
しかし、住民の大多数がインドネシア語を話してきたなかで、公務員にポルトガル語を習得させる作業や、ポルトガル語での教育の実施はたいへんです。
九九年の騒乱の際に独立反対派民兵が土地の登記所を破壊し、登記簿まで持ち去ったり焼却したために、土地の所有権をめぐる紛争もふえつつあります。
司法の制度と機関の確立も欠かせません。しかし、裁判官の養成で支援を表明していたニュージーランドが「ポルトガル語での裁判活動までは難しい」と表明する事態も生まれています。
山積する困難をどう克服し課題を達成していくか、大統領と首相、内閣、議会の役割とともに政党や人民の運動がカギを握っています。
グスマン氏は十七日、記者団との会見で第二次大戦中の日本軍政下での被害の賠償問題について、「これからの国を支える若い世代に過去のことは必要ない」と語っています。
しかし、東ティモールの元従軍慰安婦の代表二人が二〇〇〇年十二月に東京で開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」に参加しています。また、最近では、「東ティモール女性連絡協議会」が、犠牲者や被害者への補償を求める運動を始めています。
独立後の新政権と日本政府が、この問題でどのような対応をするか注目されます。(宮崎清明記者)
ティモール島は十六世紀にポルトガルによって占領されました。第二次大戦中には三年半にわたって日本が占領。一九四五年に東ティモールはふたたび、ポルトガル領になりました。
七四年にポルトガルで軍事独裁政権が倒れ植民地解放政策が採用され、七五年十一月に東ティモール独立革命戦線が「東ティモール民主共和国」を宣言しました。しかし、その直後にインドネシア国軍が侵略し、東ティモールを同国二十七番目の州として併合しました。
国連総会は七五年十二月、東ティモールの自決と独立の尊重や平和的解決、インドネシア国軍の撤退を求める決議を採択しました。
米国はベトナム侵略戦争に敗北したこともあり、民族自決の機運が東南アジアに広がるのを恐れて、国連での決議採択に棄権し、インドネシアのスハルト軍事独裁政権を援助、国軍にてこ入れしました。
日本政府は決議に反対し、スハルト政権への経済援助を続けました。
インドネシアで九八年にスハルト政権が崩壊した後に登場したハビビ政権は、東ティモールの帰属を住民投票で決める協定をポルトガルと結び、九九年八月三十日に住民投票が実施され、七八・五%が独立を選択しました。その直後に独立反対派民兵による騒乱が発生し、約二十六万人の住民がインドネシア領西ティモールに避難しました。いまなお、西ティモールに五万人余の避難民が滞在しています。
こうした人たちを含む住民の和解をすすめるために、ポルトガルが撤退した七四年四月から九九年十月までの人権侵害事件について調査する「東ティモール真実和解委員会」も設置されています。(宮崎清明記者)
東ティモール
面積は一万四千六百九平方キロで、四国の七割ほどの広さ。国土の三分の二が山岳地帯。人口約八十万人。首都ディリは人口約十五万人。住民はメラネシア系が中心で、約90%がカトリック教徒。赤道直下で高温多湿。一人あたり国内総生産は五百ドル弱。