日本共産党

2002年4月13日(土)「しんぶん赤旗」

(別紙)入手した資料の裏付け調査の内容と結果について


 日本共産党の志位和夫委員長が、十二日の記者会見で公表した内閣官房内部文書についての「(別紙)入手した資料の裏付け調査の内容と結果について」は次の通りです。


 わが党は入手した資料の発表にあたり、その真実性について多角的な検証をおこない、これらの資料が、内閣官房機密費の会計記録の一部であることは、まちがいないと判断した。検証によってあきらかになった事実関係は以下のとおりである。

1、「収入」についての検証

 「金銭出納帳」に記載された総額一億四千三百八十四万円の収入のうち一億四千三百万円が「長官より」とされ、七十万円と三十万円に分割された一件の例外(九二年十月二十日、同十一月五日)を除いて、すべて百万円単位で入金されている。

 これは、機密費の取扱責任者が内閣官房長官であり、佐藤内閣当時の官房長官であった竹下登氏が「報償費(機密費)というのは…やはり内閣官房長官の専権事項だね」(『政治とは何か――竹下登回顧録』)とのべていることとあわせて、以下の証言とも符合する。宇野内閣で官房長官をつとめた塩川正十郎氏の証言――「(機密費は官邸の金庫に)百万円単位で袋に入れてあります」(二〇〇一年一月二十八日、テレビ朝日系サンデー・プロジェクト)、元官房長官秘書官の証言――「官房長官の執務室には古い金庫があります。機密費はそこに入っています。封筒に百万円ずつ分けて入れてあり、帯封に銀行印などはありませんでした」(二〇〇一年二月十八日付「しんぶん赤旗」)。

2、「支出」についての検証

 この資料に記された支出の一つひとつについて調査した結果、その支出を裏付ける多くの事実が確認された。調査結果の詳細は、添付した一覧表のとおりである。

 政治家の「パーティー」への支出については、政治資金規正法で報告が義務づけられていないという当時の制約のなかでも、新聞各紙の報道によって、七十七人中十三人の政治家のパーティーが支出日と符合して開かれていることが検証された。

 「餞別」については、当時の官職を特定できた五人への「餞別」が、すべて異動日と符合している。また「餞別 綿貫100、小泉、熊谷50」として二百万円が支出された九二年四月二十八日の翌日には、綿貫民輔自民党幹事長(当時)が、小泉純一郎、熊谷弘両副幹事長(当時)とともに、自民党としての東欧諸国訪問に出発している。

 「香典」については、新聞各紙に掲載された訃報によって特定できた九件の支出がすべて符合している。

 その他にも、支出を裏付けるつぎのような事実が確認された。「長官地元入り経費」として二百四十五万円が支出された時期に、加藤紘一氏は「後援会会合のため」、官房長官になって初めて地元の山形県鶴岡市に帰っている(九二年八月二十九、三十日)。「スリーハンドレッド」として四十四万六千百五十七円が支出された日には、自民党執行部を招いた「接待ゴルフ」が茅ケ崎市のスリーハンドレッドクラブでおこなわれている。「(参)国対差し入れ」(九二年六月六日)、「国対差し入れ」(同六月十二日)の支出日には、それぞれ参議院、衆議院においてPKO法案の本会議強行採決をめぐる徹夜国会が開かれている。

3、政治的背景についての検証

 当時の政治状況と照らし合わせて検証した結果、その支出意図を合理的に説明しうる政治的背景を確認することができた(日付順)。

 「英国屋(権藤、二見、鶴岡)」と記載された百六十万五千円(九一年十一月十四日)と「英国屋(黒柳明)」と記載された百万円(同十一月二十六日)――当時国会ではPKO法案をめぐる与野党の激しい攻防がおこなわれていた。十一月二十七日には衆議院国際平和協力特別委員会で自民、公明両党がPKO法案を強行し、十二月三日には衆院本会議で、自公両党の賛成でPKO法案を可決した。同法案は、十二月二十日の参院本会議で、自公民、連合参議院の賛成で継続審議となり、廃案をまぬがれた。

 当時、権藤恒夫氏は公明党副委員長、二見伸明氏は公明党政審会長で公明党のPKO特別委員長、鶴岡洋氏は公明党の選対副委員長、黒柳明氏は公明党参議院議員団長であった。英国屋は高級紳士服の専門店で、高級服を仕立てて送ることが、「国会対策」として、ひろくおこなわれていたことは、以前から指摘されている。

 また、「国会対策費」としての機密費の使われ方については、衆議院の正副議長秘書の経歴をもつ平野貞夫参院議員のつぎのような証言もある。「共産党は受け取らなかった。公明党は最初は背広の生地ぐらいしか受け取らなかったが、昭和五十年代ごろからは受け取るようになった」(「朝日」二〇〇一年三月二十二日付)

 「河本敏夫」と記載された三百万円(九一年十二月二十日)と「海部前総理」と記載された三百万円(同十二月二十六日)――八八年十二月にリクルート疑惑で、蔵相を辞任にまで追い込まれた宮沢氏が、わずか三年で首相の座につくことができた背景には、海部氏の続投断念と、自民党総裁選挙で河本派が竹下派とともに宮沢氏を支持したことがあった。

 「総務会メンバー39人(背広)」と記載された千百七十万円〔集計表の「117」万円の記載は誤記〕(九一年十二月十七日)――当時、宮沢派の衛藤征士郎氏が、党大会につぐ自民党の最高意思決定機関である総務のポスト入りをめざしていたが、「当選六回(衆院)以上」という資格に欠けるため、総務会入りにストップがかかっていた。結局、「当選六回(衆院)」という原則が崩され、衛藤氏は十二月二十六日の総務会で正式に総務となっている。

 「商品券」と記載された三百十二万二千五百七十五円(九二年二月二十七日)――当時、国会では、共和事件にかかわる阿部元長官や宮沢首相のリクルート疑惑にかかわる首相秘書らの証人喚問を自民党が拒否したため、二月五日から十九日まで国会審議がストップしていた。結局、塩崎元総務庁長官の証人喚問、鈴木元首相らの参考人招致で、自民、社会、公明、民社が合意し、首相秘書、元秘書、阿部元長官らの証人喚問は見送りとなった。

 「粕谷茂(政治改革)」と記載された二百九十六万六千四百円(九二年三月五日)――粕谷氏は、当時、自民党の政治改革本部の本部長代理として、中選挙区制のもとでの「定数是正」の党内調整の取り仕切りをまかされていた。

 検証の結果あきらかとなったこれらの事実は、この資料が、内閣官房機密費の会計記録の一部であることを裏付けるものである。

 なお「金銭出納帳」の最後の二枚は、金銭出納帳を記帳していた人物が執行をゆだねられていた範囲の外の機密費の支出を、なんらかの事情で備忘録として記録にとどめたものと推察される。

 【官房機密費資料の裏付け調査の結果(一覧表)】


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